6-3
次の日、わたしが図書室から戻ると、少年はベッドの上に座っている。窓から射し込む夕日の中で、読書をしている。わたしが時間つぶしのため、個人的に借り出してきた書物である。
「文字が読めるの?」
わたしの問いに、少年は書物から顔を上げぬまま頷く。
彼は次々に頁を繰っていく。夕食が配膳され、わたしが彼の分を取り分けて傍に置いても、まるで気付かぬように読書を続ける。
程なくして一冊読み終える。彼はようやく顔を上げ、真っ黒な瞳でわたしを見る。催促の眼差しであることは、言葉にされずともわかる。わたしは肩を窄める。この部屋には、その一冊しか書物はない。
「明日、もっと持ってくるわ」
少年の表情に変化はない。しかし、不思議と喜びの感情が伝わってくる。
翌日、わたしは図書室から書物を三冊持ち帰る。どれも大昔に書かれた物語だ。少年はそれを、眠るまでに全て読み終える。それからまた、催促の眼を向けてくる。
翌日、わたしは図書室から書物を五冊持ち帰る。物語を五冊。少年はそのうちの三冊を、やはり眠るまでに読み終える。残りの二冊は、読めなかったというよりは、手を付けなかったように見える。向けられる眼差しは催促が半分で、あとの半分は不満のようである。
翌日、わたしはまた、図書室から書物を五冊持ち帰る。物語三冊に加え、科学と歴史の書物を混ぜてみる。少年は物語には手を付けず、科学と歴史の書物を読み耽る。
翌日、わたしは図書室から、科学と歴史に関する書物を合計五冊持ち帰る。少年は五冊とも読み終える。催促の眼差しを向けてくる。わたしは、明日はこの倍を持って帰ると約束する。一度の貸出限度は、既に超えている。
翌日、わたしは約束通り、十冊の書物を持ち帰る。歴史と科学が五冊ずつ。さすがに一晩では読み終えられない。だが、彼には昼間の時間もある。その時間も使うとなると、むしろ十冊でも足りないようだ。わたしはそれから毎日、十冊の書物を運搬しながら、図書室と居室を往復するようになる。
初めこそ、少年にも理解し易い書物を選んでいたが、やがてその手順が無駄であることが判明する。手当たり次第に歴史と科学、それぞれの棚の端から所定の冊数書物を抜き取り、籠に入れるようになる。
少年はまるで、読書によって栄養を摂取しているようだ。彼は着実に、書架の書物を〈食い尽くして〉いく。
一月も経たないうちに、歴史の書物が底を尽く。元々そう大した冊数はない分野だ。それに、本当に昔に書かれた歴史書は禁書扱いになっているので、内容も似通っている。何冊か読み通す内に、他の書物は流し読みでも済むようになる。
科学の書物だけで、日に十冊。これも長くは続かない。半月ほどで、閉架書架の下段の端まで行き着く。少年のために持ち帰る書物は尽きる。
彼の興味のありそうな書物は全て読み終えた旨を伝える。彼は虚ろな眼差しでそれを聞く。呆然としているようにも見える。だが、何かを思い付いたように読み終えたばかりの書物を開き、頁を繰って、こちらへ開いて見せる。
そこには、かつてこの世界に実在したという乗り物について書かれている。
大きな球体に、縄で吊されたゴンドラ。空を飛ぶための乗り物だという。
「気球」わたしは乗り物に振られた名前を読み上げる。「これについて書かれた物が読みたいの?」
少年は頷く。
翌日、わたしは気球に関する書物を探す。目録を当たってみるが、開架にも閉架にも見当たらない。念のため、禁書目録にも目を通す。あった。〈気球〉という単語を含んだ題名が、いくつか並んでいる。
目録に於いて禁書に分類されている書物はしかし、今はもう図書室には存在しない。霧の上昇によって移転する際に破棄されてしまった。以前より手狭な部屋に移転してきた後に分類された禁書は、そうとわかるや直ちに管理委員会に回収されるため、やはり図書室には置いていない。
いくら目録を見つめたところで、なくなった書物が現れるわけでもない。わたしは未分類の山を探す。それらしい題名を見つけては、表紙を開き中を改める。そして何冊か見繕い、少年のために持ち帰る。
少年は、一向に言葉を話さない。
わたしの声には反応するから、耳が聞こえていないというわけではなさそうだ。わたしでも理解に苦労する書物を一晩で読み通すところを見ると、知能に問題があるとも言い難い。彼は、彼の意思で、言葉を話さないようにしているようだ。
それで特に問題はない。我々の意思の疎通は出来ている。わたしは彼の欲する書物を探せるし、なかった場合はその旨を伝えられる。彼は納得し、また別の書物を所望する。
少年は様々な言葉や知識を、その小さな身体の中に、着実に蓄積していく。雪という、大気中の水蒸気が冷えて出来た結晶が落ちてくる気象現象があるが、その雪が降り積もっていく様をわたしは思い浮かべる。雪は時間が経てば溶けてなくなるが、彼の中に積もった雪はいつまでも残り続け、随分な高さにまで積もっていく。黙って書物を読み耽る横顔には、その雪の高さが表れる。〈無口〉は〈寡黙〉という、子供らしからぬ性質へと変わっていく。
彼は、外見は少年のまま、精神だけは見る見る大人になっていくようだ。わたしは、いつの間にか彼を子供として見ていない自分に気付く。
一人の人間として、彼を見ている。
外の世界へ思いを馳せる、先進的な考えの持ち主として。
懐かしい、とまず初めに感じる。長いあいだ会っていなかった人物に、久しぶりに再会したような感覚だ。
少年に対してそのような感情を抱くのは奇妙である。わたしは以前に、子供と直に接触した記憶はない。その存在も、かつては自分もそうであったことは理解していたが、直接今のように密な接触をしたのは、今回が初めてだ。それに以前に少年と会っているとしても、彼は今よりも幼い、それこそ赤ん坊ぐらいの頃ではないかと思う。
わたしの覚えた懐かしさは、そうした赤ん坊の成長に対して感じるものではない。一個の人格と、久々に再会した時に抱く感覚である。友人と、数日ぶりに再会した際に覚えるようなそれなのだ。
一つの仮説が思い浮かぶ。
わたしは少年の姿を、誰かに重ねているのではないだろうか。
以前に会った、似た誰かに。
だが、いくら記憶を探っても該当する人物は見当たらない。
開かない引出が現れる。
この中に、答えに繋がるものが入っているのかもしれない。しかしわたしは鍵を持っていない。以前は持っていたのかもしれない。それも定かではない。あやふやな記憶。
その人物について何も言うことが出来ない以上、その人物は存在しないことになる。そうした人物がいたのではという予感は、飽くまでわたし個人の妄想にしか過ぎないことになる。
本当に?
本当に。
己の声で発せられた問いに、己の声で答える。
本当に?
今度の問いは、わたしの声ではない。
いつの間にか傍らに来ていた、少年の声だ。正確には、彼のものと思しき声だ。
わたしは答えない。
答えられない。本当に、鍵の付いた引出の中にある物の存在を、自分の妄想だと断言出来る自信がない。
開いた口を噤む。
少年を抱き寄せる。むしろ、縋り付くような気持ちで。
胸と腕と頬で、彼の体温を感じる。
雲脂(ふけ)のにおい。石鹸のにおい。生きている者の、ここに存在している者の証。
小さな背中は収縮を繰り返している。呼吸しているのだ。大きく感じられる鼓動はわたしのものだろうか。誰のものであれ、抱きしめたくなる。離したくはない。ここに存在する事実を、手放したくはない。
もう二度と。
自分の中の大きな物を失いたくはない。
少年は、抗うこともせずわたしに抱かれ続ける。いつまでもわたしの腕の中で、存在し続ける。何も言わずに。しかし、今はどんな言葉より、そこに彼がいることが、わたしの最も欲するものなのだ。
やがて、わたしの背中にも腕が周る。
少年の腕だ。今度はわたしが彼に抱かれている。
腕は、彼のものとは思えぬほど長く逞しい。
縋ろうという気持ちは薄れていく。代わりに湧いてくるのは、自分の寝床へ戻って目を瞑った時のような安心感だ。
温かな抱擁。その中で、わたしはゆっくりと瞼を閉じる。
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