7-2

「お困りのようだね」

 夕暮れ時、バルコニーで明滅を眺めている時のことだった。突然聞こえた声に、わたしはまず、己の耳を疑った。続いて、足元の少年を見た。しかし彼は、彼方の光を見つめるばかりで、何か言った様子はなかった。

 手摺りに、一羽の真っ黒な鴉が留まっていた。

「驚いたふりはしなくていいよ。君はずっと前から気付いていたんだから」鴉は言う。「わざと聞こえないよう耳を塞いでいたんだ」

 わたしは再び少年を見下ろす。彼には鴉の声が聞こえないようだ。

「僕はずっと呼び掛けていたんだよ。冷たいじゃないか。まあ、君は君で大変なようだったから、あまり責めるつもりもないけどね」

「あなたは、わたしのことを知っている」と、わたしは鴉に向けて言う。少年の視線を感じながら。

「知っているも何も、僕らは友人同士さ。或いはそれ以上の関係かもしれないけど」

「記憶にない」

「捨てさせられたのさ」

「誰に?」

「彼らに」

 誰を指しているのか、訊かずともわかる。

「あなたは知っているの?」わたしは更に問う。「わたしが何を失ったか、を」

 鴉は笑う。鳴いただけかもしれないが、笑われたような心持ちになる。

「君は何もなくしちゃいないさ。ただ、そうしたように思わされただけだよ」鴉は手摺りの上で撥ね、わたしの方へ近付いてくる。「現にまたこうして、僕と話が出来ているじゃないか」

「わたしがなくしたとのは、あなたと会話する〈力〉だけ?」

 鴉は嘴を開けたまま黙る。小首を傾げる。ややあってから、答える。

「それだけなら良かったんだけどね」

 彼は嘴を下に向ける。そちらでは、少年が呆けた顔でわたしを見ている。彼には、わたしが独り言を言っているようにしか見えないのだろう。

 構わない。わたしは鴉との会話を続ける。

「この子が、何?」少年を守るつもりで、黒い鳥を睨む。

「正直言って、僕は今でも賛成じゃないんだ。けどまあ、こうして再び君と話しが出来るきっかけにはなったわけだから、無碍に出来ないとも思ってる」

「質問の答えになっていない」

「答えが欲しいかい?」鴉は言う。「僕の口から聞くより、自分で思い出すのを待つ方が、まだいくらか幸せだと思うけど」

 わたしは鴉を見つめる。鴉も真っ黒な眼でわたしを見つめてくる。

 わたしは言う。

「だったら、あなたはわたしに何をしてくれるの?」

 鴉が羽根を広げる。思っていた以上にその幅は広く、少年ぐらいの身体の大きさであれば脚で掴んで攫って行けそうだ。

「君が、君の望む場所へ行く手伝いをしよう」

 わたしは警戒心を解かぬまま、訊ねる。

「どうしてそんなことを?」

 鴉は言う。

「君を大切に思っているからさ」


 鴉は、今この塔で起きていることを語り始める。

 管理委員会は、密かに塔の外側に行く準備を進めている。そのために気球の研究・開発を進めていて、既に人が乗れる試作品を完成させている。彼らには塔の住人全員を助けるつもりはない――彼の話を纏めると、こんな内容になった。

 全て、彼が見てきた事実だという。

「信じる/信じないは君の自由だけど」

 わたしは、鳥の言う妄言だと無視できない自分を認識する。

 それから訊ねる。

「その話を聞かされて、わたしにどうしろと言うの?」

「それは君が一番よく知ってるじゃないか」

「はぐらかさないで」

「自分で自分をはぐらかしているのは君の方だよ」

 言葉に詰まる。

「見えないふりをするのは、もう止した方がいいよ」鴉が言う。「もうそんな時じゃないんだ。目を背けていられるほど、余裕のある状況じゃない」

 風が吹き付ける。冷たい、雨混じりの風だ。

 決断を迫られている。

 いや、違う。

 迫られているのは決意だ。

 一歩踏み出すという決意を、わたしは迫られている。

 躊躇する理由はない。踏み出す以外、最良の選択はない。

 わかっているのに、何故だか足が出ない。

 いや、その原因さえも、わたしにはわかっている。

 衣服を引っ張られる。見下ろすと、少年がわたしの服を掴んでいる。

 真っ黒な眼が、こちらを見上げている。わたしの顔が映っているのが見える。その奥には、一瞬たりとも消えることのない光が宿っている。

 わたしは同じ眼をした別の人物を知っている。それが誰なのか思い出すことは出来ないが、わたしの中に一定の領域を空けておくほど特別な人物だったのではと推測する。その人物がいた痕跡は、今もわたしの中に残っている。

 少年は唇を結んだまま、眼で語りかけてくる。彼が何を言わんとしているのか、わたしにはわかる。

 言葉にしなくとも、彼の気持ちは確実に、今ここに存在している。

 わたしの方から目を背けることはしない。そうしないと、胸の中で固く誓う。

 もう失ったりはしない。

 もう失いたくはない。

 わたしは縋るように布を掴む少年の手に、己の手を重ねる。そのまま両の手で包み込む。

 鴉に向けて、言う。

「あなたは、わたしが望む場所に連れて行ってくれると言った」

「そうだね」

「その言葉、信じてもいいのね?」

 鴉は嘴を開いて、言う。

「君の自由さ」

「だったら、連れて行ってほしい所がある」

「何処だい、それは?」

 わたしは彼方を指さす。

 そちらでは毎日見慣れた光の明滅が、今にも闇に沈まんとしている。

 わたしは訊ねる。

「願いを、叶えてくれる?」

 鴉は答える。

「お安い御用さ」

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