6-4
塔の彼方此方にいた管理委員会の係官がある日、姿を消す。散発的だった図書室への訪問も止んだ。
それから程なくして、最下層の引上げが公告される。
前回の引上げから、まだ一年も経過していない。これほど短期間で立入禁止区域が更新されるのは、わたしの知る限り初めてだ。
公の発表としては〈前回の引上げ時に下限を誤って設定した〉とされている。だが、バルコニーへ出て足元を見れば、霧の上昇が早まっているのだとわかる。もっとも、それをわざわざ声高に叫ぶ者はいない。そんなことをしたところで、何の利もない。
今回放棄される階層に、わたしに直接の関連がある部屋はない。だが万が一、その階層に図書室の利用者がいて、貸出中の書物がないとも限らない。
貸出記録を確認する。
一冊だけ、当該区域の居住者への貸出が見つかる。放棄されることになった五階層の内の、最も下に住む人物だ。管理委員会に転居先を確認するが、まだ元の場所に居住中との返答が来る。わたしはやむを得ず、回収に向かうことにする。
ゴンドラは既に、放棄が決定した階層の手前までしか運行していない。降りられる限界までゴンドラに乗り、残りは自らの足で階段を下る。
一段一段降りていく毎に、空気に靄が掛かっていくのを感じる。喉が貼り付くような不快感を覚える。胸に挿してきたシロクシナダの花はまだ蕾のままだが、固く閉ざされた花弁がいつ開くともわからない。
少年を閉架書庫で見つけた前の晩のことを思い出す。正確には、前の晩に見た〈夢〉のことを。
わたしは同じようにして階段を下りていた。壁を叩く音に呼ばれるようにして。
今は何も聞こえない。塔の〈鼓動〉とわたしの靴音だけが、誰もいない階段に響き渡っている。
目的階に辿り着く。ここからもう一つ下りれば、立入禁止区域とを隔てる鉄の壁がある。足を向けようか考えるが、思い留まる。下っていく階段は圧倒的な闇に包まれ、先が見えないこと。また、この階層で既に霧の濃度が高いこと。この二点が、わたしの好奇心を萎ませた。
貸出図書の持ち主は不在なのか、扉を叩いても応答がない。しばらく待って再度呼び掛けるが、結果は同じだ。ドアノブを回すも、扉は施錠されている。
行き違いになったのかもしれない。いずれにせよ、無駄足を踏んだのは確かだ。徒労を実感するや、意識が遠のき掛ける。霧を吸い過ぎたのか、足元が覚束ない。わたしは目の前の扉に凭れる。シロクシナダはまだ開いていない。
体勢を崩したのは、霧が原因ではない。周囲がミシミシと軋みを上げ始める。
塔が揺れている。
どこかで、鉄筋のような物が音を立てて落下していく。
わたしは捕まれそうなものを探すが、目の前のドアノブぐらいしか見当たらない。それでも贅沢は言っていられない。手を伸ばす。
その瞬間、襟首を掴まれたような力で後ろに飛ばされる。
背中に衝撃が走る。だが、痛みを感じる前に意識が途絶える。
一瞬、少年のことを考える。彼の身を案じる。
遠くでサイレンが響いている。
わたしは冷たい壁に押し付けられている。
いや、床に俯せているのだ。
記憶を繋げる。
記憶が繋がる。
ここは、放棄が決まった最下層の廊下だ。
どれだけの時間、気を失っていたのだろうか。揺れの発生を告げるサイレンが聞こえるということは、それほどの時間は経過していない筈だが。
視界が白い。喉の奥に攣るような不快感がある。
霧だ。
身体を起こそうとすると、背中に痛みが走る。だが、いつまでも霧の中で呼吸をしているわけにはいかない。痛みに堪えながら起き上がる。壁に寄り掛かりながら、どうにか立ち上がる。
立ったところで息苦しさは変わらない。背中を打ったせいで呼吸がしづらいというだけではない。
胸のシロクシナダが蕾を解き掛けている。わたしは口元を押さえる。最低限の空気を取り込みながら、階段を目指して歩き出す。
身体が重い。手足が痺れる。筋肉を動かしているのが他人のように感じられる。わたしは壁に沿って、寄り掛かるようにして廊下を歩く。先ほどは何とも思わなかった距離が、今は途方もなく遠い。途中で何度も意識が切れかかる。
霧の濃度が増している。揺れのせいかもしれない。攪拌された白い靄が、上へ向けて触手を伸ばす様を想像する。わたしは今、その触手の中にいるのかもしれない。
〈不快〉で済んでいた喉の奥の違和感が、明確な〈痛み〉を帯びてくる。咳き込む。肺を見えない手で搾られているように胸が苦しい。壁に凭れ、身体を支える。膝を屈するわけにはいかない。霧の中に没すれば、恐らく命はない。
上に。上に行かなければ。少なくとも、この廊下に居続けてはならない。
壁に身体を押し付けながら廊下を進む。すると不意に壁が消える。反発する力を失ったわたしの身体は、全体重を掛けたまま虚空に躍る。
倒れる。しかしわたしを受け止めた床は、まだ霧に染まっていない。わたしは咄嗟に振り仰ぐ。開いたままのドアの向こうに、廊下の橙色の灯が見える。流れる霧によって、時折朧になっている。
考えるより先に身体が動く。ほとんど床を這うようにしてドアに近付き、腕を限界まで伸ばしてドアの縁に触れる。四本の指にドアを引っかけ、力を込める。初めこそ力を要したものの、ある地点を過ぎるとドアは何かに引き寄せられるように閉まる。部屋と廊下とを遮断する。霧の残滓が漂うが、鼻をくすぐる程度でしかない。
一点に集めた力が、身体中に分散していく。わたしは仰向けになる気力も湧かぬまま、その場に俯す。
ドアと床の隙間から、糸のような霧が何本か入ってくるのが見える。ここもそう長くは持つまい。或いは何らかの奇跡が起きて霧が晴れ、わたしは上階へ逃れることが出来るのかもしれない。そんな確率の低い可能性を期待しなければならないほど、状況は切迫している。
目減りしていく一方に思えた時間はしかし、わたしの体力を回復させもする。次第に四肢の感覚が戻ってくる。ぼやけていた世界の輪郭が鮮明になる。
室内は薄暗い。僅かに棚や机の形が認識できるのは、締め切られたカーテンの隙間から外の光が入り込んでいるためだ。起き上がる。脚に力が入るのを確かめてから、立ち上がる。光の射す方へ向かう。カーテンを開く。窓の外は白い靄に覆われている。バルコニーの手摺りが、時折思い出したように覗く。窓に薄く反射するわたしの胸では、シロクシナダが花開いている。
白い花弁を弄ぶ。他に、するべきことなどない。
部屋を見渡すと、机があり、反対の壁には書架が設えてある。居室というよりは業務を行うための執務室のようだ。
机の上には何もない。その平坦な眺めは、屋上で見た景色を思い出させる。
向かいの書架も空だ。一冊でも書物があれば気を紛らわせて状況が変わるのを待つか、或いは幸せな最期を迎えることが出来たのかもしれないが、そこには何の言葉も情報も残されていない。出来ることといえば、そこに書物が並ぶ様を想像するぐらいだ。
机に腰掛け、想像する。
かつてはここにも書物が詰まっていた筈だ。
その光景は、ありありと浮かぶ。
まるで見てきたように。背表紙の文字までも、克明に。
何故?
何故、わたしは書名まで知っている?
わたしは机から離れる。書架の前に立つ。
いつか見た夢と、同じ光景を見ているような感覚。そういうものがままあると、書物で読んだことがある。
だが、何かが違う。これはもっとはっきりしている。
ただの幻とは異なり、質量を持っている。
現実特有の質量を。
過去の記憶のように。
わたしは、書架を見上げたまま立ち尽くす。自分が辿り着いた事実に呆然とする。しかし、今やその考えから顔を背けることが出来ない。
疑念は、不思議と湧かない。むしろ胸を占めるのは恐怖の方が濃い。
今までずっと、或る事柄に関する記憶を完全に失っていたことに対する恐怖だ。
頭の中で、霧が晴れていく。
人の、後ろ姿が見える。
男性の背中。わたしはその背中に見覚えがある。
振り向いて欲しくて、呼び掛けようとする。だが、声が出ない。そもそも、何と呼んだらいいかわからない。
人影は霧の向こうへ消えていく。
霧が通り過ぎた時、そこに彼の姿はもうない。
わたしは一人、空の書架の前に立ち尽くしている。
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