私はクラゲになりたい(8/8)
喫茶店を出る頃、外の風景はすでに茜色に染まりつつあった。
屋外ショーの開演時間は14時過ぎくらいだったから、随分長い間喫茶店に居座っていたようだ。喉がからからに渇いているのは喋り通しだったせいだろう。
「せっかくだから俺はもう少し館内を見て回ろうと思うが、お前はどうする?」
思わぬことを訊かれ、私は、えっ、と小さく驚嘆した。
この期に及んで一体まだ何を見ようというのか。好奇心も行き過ぎれば狂気と変わらない。
「私はお暇させていただきます」
きっぱりそう告げると、先輩は、そうか、と応えるだけで特に引き留めたりはしてこなかった。
ひとり水族館を出て、真正面から射し込んでくる西陽の強さに目をすがめながら人目も憚らず盛大なため息をつく。
ああ、疲れた。
なかなかどうして先輩の相手は神経を使う。
作家気取りで人と違うことをしたがるから行動パターンが読めないし、人間性が壊滅的だから気を抜くとすぐに喧嘩に発展してしまう。
小説家になるための修行で来ているとはいえ、心のオアシスであろう水族館で疲労を溜め込んでいては世話のない話だ。
帰りの電車に揺られながら、私は忍び寄る睡魔に負けじとあくびを噛み殺した。
眠りにつく前に、まだやり残した仕事が一つだけあった。
カバンからボールペンと手帳を取り出して、膝の上に広げる。
見開きのそのページには綿々と箇条書きの文章が連なっている。小説のアイデアではない。我が文芸部の部長、東條鼎の生態記録だ。
その末尾に新たな点を加え、記憶を掘り返しながらペンを動かす。
『・水族館では水槽の魚たちより傍らの解説板を読んでいる時間の方が長い』
『・アシカショーでは周りの大人たちが引いているのもお構いなしにアシカとビーチバレーをはじめる』
『・水族館の入場料は奢ってくれたが、喫茶店のドリンク代はきっちり割り勘だった。ケチめ。』
といった具合にだ。
今日は新たに十個もの記録を追加することができた。それらにざっと目を走らせて、私はほくそ笑んだ。
前々から内密に考えていることがある。
先輩という珍獣を主人公にした小説はなかなか面白いのではないか、と。
今日も散々やらかしてくれた。
常軌を逸した言動の数々に恥をかいたりヒヤヒヤさせられたりもしたが、こうして将来の作品の糧になってくれているのだと思うと多少なり胸が空く。
いつかこの小説を形にして先輩に突きつけてやろうと企んでいる。そしてそれまで犯してきた悪行三昧の業の深さを思い知らせてやるのだ。
そんな野望を胸に手帳を仕舞って今度こそ瞼を下ろす。陰湿な青春だなと思うが、それもまた悪くない。
暗闇に仄白い光を放ちながら浮遊する無数のクラゲが蘇る。その幻想的な光景に抱かれながら、私はゆっくりと深海に潜り込むように意識を手放した。
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