6-2
差し出された書物を受け取り、裏表紙を開く。見返しに挿し込まれた貸出カードを抜き、日付と、利用者の個人番号を入れる。書物を渡し、返却期限を伝える。大抵の利用者は、短い返事をしただけで立ち去っていく。だが稀に、雑談を持ちかけてくる者もある。そうした利用者の一人から、屋上庭園から子供がいなくなったとの噂を聞く。
わたしは初めて聞いた風を装って耳を傾ける。時折、それらしい相づちを打つ。それらしく聞こえるよう、細心の注意を払いながら。
話によれば、子供がいなくなってから既に数日が経過しているらしい。管理委員会は影で捜索に動いているが、塔では多くの住人が気付いていて、中には子供を見つけ、管理委員会に恩を売ろうと目論んでいる者もいるとのこと。いなくなった子供はまだ五歳に満たない男の子で、黒い髪に黒い瞳、浅黒い肌の持ち主だという。
雑談を持ちかけてきた利用者が言う。
「なあ、どっかで見たことないか?」
「さあ」わたしは首を傾げる。
利用者は何か考え込むような顔をしてから、続ける。
「いなくなったといっても、行き場なんて限られる。これだけ捜して見つからないということは、下に落ちたのかもしれんな」
「だとしたら気の毒ですね。そんな幼い子供が」
「いや、案外その方が良かったのかもしれん」と、利用者は呟くように言う。「一人だけ違う見てくれのまま生きていって、幸せになれるとは思えん。特にこの塔の中では。自分にどんな将来が待ち受けているのか、子供ながらに悟ったのかもしれんな」
「将来――」未だ来ぬ時制を指す言葉。「そんなこと考えても、無意味なのに」
「子供だからわからなかったのだろう。だが、その方が良かった」
利用者は書物を掲げる。冗談めかして、彼は言う。
「もしどこかで見かけたら、まずは俺に一声掛けてくれよ。な?」
「わたしも管理委員会に入れてもらえるのなら」
利用者は笑う。
「一緒に偉くなるか」
彼は笑みを残し、部屋を出て行く。わたしは目録作りに戻る。
終業のサイレンが鳴る。
図書室を閉め、居室へ戻る。明かりを点けると、ベッドの影で膝を抱える少年の姿が浮かび上がる。
少年は一度こちらを見て、再び床に目を戻す。
こうした時、部屋に予めいた人物に対して掛ける言葉があれば良いと、彼を置くようになってから思うようになった。短い挨拶のような、自分の帰還を報せる言葉が。
良い言葉が思い付かないので、わたしは訊ねる。
「ずっとそのままでいたの?」
少年は答えない。彼がわたしの問いに答えたことは一度もない。
わたしはバルコニーへ通じる硝子戸を開ける。雨のにおいを孕んだ風が吹き込んでくる。手摺りの向こうの空はここ数日、暗い雲に覆われている。それが今日は、夕陽の色を反射している。雲が流れている。
少年に向けて言う。
「外、出てみない?」
少年がこちらを見る。立ち上がり、何かに引き寄せられるようにしてやって来る。黒い瞳は硝子戸の外へ向けられている。彼はバルコニーへ出る。ここへ来て初めてのことだ。
バルコニーの手摺りは、彼の身長よりも高い。わたしは部屋の中から椅子を運んできて、その上に彼を立たせる。丁度、首から上が手摺りの高さを越える。わたしと同じ景色を見られるようになる。
「本当に落ちないようにね」
彼は不思議そうにわたしを見上げてから、再び空へ目を向ける。
二人で、薄い橙色の雲が流れていく様を眺める。
どこか懐かしい気がする。前にも同じことを、誰かとしていたような感覚だ。
いつ、どこで、誰と?
屋上庭園にいた頃だろうか?
柵を掴む、白い手――。
突然湧いたイメージに、胸の奥を掴まれたような錯覚を覚える。
柵の向こうで叫ぶ女性。その視線は、わたしの方へ注がれている。
誰かはわからない。だが、わたしは彼女を知っている気がする。
彼女にはわたしと共通の何かがある。
手首に、わたしではない誰かの手が触れる。
小さな、浅黒い手が添えられている。
少年がわたしを見ている。何かを問うような眼差しで。
わたしは、いつの間にか詰めていた息を吐く。それから言う。
「大丈夫。少し、変なことを思い出しただけだから」
少年はしばらくわたしを見つめてから、再び空へ気持ちを戻す。わたしは一人、今起きたことの検証を試みる。
今のは何だったのか。彼女は誰だったのか。何故突然、あのような光景を見たのか。
以前にも見たことはあったのか。
自分の頭の中には、答えに類する記憶はない。しかし一箇所だけ、鍵が掛かったままで開かない引出のようなものがある。わたしはそれを開けるための鍵を持っていない。前は持っていた気がするが、気付かぬうちになくしてしまったようだ。
雲の切れ間に光が現れる。あの、明滅の光だ。目を突くような眩さは一瞬で、やがていつものように瞬きを開始する。
横顔からでも、少年が光を見つめていることがわかる。口を小さく開いて、眠たげだった目も僅かだが見開いている。夢中になって、明滅の正体を見極めようとでもしているようだ。
外の世界へ興味を抱くことは、決して間違ったことではない。
そう言ったのは、誰だっただろうか。男性の口から聞いた気がする。わたしと同世代の、まだ若い男性だ。だが、思い当たる人物が記憶の中にいない。少なくともここ数年、そうした人物とは接触していない。
それに、今の発言は明らかに危険思想だ。不用意に口にすべきものではない。
けれど。
だからこそ、わたしはそれを聞いた気がする。
わたしに宛てた言葉だからこそ、綴られていたのだ。
綴られていた?
カツン、と硬い音がする。手摺りに振動が伝わってくる。
鴉が一羽、留まっている。いつもやって来るものと同じ個体かは定かではない。しかしわたしは、きっといつもやって来る一羽だろうと思う。
鴉はわたしを見、少年を見て、首を傾げる。何か言いたげに嘴を割くが、声を発しはしない。
わたしは、彼のことも知っている。そんな気がする。
彼?
鴉は羽根を広げ、羽ばたく。飛び去っていく。明滅する光を目指すように、そちらの方へ向けて小さくなっていく。
やがて暗い雲が、全てを覆う。わたしは少年を促す。わたしたちは部屋へ戻る。
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