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最後に残った書物を箱に詰める。移転先ですぐに取り出せるよう、通し番号を振る。
改めて書庫を見渡す。詰め残した書物がないかを確認する。閉架書庫の棚は、全て空になっている。灯りを消し、部屋を出る。
念のため、開架書架の方も見て周る。こちらは棚の所々に書物が残っている。移転先の棚に入りきらない分だ。評価され、処分の判定が下された。これらの書物は、このままこの部屋と共に、霧に没することとなる。
運搬を担当する係官に申し伝えをし、わたしは自室へ戻る。この部屋からも、今日で退去となる。
最低限の荷物は、既に新たな居室に移してある。空になった部屋は四角い箱のようだ。実際にそうなのだが、余計に強くそう感じられる。そんな部屋を確認しながら、やがてバルコニーに辿り着く。
外へ出る。湿気を孕んだ風が、顔に吹き付ける。
視界は厚い雲に覆われている。何も見通すことは出来ない。
手摺りから下を覗けば、間近に霧が満ちている。こうしている間にも、その触手の先がわたしの足首に絡みついてきそうだ。
カツン、と硬い音がする。
手摺りに真っ黒な鴉が止まっている。鴉は鈍い光を宿した眼を、こちらへ向けてくる。わたしはそれを見つめ返す。互いに黙って見つめ合う。
やがて鴉は飛び去っていく。後には抜け落ちた何本かの羽根が舞う。
わたしは鴉の姿を目で追う。鴉は雲に向かって飛んでいく。雲には切れ間が出来つつある。切れ間の中に、光の瞬きが見える。
チカ、チカ、チカ、チカ。
わたしはしばらく瞬きを見つめる。ただの光の明滅が、不思議と意識を引く。。
雲が流れ、再び光を隠す。わたしは部屋に戻る。居室を後にする。
数日ぶりに食堂で向かい合う友人は、いくらか痩せたように見える。頬に影のようなものが見える。そう指摘すると、彼女は微かに笑う。
「三日もあんな所に閉じ込められれば、疲れも出るわよ」
彼女はこの数日、女性としての〈務め〉を果たしたのだ。
〈務め〉に類することは、どんな書物にも書かれていない。わたしは訊ねる。
「一体どんなことをされるの?」
「股を広げて逆さ吊りにされるの」
わたしはその様を想像する。
「嘘よ」友人はクスクス笑う。「逆さ吊りにはされない。だから怖がらなくても大丈夫」
ほんの数日顔を合わせなかっただけだが、友人の纏う雰囲気が変わっている。まるで年長者と話している感覚だ。彼女は階段の上にいて、わたしは階段の下からそれを見上げている気がする。〈務め〉を果たしたが故に、彼女はそうなったのかもしれない。
そんな友人が言う。
「あなたもそろそろなんじゃない?」
わたしの匙が止まる。友人は続ける。
「通知はまだ来ないの?」
わたしは頷く。
「あたしに来たんだもの。あなたの所にもすぐに来るわ」それから彼女はわたしの顔をじっと見つめ、「やっぱり不安?」
「――じゃないと言ったら嘘になる」わたしは正直に答える。
友人は肩を竦める。
「あたしも初めはそうだった。でも大丈夫。悪いようにはされないから。〈彼ら〉はちゃんと労ってくれるわ。危険がないように、細心の注意も払ってくれる」
「だから逆さ吊りにもされない」
「そういうこと」
「具体的にどんなことをされるの?」
すると友人はテーブルに身を乗り出してくる。
「あまり大きな声では言えないんだけど――」
彼女の話を夢中で聞く。
聞き終える。今得たばかりの情報を纏めようと試みる。上手くいかない。
自分の椅子に戻った彼女は微笑する。
「こうして話だけ聞くと怖いかもしれないけど、実際はあっという間よ。段々眠くなってきて、起きた時には全てが終わってる。寝てるだけで事が済むんだから、こんなに楽なことってないわ」
「でも疲れは出る」
「それは待たされる部屋が悪いわね。あそこには窓がないの。白い壁で覆われた部屋の真ん中に、ポツンとベッドが置かれているだけ。あんな所で丸三日も寝てなきゃいけないのなら、いっそのこと三日間ずっと薬で眠らせてほしいわね」
わたしは三日分の記憶が丸ごと抜け落ちることを想像してみる。
「大丈夫だって」友人が宥めるような調子で言う。「あたしはこうして戻ってきたんだから。不安になるのは、明日か明後日にでもあたしがコロッと死んでからでも良いんじゃない?」
わたしは小さく頷く。
友人は頬杖を突く。わたしの顔を覗き込んでくる。
「ところで、最近は大丈夫?」彼女の声の響きと共に、発せられる〈大丈夫〉の質が変わる。「何も変わったことはない?」
「何も変わらない」わたしは言う。「毎日、同じような平穏な日々。昨日と一昨日が入れ替わっても気付かないような」
友人は頷く。
「それならよかった。ねえ、これ食べない? ずっと眠ってたせいか、あまり食欲が湧かないのよ」
「ちゃんと食べて体力を回復しないと」
「回復しなければならないほど何かを減らされたわけじゃないわ」
そう言って彼女は食事の載ったトレイを押しやってくる。食糧は、ほぼ手つかずのまま表面だけが乾燥している。匙を伸ばそうという気は起きない。こんな食事は一人分だけで十分だ。
もう一人、自分以外の誰かがいるのなら別だが。
匙ですくった食事を、小さな口元へ持って行く。すると、ごく僅かな裂け目を懸命に動かしながら、彼は食事を体内に取り込む。ゆっくりと、それでいて着実に。咀嚼が終わると、次の匙を待つ。求めるように、真っ黒い眼差しをこちらへ向けてくる。
「ねえ、どうかした?」
友人の声で意識が戻る。
わたしは、自分の食事をすくった匙を見つめている。赤ん坊の口に入りそうなほど少量の食べ物の載った匙を。
「あなたこそ、しっかり食べないと」友人は言う。「健康が認められないと〈務め〉は回ってこないんだからね」
わたしは匙に載ったごく少量の食べ物を口に運ぶ。愉快でも不愉快でもない食べ物の味が舌に広がる。
朝、サイレンの音で起床する。
図書室へ向かい、業務をこなし、帰宅する。夜の時間を持て余しながら床に就き、また朝を迎える。そんな日々を、数え切れないほど通り過ぎてきた。
わたしは何も変わらない。だが、わたしを取り囲むものは変化したように思う。図書室や居室の位置もそうだし、塔を取り巻く空気も変わった。塔の維持を確固たるものにしようという雰囲気が強くなった。
わたしのような女でも〈務め〉の対象となり得るようになったことが、その最たる例だ。
これまでは管理委員会の定めた基準により、ある程度選別されていたのが拡大された。これにより少し前であれば基準からは漏れていた筈のわたしも、〈務め〉を果たさざるを得なくなった。そして〈務め〉の意義も強く考えられるようになった。それは何者にも代えがたい〈良きもの〉であり、女として生まれた者の〈誇り〉であるという文脈で人々の口に上ることが増えた。
反対意見を述べることは非常識だ。
そもそも反対を表明する機会すら与えられないような〈圧〉が、わたしの周囲には充満している。
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