5-2

 ひと月もしないうちに一通の通知が届いた。〈務め〉の招集だ。

 定められた日程は、すぐにやって来る。何かを考える暇もない。何を考えたところで、取り得る行動は一つしかない。わたしは入れ替わりでやって来るという代行者に図書室の業務を任せ、屋上へ上がる。

 ほんの数十秒でゴンドラは屋上へ到着する。シャッターの前で女性が待っている。彼女に通知に同封されていた許可証を見せる。相手は軽く頷くと、踵を返して歩き始める。わたしは彼女の後を追う。白日の下に出る。

 屋上へ来るのは子供の頃以来だ。頭上にはコンクリートの天井ではなく空が広がっている。不思議な感覚。どこか落ち着かない。

 白や灰色、青みを帯びた雲が、音もなく流れていく。陽射しは時折遮られ、屋上の真っ白な景色が影に沈む。やがて雲が通り過ぎると、また白い世界が戻ってくる。この変転が、僅かな間に繰り返される。

 中心に吹き抜けの四角い穴が空いている他は、屋上には殆ど何もない。

 見渡して目に付くものといえば、いくつかの平たい建物と、手摺りを乗り越える形で作られた台ぐらいだ。

 案内人の女性は、平たい建物の一つへ向かっていく。近付いていくにつれ、建物の前が柵で囲われているのが見えてくる。柵の向こうには緑が広がっている。芝生が広がり、一角には草木が茂っている。わたしは記憶の底をくすぐられる。わたしもかつて、その中で過ごしたことがある。

 案内人が足を止める。わたしも止まる。自ずと〈庭園〉を眺めることになる。

 庭園には十名ほどの子供の姿がある。駆け回ったり、玩具で遊んだり、寝転んだりしている。その中に二名、大人がいる。その内の片方が友人であることに、わたしは遅れて気付く。彼女の方ではわたしを見ない。気付いていないというよりは、見ないよう努めているように感じられる。

 子供は大抵が複数で固まっている。そうした中で一人だけ、外れた所に立っている少年が目に留まる。

 黒い巻き毛。

 浅黒い肌。

 他の子供たちと同じ白い衣服を着ているせいで、他の子供たちとの違いが一層際立って見える。彼は柵の外を向いている。そちらには屋上自体を囲う柵があり、その向こうには空が広がっている。少年は一心にそちらを向き続ける。彼の心は、空の彼方にあるようだ。

「あの子が何か?」

 案内人がこちらを向いている。わたしは少年を凝視していた自分に気付く。

「いえ……」

 案内人の眼が少年の方へ向けられる。

「あの子は少々特別な子供です。身体のつくりが通常とは少し違うのです。そのせいか、他の子供たちとは交わらず、いつもああしてあらぬ方向をぼんやりと眺めています。自分から言葉を発することもしないので、何を考えているのか、保育士にもわかりかねることが少なからずあります」

 何かを読み上げるような説明を聞きながら、わたしは少年を見つめる。不意に少年が振り向く。遠くて判別できない筈だが、彼の瞳もまた真っ黒であると、わたしにはわかる。

 わたしたちは見つめ合う。

「これは珍しい」と、案内人が言う。「あの子がこちらを向くなんて。あの子が何かを感じたような素振りを見せることなんて、滅多にありません。むしろこれが初めてかもしれません」

 今度は彼女自身の言葉のようだ。

「――まるであなたを待っていたようですね」

 言われて、わたしは彼女を見る。彼女の方でも、わたしを見つめてくる。

 辺りが影に覆われる。

 遠くで〈鼓動〉が鳴っている。

 再び日が射し始めるまでの間、わたしたちは無言で視線を交わし続ける。長くはない。だが決して短くもない時間が過ぎる。

「案内をお願いできますか?」わたしは言う。「早く〈務め〉を果たしたいのですが」

 案内人は小さく息をつく。

「失礼しました。〈務め〉を果たしに来た女性は、まずここに連れてくる手筈になっているものですから」

「何か利点があるのですか?」

「ああした子供たちの誕生に助力する喜びを与えることが出来ます」

 彼女は再び歩き出す。わたしは少しの間、立ち尽くす。

 少年は、いつの間にか姿を消している。


 わたしが辿り着いたのは、庭園の園舎と同程度の平たい建物だ。その中の一室へ通され、しばらく待つよう案内人に言われる。彼女が立ち去ってしばらく経つと、別の女性がやって来る。彼女に促され、わたしはまた別の部屋へと連れて行かれる。そこで医師による問診を受け、薬を打たれる。

 次に気付いた時、わたしはベッドに寝かされている。目の前には居室のものと同じ種類の天井が広がっている。わたしはそれを見るともなしに眺めて過ごす。身体を動かす気力が湧かないのだ。

 途中で何度か、看護師がやって来る。彼女は何か問い掛けてくる。わたしも何か答えるが、口が動く矢先に何と口走ったのか忘れてしまう。医師も来る。彼は長々と何事かを説明する。わたしはただ頷く。次に看護師が来た時、彼女はわたしの腕に注射の針を刺す。霞がかっていた意識が、いよいよ真っ白になる。

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