非凡と善良㉑
【栗棟乃愛】
高校生になって初めての文化祭は精神の消耗が激しいものとなった。
私は日がな部室にこもり、売り子として店番を務めた。本来なら文集の共著である東条先輩と交代で務めるのが道理だが、いくらポジティブにシミュレートしても東条先輩に客商売が務まるとは夢にも思えず、協議の結果、店番は私が一人で行うこととなったのだ。
目の前に平積みされた文集が一部ずつ売れていくたび、少し離れた位置にいる部員たちの冷ややかな視線が突き刺さるのを肌で感じ、針のむしろとはこういう状況を言うのだなと身をもって知った。
文集の売れ行きが好調なのは喜ばしいことだが、これが文芸部の崩壊につながっているのだと思うと、罪悪感が首をもたげてくる。
一週間前、水町部長より、文芸部から二種類の文集を出すこととなった旨のアナウンスが正式に為された。ディレクターはそれぞれ水町部長と東条先輩が務め、部長の座を賭けてその売上高を競い合うことも、包み隠さず打ち明けられた。
青天の霹靂のごとくもたらされた通達に部員たちはみな衝撃を受けている様子だったが、それほど事態を深刻に受け止めていない風でもあった。誰もが部長の勝利を根拠もなく信じていて、今後も変わらず文芸部でやっていけるだろうと高を括っていた。だから、唯一その総意に背いた「私」という存在は酷く悪目立ちした。
私が東条先輩の陣営に就くことは誰にも話していないにも関わらず電光石火の速さで部内に広まり、それを境に部員たちの私に対する風当たりは目に見えて変容した。
東条先輩を特別快く思っていない派閥からは「裏切り者」と罵られ、口もきいてもらえなくなった。そこまで露骨でなくとも、表面上は何食わぬ感じで接してくるが、会話の節々に棘やよそよそしさが感じられる人もいた。
もちろんそんな冷淡な人たちばかりでなく、有難いことに従来と変わらず友好的な態度で接してくれる人格者たちも中にはいた。部長と副部長、それから比較的部長に近しいところにいる先輩方だ。それとなく部長から根回しがあったのかもしれないなと察せられるが、そうした慈悲深い心配りはむしろ自分を苦しみの淵に追いやるのだった。
東条先輩の文集作成に加担すると決意したあの日以来、部長とはまともに会話をしていない。部長の態度に変化はなかったが、私の方が気まずくて極力顔を合わせる機会を減らすよう振る舞っていたからだ。
悲しみや背徳感は胸の奥底に仕舞い、それらの感情をバネにひたすら東条先輩との創作活動に打ち込んだ。
先輩ははじめ私の手を煩わせることはないと豪語していたが、蓋を開けてみれば文集が完成するまでの道のりはかなり険しいものだった。
私が原作の提供を承諾した時には既に改稿作業は大詰めを迎えていたらしく、その二日後に早速初稿が私のもとに提出された。その内容は良くも悪くも想像を絶するものだった。
文章の流麗さや息遣いが見違えるほど洗練されていて、その点については圧巻の一言に尽きた。しかし、ストーリーが所々改変されているのが気にかかった。要所要所で登場人物が勝手に消されていたり、エピソードの順番が入れ替わっていたりしたのだ。それが功を奏していると感じる箇所もなくはなかったが、やはり大部分は不満の方が大きかった。とりわけ物語の核心に迫る伏線が大幅に削られ、ストーリーラインがコンパクトにまとめられた分、登場人物の冗長な内面描写が随所に追加されている点はいただけなかった。
こんなのは私が描きたかった物語じゃない! と顔を真っ赤にして抗議した。無論、先輩にしても嫌がらせでストーリーを捻じ曲げたのではなく、そうせざるを得なかった事情はあるわけで、私たちは対面でもオンラインでも昼夜を問わず喧々諤々の議論を重ねた。双方の妥協点を探り合う中で、我の強い作者同士、時に感情論の応酬に発展することもあった。まるで殴り合いの喧嘩みたく互いが互いの意見をねじ伏せるよう激論に激論を尽くした。自分の中にこれほど好戦的な血が流れていたのかと驚くほどに、振り返れば憤怒の念を常時フルパワーで発揮していたように思う。
話が増えたり脱線したりした結果、当初は五万字程で完結していた物語は、その倍の十万字強もの文字数にまで膨れ上がった。もはや短編小説とは呼べない代物となってしまい、予算の都合上それ以上の文量を載せることはどう工夫しても難しく、結果的に先輩が書いた短編は掲載を見送る判断となった。
紆余曲折あったが、作品の出来に関しては一切の不満はない。少なくとも生涯見てきた作品の中でも一、二を争う出来だと自惚れられるほどには。
癪なことだが、東条先輩の力添え無くしては成し得なかったことだと認めざるをえない。裏返すとそれは自分の筆が未熟であることを残酷に物語っていて、やはりどうしようもなく打ちのめされた気持ちにさせられるのだった。
文化祭も佳境に入り、すっかり客足が途絶えた頃、隣のブースで店番をしていた小康路先輩が声をかけてきた。
「一部買わせてくれないか」
財布からお金を取り出そうとする先輩を見て、私は慌てた。
「そ、そんな、お代なんていいですよ」
「そういうわけにはいかない。一応、勝負中なんだから」
先輩は苦笑を滲ませながら自分のブースに積み上がった文集の山に一瞥をくれた。
「まあ、もう結果は見えてるけどな。俺がここで売上に貢献しようがしまいが勝敗に影響が出ることはないだろう」
どことなく覇気を欠いた口振りの先輩。
その心情は推して測れる。
現在の売上部数は部長陣営が二十九部、対する私たち陣営が八十二部とその差を大きく引き離していた。もう一時間ほどで文化祭はお開きとなる。この差が埋まることは天文学的なミラクルでも起きない限り望み薄だろう。
私は先輩からお代を頂戴し、一冊手にとって渡した。
「あの、私も先輩たちの文集、買わせてください」
私からの申し出に、小康路先輩は困ったようにはにかんで、かぶりを振った。
「気持ちだけもらっておく。売れ残った文集はバックナンバー庫に保管されて、部員ならいつでも自由に閲覧できるようになるんだ。早急に読まないといけないものも載ってないし、わざわざ身銭を切ってまでして手元に置いておく必要はないさ」
「気を遣って言ってるんじゃありません。私も途中まで制作に関わっていたものですから、最終的にどんな感じに仕上がったのか、ずっと気になってたんです。だけど、立場上、言い出しにくくて……」
そう言うと先輩はもの悲しそうに目を細めてから自分のブースに足を運んだ。山から一冊手に取り、私の元に戻ってきて、ほら、と手渡してくる。私が代金を取り出そうとするのを、先輩は手を突き出して制してきた。
「後輩から金を貰うわけにはいかない。そいつは俺の奢りだ」
「で、でも」
「栗棟は優しいな」
その一言で忽ち顔が熱くなるのを自覚する。
照れ隠しに受け取った文集に目を落とし、装丁に咲いた紫陽花を見つめる。高鳴る心音を感じながらちらと覗き見た時にはもう先輩は真顔に戻っていて、買ったばかりの文集をどこか思い詰めたような眼差しで見つめていた。
憧れの先輩とふたりきりの状況だということに今頃になって気がつくが、ひとたび意識してしまうと何も声が発せられなくなる。観念して私も手元の文集に視線を移ろわせた。
先ほど先輩は謙遜するようなことを言っていたが、先輩方の文集にはお世辞抜きで面白いと思える作品が揃い踏みだった。
桐生先輩の時代小説は重厚なストーリー展開で読み応えがあったし、柊先輩の恋愛小説は思わず涙が出そうになるくらい切なく感動的だった。私たちが抜けた分の穴埋めのため小康路先輩が手ずから急造したという近現代史に関するコラムは、少々難解ではあるものの、目を見張る洞察が随所に散りばめられていて何度唸らされたことか。
ここに掲載されている作品は一つの例外なく秀作であると確信を持って言える。
……言えるのだけれど、どの作品を見ても最後にはこう思ってしまう。東条鼎の作品を超える出来ではないと。
そんな感想を抱いてしまう自分が酷く醜い存在に思えてきて、また罪悪感が込み上げてくる。よりにもよって敬愛する先輩たちの作品を自分がコケにするわけにはいかない。そう自分の心向きを律するのに必死だった。
また少しした頃、隣から呟きが聞こえた。
「こりゃあ傑作だな」
見ると小康路先輩の横顔に柔らかな笑みが浮かんでいた。屈託が無いわけないだろうが、少なくとも今ばかりは勝負のことなど忘れて純粋に読書を楽しんでいる様子だった。
――本当にこれで良かったのだろうか?
残り少なくなった文集の塚を眺めながら、力なく自問する。
私の愛した場所。
それはもうじき崩壊する。
他ならぬ、私自身の手によって。
勝利の実感はまるで湧かなかったが、もう後戻りできないのだということだけは克明に理解していた。ただただ受け入れるしかない現実に、言い知れない不安と虚しさが募るのを阻止する術はなかった。
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