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夢のことが頭から離れない。正確には、夢で聞いた、鉄の壁を叩くあの音が。
耳にこびり付いている。そのあまりの鮮明さは、あれが夢であったという認識が揺さぶられるほどだ。
あれは夢だった。
あれは夢だった?
そんな自問を繰り返しているから、業務にも集中できない。目の前に貸出手続きにやって来た利用者がいるにも関わらず、しばらくぼんやりしてしまう。心配の言葉を掛けられ、ようやく相手の存在を認める始末だ。
昨夜のことが夢か現実か、確かめる術はただ一つ。他人に確認することだ。わたしは目の前に立つ利用者に、夜中に物音を聞かなかったかと訊ねようかと考える。だが思い留まる。わたしの中で何かが〈音〉のことは他人に知らせるべきでないと歯止めを掛ける。何故そんな気持ちが湧くのかは、自分でもわからない。わからないから対処の仕様がない。
友人にはそれとなく訊ねられるかと思っていたが、彼女は食堂に姿を現さなかった。わたしは一人、虚ろな気持ちを抱えたままテーブルに着く。わたしの周りを、時間だけが流れていく。
午後の業務が始まってしばらく経った頃、図書室に二人連れの男性が入ってくる。名乗られる前から、彼らが管理委員会の係官であると察する。わざわざ連れだって他人の職場に来るのは、管理委員会に関する業務でしかあり得ない。
二人連れは、同じような年頃だ。わたしより一世代上だろう。片方が長身のため、もう片方の背が低く見える。
その、背が低く見える方が言う。
「今日は何人ほどの利用者がありましたか」
二人、とわたしは答える。貸出手続きをしたのは二人だ。
「たったそれだけ?」低身長に見える係官が眉を顰める。「業務開始から今までで、たった二人しかここを訪れないのですか?」
図書室に入ってきた人数でいえば、或いはもっと多いのかも知れない。しかしわたしは、昨夜の〈音〉のことばかり考えていて部屋に入ってきただけの人々のことなど把握していない。勿論、それを正直に話すのも憚られる。
わたしは言う。
「誰も彼も忙しくて、書物を読むような暇はないのかもしれません」
「これだけの蔵書を抱えながら、大半が使われないとは」係官が言う。
「書物が必要となる瞬間は人それぞれですから」
二人の係官は、どちらも書物を手にしていない。貸出手続きに来たわけではないらしい。
「あなたの言うことにも一理ある。実際、我々も今は書物を必要としていない。文字で書かれた古い情報よりも、あなたの口から発せられる現在の情報を欲しているのです」
その言葉から漂う言い知れぬ不吉さに、意思とは関係なく身体が強張る。その不吉さとあの〈音〉が、止める間もなく結びつく。
わたしは問う。
「どんな情報でしょう?」
「人を探しています。その目撃情報です」
「利用者の顔は、あまり覚えていません」
「見たら一目で印象に残る筈です。ここにいる筈のない見た目ですから」
「いる筈のない?」わたしは繰り返す。
「そちらの部屋を確認しても?」と、今度は長身の方が口を開く。「そこは物置ですか?」
「書庫です。中にはこちらの棚に並ばない書物が入っています」それから、わたしは付け加える。「未分類の、禁書の恐れがある書物も」
二人の間に、微かだが動揺が広がる。効果はあったようだ。
「立入の許可はお持ちですか? わたしの所には、書庫への立入捜査に関する連絡は来ていません。許可もなく禁書に触れることは、処罰の対象になることを御存知ではありませんか?」
相手はたじろぐ。だが、簡単には引き下がらない。
「何も書物を開いて読もうというのではありません」低身長の方が言う。「中を少し改めさせてもらいたいだけなのです。中に誰もいないということを確認するだけです。我々が触れてはいけない書物があるのなら、あなたが避けてくれればそれで良い」
「未分類の物もあるのです。一目見ただけでは禁書かどうかもわからない書物が、その部屋の床には平気で積まれています。それらが今後、禁書の認定を受けないとも限りません。そうなった時、もしあなた方が触れていたら――それこそ、今日これから部屋に踏み込んで積まれた山を崩したりしていたら、わたしはあなた方を告発せざるを得ません。それが、司書としての義務ですから」
二人は顔を見合わせる。無言の内に、何らかの意思の疎通が図られたことは傍目にもわかる。
「わかりました」低身長の方が言う。「今日のところはこれで引き上げましょう。正式な許可を取って、また改めることにしますよ」
「ご理解いただき、感謝します」
低身長の係官は顎を引き、踵を返す。長身の方はしばらくわたしの後ろを見つめ、最後にわたしを見てから立ち去っていく。
二人がすっかり出て行くのを確認してから、わたしは息を吐く。そして書庫へ入る。
書庫の明かりを灯す。長い眠りから醒めたようにぼんやりと、積まれた書物や背の高い書架が浮かび上がる。
書架の間を進む。入口から最も遠い、対角線上の壁際へ向かう。
膝を抱えて座っていた子供――少年が、顔を上げる。
わたしたちは見つめ合う。永遠に、そうしていられそうな気がする。
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