非凡と善良⑳

【栗棟乃愛】


 放課後の食堂。約束の時間ぴったりに東条先輩は現れた。

 前回の反省を活かし、五分前には到着して待機していたが、その甲斐あってか今日の先輩の顔色は幾分か優れているように見えた。


 また、どういう風の吹き回しか、缶コーヒーまで振る舞われる。

 一口飲んでから、いや待て、これは賄賂じゃないか、と遅れて気がつき、自分の迂闊さを呪った。


「俺の作品を読んだか?」


 出し抜けに訊かれ、飲んでいたコーヒーが蒸せ返りそうになった。


「なんですか?」


「俺の作品を読んだかと訊いている」


「まあ、読みましたけど」


 そっけなく答えて、飲みかけの缶コーヒーを机に置く。

 先輩は満更でもなさそうに鼻の穴を広げて、頬角を上げた。


「是非感想をお聞かせ願いたいものだな」


「面白かったです。大変お見それしました」


「そうか。その割には随分険しい顔をしているが」


「非常に不本意な結果でしたので」


 本心を明かすと、先輩は得意顔になって肩を揺らした。


「まったく。愉快な気分になるな。他人を出し抜き、その反骨精神もろとも屈服させるというのは」


「最悪。その性格、どうにかならないですか」


 本当に底意地の悪い性格をしている。作者と作品は切り離して考えるべきだとわかっているけれど、作者の人格がこれでは素直に作品を支持したくもなくなってくる。


「それで、どうする気だ?」


「は?」


 反問すると、先輩は辟易と口を曲げ、阿保を見るような目を向けてきた。


「お前は本当にわからない奴だな。一から十まで説明させるな。話の文脈から察しろよ」


「貴方の言葉が足りなさすぎるんです。これは作品にも言えることですけど、他者に読解力を求めすぎているきらいがあります。手を抜かないでください」


 飾りのない言葉で反撃すると、あからさまに先輩の顔が引きつった。まさか口答えされるとは想定だにしていなかったのだろう、珍しく戸惑いに駆られている様子だ。

 私はしめしめと心の中で舌を出した。


「俺の作品に意見してくるとはいい度胸じゃないか」


「この前散々ボロクソ言われましたから。そのお返しです」


 強かに言い返し、再び警戒心を露わにした視線を先輩に投げかける。


「それで、一体何が言いたいんですか?」


「だから、俺の作品の素晴らしさに気づいたところで、俺に執筆を任せる気になったかと訊いているんだ」


「任せる気にはなってません。あれは私の作品です。他人に好き勝手手を加えられたくありません」


 きっぱりそう告げると、先輩の表情がみるみる剣呑な雰囲気に包まれていった。苛立たしげに机を指で叩きながら、切々と説き伏せるように論じ出す。


「下手なプライドは捨てろと前にも言ったはずだ。執筆の腕を磨きたいなら、その道の先駆者に胸を借りるのが一番有効な手段であるのは自明のこと。これは俺だけが一方的に得をするような、スケールの小さい話じゃない。今後のお前自身の作家人生を薔薇色に染め上げる可能性をも秘めた壮大な互助的プロジェクトだ。冷静になって考え直せ。再三の忠告になるが、無益なプライドに縛られて、自分の人生の幅を狭めるのは愚かしいことだぞ」


「じゃあ逆に訊きますけど、それっぽっちのプライドも先輩にはないんですか? 他人の作品をパクることに抵抗はないと断言できますか?」


 先輩は目を伏せて口を噤む。が、それも一瞬のこと、またすぐに毅然と挑みかかるような眼光を伴って、低い声で返してきた。


「プライドだけで理想を掴めるなら死守する。だが、現実はそうじゃない」


 凄みのある口調だった。ここに至るまで様々な挫折と葛藤があったのだろう。その跡がまざまざと窺えるほどに、先輩の面持ちには深刻な色が滲んでいた。


 膝の上で硬くなった拳を見下ろしながら、私は唇を噛む。

 先輩の言うことが間違っていないことは理解している。自分の作家人生が薔薇色になるかどうかはわからないけれど、作品が美しく生まれ変わることに全く心が躍らないと言えば嘘になる。当然、先輩の書いたものをお手本として見取り稽古すれば、さらなる執筆力の向上も見込めるだろう。


 自分の作品を他人に触らせたくないという気持ちも建前ではないが、それ以上にメリットに心惹かれていることは否定できない。


 だけど、そうだとしても。

 私は先輩の提案に乗るわけにはいかない。

 それは何よりも罪深い背信行為に他ならないからだ。


「魅力的なお誘いでしたが、すみません。私では力になることはできません」


 机と並行になるくらいまで深々と頭を下げて謝意を伝える。

 一拍置いて、先輩の嘆息が聞こえた。


「プライド以外の問題か?」


 私はおもてをあげて、小さく頷く。


「部長には返しても返しきれない恩があります。あの人に不義理を働くわけにはいきません」


「なるほどな」


 軽く受け答えする先輩。

 なんだ、そのリアクションは……?

 あたかも私がそう答えると予測していたかのような。

 なんとなく不気味だ。


「随分慕われているらしい。罪な女だ」


「貴方こそいいんですか。部長とはそれなりに仲良くされてたんでしょ?」


 先輩は愚問だと言わんばかりにふんっと鼻を鳴らした。


「表面的な付き合いに執着するのは主義じゃない。価値観が違えば物別れとなるのもやむなしだ」


「ドライですね」


 そう言って缶コーヒーの残りを飲み干す。

 気持ちは伝えた。もうこれ以上会話することはない。

 辞去するべく腰を浮かそうとしたその時、


「成長の妨げになる関係をだらだら続ける奴の気が知れんな」

 

 何気なく放たれた暴言に、カッと血が上った。


「勝手なこと言わないでっ。私と部長の関係性もろくに知らないくせに」


 急激に熱を帯びた私とは対照的に、先輩の目は酷く冷め切っている。


「では訊くが、水町といることで執筆の腕が上がると本気で思っているのか? あいつに他人の能力を引き伸ばす才は無い。見当違いな期待を寄せることは、敬愛する当人を苦しめるだけだぞ」


 缶コーヒーを飲み干していて良かった。少しでも残っていたら目の前の男にぶちまけていただろうから。


「そんな打算的な人付き合いはしていません。面白い小説を書きたいから部長のそばに居たいんじゃない。単純に好きだから一緒にいたいんです」


「刹那主義的思考だな。目先の感情に囚われるあまり巨視的な視点を欠いて本懐を蔑ろにするのは愚の骨頂だぞ」


「面白い小説が書けるようになりたいとは思っていますけど、だからと言ってなりふり構わないのは違う気がします。これからの人生、何を大切にするか決めるのは個人の自由です。外野が口を挟むのは慎んでいただきたい」


 失礼します、と吐き捨てて、今度こそ立ち上がる。


「交渉決裂というわけだな」


 わかりきったことを。しかし、望まれない結果になっているのに、その落ち着き払った態度はなんなんだ。ただの強がりだろうか? けっ、可愛げのない野郎め。


「せいぜい足掻いてください。文集、楽しみにしてます」


 皮肉を浴びせるも、先輩の涼しげな顔色は微動だにしない。


「残念だ。この手は使いたくなかったんだがな」


 なんだ? まだ隠し球があるのか?


 先輩は身を屈め、床に置いていたカバンに手を伸ばす。そこから紙束を取り出し、机の上にバサッと音を立てて放った。A4サイズの小冊子だ。右上をホッチキスで止めてある。


 表紙に書かれたタイトルを目にした瞬間、私は度肝を抜かれた。


「文集の穴埋めにはこれを載せることにしよう」


 そのタイトルは『戯曲・アサ松さんの大暴走』。

 私は冊子を手にとって中を検めた。覚えのある内容。その作者は私なのだから当然だ。


 それは中学生時代に書き綴っていた渾身のB L小説だった。文芸部に『文芸アルカディア』のアカウントを提出するよう求められた際、非公開設定にして封印したはずなのに。幻の秘作がどうして先輩の手元にプリントアウトされた状態であるのだ?


「これがここにある理由を知りたそうな顔をしているな」


 内心を見透かされて、反応に窮する。

 先輩はくつくつと肩を揺すりながら恐ろしいことを口にした。


「どこの誰が書いたのかは知らんが、実に若年層にウケそうな内容で、文化祭の文集にはお誂え向きだろうな。これをそのまま掲載すれば、俺の勝利は約束されたも同然だ」


「待ってくださいっ、著作権の侵害です!」


「著作権を訴えるなら、そもそもこいつの存在自体が危うい気もするが。しかし、別にお前が声を荒げることはないだろう。それとも、これはお前が書いたのか?」


「白々しいことを。えっ、何、貴方って、非公開にしている作品まで見れるような特殊な権限を持ってたりするんですか?」


「そんなわけあるか。詳しくは明かせないが、然る筋から入手した呪物だよ」


 呪物って。酷い言われようだが、強くは否定できない。強固な情熱は呪いと大差ないだろう。


 しかし、然る筋とは?

 リアルの関係者の中で、私がこの作品を手掛けていたことを知っている人はいないはず。

 心当たりはまるでないが、今はそんなことより。


 緊急事態だ。

 どうやら私、栗胸乃愛は東条鼎に脅されているらしい。


「なんなら文化祭など待たずして、数冊刷って屋上からばら撒くのもいいかも知れないな」


「鬼かあんたは! やめてください私の黒歴史を無闇に拡散するのは!」


「ではここで今一度問おう。俺の船と水町の船。どちらに乗るか、さあ、選べ」


「え?」


 口元は余裕綽々と綻んでいるが、目の奥に宿る光は真剣そのものだ。

 ここで申し出を断れば間違いなくこの男は先ほど口にした嫌がらせ紛いの案を実行に移すに違いない。そうわかっている私に、もはや選択肢など無いも同然なのだった。

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