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 最初にわたしの名前がある。わたしに宛てたメッセージであると断定される。

 そこから、彼の言葉が続く。

 わたしをこの事態に巻き込んだことに対する謝罪。

 わたしの外界への〈憧れ〉を利用したことに対する謝罪。

 わたしに赤ん坊を任せっきりにしたことに対する謝罪。

 謝罪の弁が並んだかと思えば、彼を監視委員会へ通報しなかったことへの感謝が述べられる。

 この文章は、証拠品押収に立ち会った際に急いで書いたものだという。以下、わたしが欲していた情報が続く。

 赤ん坊は無事。屋上庭園へ連れて行かれ、他の乳幼児たちと同じ環境で養育されている。彼をそのまま成長させ、この塔の人間たちとの差違を研究するという方針を、管理委員会は打ち立てたとのこと。

 自分――つまり気象観測者――はこれから審理に掛けられ、処遇が決まる。恐らく処理は免れない。良くて再教育だが、いずれにせよ元の自分のまま再会することはないだろう。

 一つ、わたしに隠していたことがある。隠すつもりはなかったが、結局は隠れてしまった或る事実が。

 自分は、管理委員会運営理事の一人である。

 運営理事の職は七席ある。そこへ着くには、或る一定の評価基準を満たす必要がある。自分は図らずも、その評価基準に達していたようだ。

 運営理事の役割は塔の方針を決めることにある。七人の理事たちが円卓を囲み、話し合う。

 塔の方針を決めるということは当然、核心部に触れることになる。わたしは今まで知り得なかった、この塔の真実を目の当たりにする。

〈揺れ〉の原因となる地殻変動の頻度が上がっていること。

 霧が濃度を増し、上昇してきていること。

 目を背けたくなるようなそれらの事象が厳然たる事実として、会議の場では扱われていた。そして七人の理事の誰もが、共通の結論に達していた。

 このままいけば塔での生活は確実に行き詰まる。

 話し合いの舵は、どう事態を打開するかではなく、いかにこのままの生活を維持していくかに切られている。先細りしていくのも厭わずに、とにかく長く、塔での生活を続けて行こうと。

 塔を出る、という考えは誰一人として持っていない。気象観測者を除いては。

 彼は、塔の外へ活路を見出すべきとの提案を何度も出した。しかし、それが真剣に審議されることはなかった。そもそも、外の世界について考えること事態が禁忌であった。遠い昔、外界と無際限に繋がりを持ったが故に、今のような窮状がある。運営理事たちにはそうした考えが強くあった。運営理事でなくとも、通常の教育を受けていればそう考えるようになっている。外の世界へ興味を持つことは、危険思想そのものだ。どれだけ聡明な有識者でも、そのような認識を持っていた。

 この塔で生きる者は、すべからく塔の〈部品〉として何らかの役割を担っている。それは丁度、一つ一つの細胞が人間の生命活動を維持しているように。

 そうした環境に於いて、各々が大局とは違った考えを持つのは難しい。よしんば持てたとして、それを表明し、貫き通すのは不可能だ。流れは大きく、押し流す力も強い。その中で〈個人〉などという存在は、本当に、取るに足らない異物に過ぎない。

 病原菌を駆逐する抗体のように、塔は自浄作用を持っている。管理委員会、というより、それを運営していこうとする人々の意思が、それに当たる。塔の住人たちは、自分たちを縛り付ける鎖を自らの手で作り出し、更には自分たちでそれを握り、互いの身体を縛り合っているのだ。そうして誰もが身動きの取れぬまま、やがて来る終わりの時を静かに待っているのである。

 こうした仕組みに気付いたところで、何かを変えられるわけではない。むしろ異端として爪弾きにされるか、最悪の場合は集団の中から〈浄化〉されることとなる。大きな力によってにされてしまう。

 だが、いくら強大な力がのし掛かってこようと、一度でも胸に抱いた気持ちはになどならない。

 それは口に出さずとも、言語化せずとも、明らかに存在している気持ちなのだ。


 外の世界へ興味を抱くことは、決して間違ったことではない、と気象観測者は綴っている。間違っていると思うように塔の自浄作用として刷り込まれているだけで、悪事でも何でもない。

 信じること。

 自分で自分を否定しないこと。

 それが我々に取り得る、大局への唯一にして最大の対抗手段だ。

 だからあなたも(とメッセージの矛先がこちらを向く)、そのままのあなたで生きて下さい。。それは紛れもない事実です。誰の手にも、どんな力にも否定できない、厳然たる事実です。どうかそれを忘れずに。

 それでは、さようなら。


 サイレンが鳴る。

 終業の合図ではない。聞く者全ての意識を捉えようとするその長さから、注意喚起のためのものと推測される。

 即ち〈処理〉の音だ。

 誰かが〈処理〉されようとしている。霧の中へ向けて。

 気付くとわたしは図書室を飛び出している。

 廊下を駆け、昇降機へ向かう。リフトは他の階に止まったきり、動く気配がない。その場を離れる。階段を目指す。

 とにかく上へ――。

 階段を一段飛ばしで駆け上がる。

 上へ、上へ、上へ――。

 わたしの意識は、既に屋上の一角にある。実際に目にしたことがあるわけではないので、正確な位置も形状も知らない。しかし、人間を霧の中へ向けて〈処理〉しようとする設備がどういったものなのかは大体想像がつく。

 何度目かの踊り場の窓に、影が生じる。

 鴉が言う。

「そんなに頑張ったって、もう無駄だよ」

 わたしは彼の前を通り過ぎる。

 次の踊り場の窓辺にも、彼は現れる。

「やめた方がいいと思うな、僕は」

「うるさい」

 次の踊り場にも、その次の踊り場にも、鴉は現れる。

「行ってどうするつもりだい? 仮に屋上へ立ち入ることが出来たとして?」

 わたしは階段を上がり続ける。

 息が切れる。脚に力が入らなくなってくる。

「君には何も出来ない」

 意識が遠のく。それでも脚を動かし続ける。

「もう何もかも手遅れだよ。君は全てを失ったんだ。」

 口の中は血の味で満ちている。胸に綿でも詰められたように息が出来ない。

 上へ。

 上へ。

 上へ――。

 見上げる次の踊り場の窓に、また鴉が止まる。その後ろを何かが落下していく。

 わたしの中から音が消える。

 時間の流れが止まる。

 全ての思考が死ぬ。

 窓の向こうで留まるそれは丁度、人体と同じぐらいの大きさだ。


 カン、カン、カン、カン、カン――。

 塔の〈鼓動〉がいつもより大きく聞こえる。

 頬に、コンクリートの冷たい硬さが食い込んでいる。

 わたしは階段に伏せている。どれだけの間、そうしていたのかはわからない。サイレンは既に鳴り止んでいる。

 身体を石から引き剥がす。踊り場を見上げる。

 窓の向こうには何もない。鴉もいない。薄曇りの空が広がっているだけだ。

 わたしは、その場から動けない。身体に力が入らない。或いは、動こうとする意思が肉体に作用するまでには足りないのかもしれない。

 どうしてそのようなことが起こるのか。

 言語化は出来ない。

 言語化は出来ないが、理由は必ずある。

 おかしい。

 言語化出来ないものは、存在しない筈なのに。

 は確かに存在している。わたしの胸の大部分を占め、肉体の動作を阻害するは。

 確かに存在している。

 確かに存在している。

 言語化は出来ないが、確かにここにある。

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