5-4

 橙色の太陽が沈んでいく。

 わたしはバルコニーの手摺りに凭れて、それを眺める。ただただ眺める。

 夕暮れ時のバルコニーに出るこの習慣は、長いこと続けている。しかし、以前はもっと別のこともしていたような気がする。

 思い出せない。

 或いは、何かがあったという気がしているだけかもしれないが。

 鴉が飛んできて、爪を鳴らしながら手摺りに留まる。

 鴉はじっとこちらを見る。やがて何もないことを確認すると、再び羽根を広げて飛び去っていく。

 わたしの頭上にも夜が来る。

 夜風が冷たくなってきたので、わたしは部屋に入る。

 配膳された夕食を摂る。入浴を済ませ、寝床に入って読書をする。眠気が湧いてきたところで消灯し、目を閉じる。一日が終わる。

 終わる筈だった。


 目を覚ます。

 本当はもっと早く目覚めていたのかもしれない。暗闇に目が慣れるまでは覚醒と睡眠の判断を付けかねた。

 ベッドの上で起き上がる。部屋は、窓から射し込む蒼い月明かりに染まっている。

 どうして目覚めたのか、理由がわからない。夜中にこれほどはっきりと目を覚ましたことは、覚えている限りでは一度もない。

〈鼓動〉さえも聞こえない、絶対的な静寂。

 蒼白く染められた室内。

 昼間とは何もかもが違う。眠っている間に別の場所へ移されたような、奇妙な感覚に襲われる。或いは、自分だけ、時の流れから置いていかれてしまったような感覚に。

 ふと、何かが聞こえた気がする。

 辺りを見回しても、音の出所らしいものは見当たらない。

 耳を澄ませる。僅かな物音でも捉えようと、意識を集中させる。

 ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。

 何かを叩くような音。幻聴でないとは言い切れぬほど、微かな音。壁を何枚も隔てた遠くから聞こえてくるようだ。

 ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。

 わたしはベッドから出る。辛うじて掴んだ糸を手繰るように、音を辿っていく。

 廊下には誰もいない。音に気付いているのはわたしだけのようだ。音は遠くから響き続ける。

 ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。

 心なしか、段々と響きが鮮明になっている。わたしの足取りは確信を持って、ある方向へと向かう。

 薄い月光に照らされた廊下を進み、階段を下りる。

 音は、〈聞こえる〉と断言できるほど、はっきりとわたしの鼓膜を揺するようになる。

 階段を、下りられる所まで下りる。やがて鉄の壁に行き当たる。暗がりでもわかるほど、重く厚い鉄の板が、階段を塞いでいる。霧に沈んだ〈危険区域〉とそうでない場所を隔てる壁だ。

 音は、この向こうから聞こえる。むしろこの鉄扉こそが、音の発生源だ。

 ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。

 鉄扉が叩かれる。何かの意思を以て。

 これは、単なる物音ではない。

 壁の向こうには誰もいない筈だ。意思を持つ者など、いないことになっている。

 わたしは壁に近付く。

 叩かれ続けている鉄の板に、手を伸ばす。

 指先が触れる。空気ごしに感じていた音を、直接の振動として体感する。

 音は、確かに存在する。

 壁を叩く〈誰か〉は確かに、向こう側にいる。

 ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。

 何を以て音に意思を感じるのか、不意に思い至る。

 音は、意図的にリズムを刻んでいるのだ。

 ドン、ドン。

 ドン、ドン、ドン。

 ドン、ドン。

 ドン、ドン、ドン。

 頭の奥の方に、朧気な光の瞬きが見える。どこで見たものなのか、いつ見たのかは思い出せない。光は弱いながらも明滅している。

 チカ、チカ。

 チカ、チカ、チカ。

 コ、コ、ニ、イ、ル、ゾ。

 瞬きのリズムと言葉が結びつく。何故そうなったのか、思考がどういう道筋を通ったのかはわからない。しかしわたしは、瞬きを、そのリズムを、言葉に変換する。

 壁に触れていた手を握り、拳を作る。扉をノックする要領で、手の甲で壁を叩く。

 コン。

 それほど力を入れたわけではない。しかし、その音はやけに大きく響く。この空間に於ける唯一の物音として、響き渡る。

 わたしは続ける。

 コン、コン。

 コン、コン、コン。

 音が闇に吸い込まれていく。

 残響が収まるまで待つ。向こう側からの音は、聞こえてこない。わたしはもう一度、同じように壁を叩く。結果は変わらない。

 壁の向こうの〈誰か〉は、もう立ち去ってしまったのかもしれない。

 或いは、思わぬ返答に驚いて立ち尽くしているのかもしれない。

 どちらでもいい。何故だかわたしには、そう思える。

 鉄の壁に凭れる。耳を着ける。その冷たさを顔の半分に感じながら、瞼を閉じる。

 次に目を開いた時、わたしは自分のベッドの上にいる。

 窓の外には薄曇りの空。耳からは甲高い〈鼓動〉が入ってきて、鼓膜を叩く。

 いつもの朝。わたしはクッションに頭を埋めたまま、起床のサイレンを待っている。自分が昨日までとは別の場所に横たわっている感覚を拭えぬまま、灰色の天井を眺めている。

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