5-3
カン、カン、カン、カン、カン、カン――。
〈鼓動〉が響く中で、目を覚ます。
全てが終わっている。誰かに教えられずとも、そうだとわかる。
身を起こす。若干の気怠さが残るものの、わたしの身体はわたしの元へ戻ってきている。
開け放たれた窓がある。僅かに吹き込む風が、カーテンを撫でる。わたしはベッドを抜け、窓辺に立つ。窓の向こうには、タイル敷きの地面と雲の多い空が広がっている。陽射しは、雲の切れ間から時折覗いてはすぐに隠れる。光の変転が、無音のまま繰り返されていく。
背後で扉が開く。看護師が入って来る。調子はどうかと訊かれる。問題ないと答える。彼女は頷き、抱えていたカルテに何かを書き込む。
「今日一日様子を見て、問題がなければ明日には退院です」
そう言って出て行こうとする彼女を、わたしは呼び止める。そして訊ねる。
「眠っている間、何が行われたのでしょうか」
看護師が無言のまま、見返してくる。わたしは続ける。
「自分が〈務め〉を満足に果たせたのか、知りたいのです」
「あなたは問題なく〈務め〉を果たしました」看護師は言う。「塔の一員として、何の滞りもなく」
「それならば良いのですが」
看護師は軽く顎を引き、部屋を出て行く。
少ししてから彼女は医師を伴って戻ってくる。わたしは問診を受ける。医師の口からも、先ほど看護師から聞いたのと同じ言葉を聞く。
丸一日、ベッドと窓しかない部屋で過ごす。運ばれてきた食事には手を付ける気になれない。わたしは窓辺に立ち、雲の流れを眺めて長い時間をやり過ごす。次第に空が暗くなっていき、夜が来て、床に就いて目を閉じる。
翌朝、問診を受け、退院の許可が下りる。
看護師に連れられ待合室へ行く。ベンチに座らされ待っていると、わたしを連れてきた案内人が入ってくる。彼女に連れられ、建物を出る。
案内人は無言で歩き続ける。往路とは違い、真っ直ぐにゴンドラのある小屋を目指している。
その背中に声を掛ける。もう一度、庭園を見てみたいと依頼する。
値踏みするような眼差しがこちらを向く。無理ならいい、と言おうとした矢先、相手の了承が下りる。
庭園は静まり返っている。
少なくとも、庭に子供たちの姿はない。建物内にいる筈だが、それが嘘のように、気配も感じられない。
わたしは案内人に訊ねる。
「今日は外で遊ばせないのですか?」
「今日は遊ばせないのでしょう。子供たちには、教えなくてはならないことが山ほどありますから」
わたしは頷く。視線が自然と、あの少年の立っていた場所へ向かっている。
「残念でしたね」
案内人に言われ、慌てて目を逸らす。
「いえ」わたしは言う。「教育は何よりも大切ですから」
図書室の業務に戻る。代行者とはついに顔を合わせることはなかったが、彼(あるいは彼女)が滞りなく業務を遂行した形跡は残っている。わたしは以前と変わらず、己の仕事を再開することが出来る。
昼食は友人と摂る。席に着くなり、〈務め〉について訊ねてくる。
「逆さ吊りにはされなかった」わたしは言う。
「そう? 覚えてないだけじゃなくて?」
「或いはそうかもしれない」
ほとんど何も覚えていないと話すと、彼女は羨ましそうな反応を見せる。彼女の場合は施術中を除いては意識がはっきりとしていて、ひたすら退屈との戦いだったそうだ。
「どんなに痛い鞭打ちなんかよりも、よほど苦痛の強い刑罰だわ」
「退屈が?」わたしはスープを啜りながら問う。
「だって、天井を見てることしか出来ないのよ?」
「窓の外を眺めることも出来た」
「ずっと同じ景色じゃない」
「雲は流れていくから、全く同じというわけでもない」
「その考えはなかったわ。あなた、気象観測者になれるんじゃない?」
答えに詰まる。何故か喉が引き攣ったのだ。
「退屈ということは、裏を返せば平和だということでもある」わたしは改めて言う。「退屈を感じるというのは、平和の証。だからそう感じた時にこそ、その瞬間を尊く思わなければならない」
「それは書物に書いてあった言葉?」
「わたし個人の考え」
友人は肩を窄める。
「あなたも書いてみたら? それだけ言葉を持っているなら、書物の一冊も書けそうじゃない」
「紙が手に入らない」
「手に入れられたら、書く気はあるの?」
「気持ちはある。けど、書けるかどうかは別問題」
「それは残念」
周囲が俄に慌ただしくなる。昼の休憩が終わろうとしているのだ。向かいでも、友人が片付けを始める。そんな彼女を、わたしは呼び止める。
「ねえ」
「ん?」
「この間、庭園の前を通ったのだけれど」
「ああ」
友人がわたしを認識していたか否かは、この際置いておく。
「一人、髪の黒い子がいた」
友人は何も言わず、わたしの言葉を待つ。わたしは言う。
「あの子は何者なの?」
わたしたちのテーブルの傍を何人もの利用者が通り過ぎる。彼らが全員立ち去るのを待っているかのような間が空く。
やがて誰もいなくなってから、友人は口を開く。
「あの子は突然変異なの」
「突然変異」自分で口にしてみても、言葉の意味をすぐには理解出来ない。
「時々いるらしいのよ、髪や肌の色が、他とは違う子が。何が原因なのかは医師にもわかってないようだけど」
「じゃあ、あの子の親もこの塔にいるの?」
「変なこと言うもんじゃないわよ」友人が声を潜め、早口で言う。「この塔の誰にも〈親〉なんていない。いるとすれば遺伝情報の提供者だけ。それからもう一つ。この塔以外に、人はいない」
サイレンが鳴る。午後の始業開始五分前を告げるものだ。
友人が言う。
「あの子については、不必要に知ろうとしない方がいい。でなければ今度こそ――」彼女は言葉を切る。
「今度こそ?」わたしは続きを求める。「今度こそ、何?」
「――これがあなたのためよ」そう言って彼女はトレイを持ち上げる。
前にも誰かに同じことを言われた気がする。
しかし、上手く思い出せない。
わたしも席を立つ。わたしたちは何も言わず、互いの職場へ戻っていく。
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