第五章 その4 機屋リューリ『後日、後悔の始まりと記憶される出会い』

七月の週末。

私はいつもの様にパパのいる施設に行く。

例年より遅く梅雨入りした外は雨。

元々地下水位の高い軽井沢は二、三日の降水で道路が冠水する箇所もある。


「今日も雨だわ、パパ…」

車椅子を押し、施設内から外の景色を見ながら、私はパパに話し掛ける。 


先日の練習試合の結果とか新しい学校の様子とか。


…まぁ、パパはまともに話せなくなってしまったから。

私が一方的に話すだけだけど。


介護士さんの許可をもらってパパの上半身を拭かせてもらう。


そこにはかつての面影もない、細いシワだらけの身体。

あの、彫刻のように美しい身体はどこにもなかった。


「リューリちゃんは偉いわね」


介護士の女性…布施 笑子ふせ しょうこさんがタオルを絞りながら私に言った。

皆からはショーコさんと呼ばれていた。

化粧は薄いが、それが却って彼女を年齢以上に若く見せていた。

いや、実際に三十手前、というところだろう。

左手の薬指に指輪はないが、仕事中は外しているのだそうだ。

つまり、既婚者。


何が偉いのだろう?

私は言われた事が分からず一瞬キョトンとする。


「お父さんのお世話よ。お見舞いも、毎週くるし」


「…好きでやってる事だわ」


「そう、やっぱり偉いわね」


の意味が恐らく彼女と私ではニュアンスが異なる。

私はパパが好き…愛おしいのだ。

愛する人の身体なら触れていたいのが当然。

毎日でも会いたいのは、当然。

褒められる事では、ない。


例えば。

私はパパの身体隅々まで世話がしたいから。

上半身だけどなく、下半身も拭かせてもらおうと思い、願い出た。

するとショーコさんは、

「そこまでしなくていいのよ」

優しく、私に言ったのだった。


違うわ。

あなたは勘違いしている上に、私の邪魔をしているんだわ。


一通りの世話を終え、名残惜しいけど、私はパパの部屋を出る。


ぼんやりとラウンジから外を眺める。

そこには相変わらずどんよりとした、絵に描いたような梅雨の空。


雨はいよいよ強くなり、地面に叩きつけられた雨水が窓ガラスに跳ね返る。


その時、自動ドアが開いて、一人の男性が施設内に走ってくる。


「いやぁ、まいった!午後は弱くなる予報だったのに」


車からここまで傘もなしに走ってきたのだろう。

紺色の上着も、白いスラックスもずぶ濡れだった。


日に焼けた、彫りの深い顔。

まいった、と言いながら、少しもまいった様子はなく。

嵐が来てはしゃぐ子供のようにその顔は屈託なく笑っていた。

雨に濡れた衣服は彼の身体の線を浮かび上がらせ、私は何故かそこに、パパの身体を想い重ねる。


「おっ、君は…」


私がいる事も最初から気付いているはずだが、わざとらしく私に目を向ける。


「…君…」


そして急に真顔。


「僕の被写体にならないかい?」


ニカッと笑い。

両手の人差し指と親指でカメラのファインダーを作り。

私を覗いた。


これが布施 良治ふせ りょうじとの出会い。


後に、私の…。


慟哭。


後に、私の…。


贖罪。


後に、私の…。


疑心。


後に、私の…。


後悔。


ホントに好きになった人にあげられなかった。


後に、私の…。


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