4-3

 わたしは司書の業務に徹する。

 作業に集中している間は、自分の中の空洞を自覚せずに済む。目録を作り、資料の貸出をし、利用者と当たり障りのない会話を交わす。

 赤ん坊も気象観測者もいない生活。

 彼らがあたかも存在しなかったかのような生活。

 そういう日々を過ごす。

 だが、未返却資料のリストを確認していた時、あることに気付く。

 気象観測者の研究室に立ち入ることが出来るのではないか、と。そこに行けば、彼に繋がる何らかの手掛かりが得られるのではないか。

 希望的観測だ。

 しかし、このまま何もしないという選択は取り得ない。

 資料返却の催促は司書の権利であり義務だ。利用者が催促に応じない場合は直接回収に行くことになる。これまで何度か、利用者の元を訪ねていったことがある。

 もっとも、資料の返却を求めに行くのは心が躍るような業務ではない。良くて居留守を使われ、悪ければ小言をぶつけられる。何より、回収には管理委員会の係員が同行する。彼らの存在はわたしが未返却者から不当な危害を受けることへの抑止力となるが、わたし自身の精神的負荷にもなる。彼らの監視対象には未返却者だけでなく、わたしも含まれているのだ。

 しかし、一度気付いてしまった以上、彼に繋がる可能性から目を背けることが出来ない。わたしは気象観測者の貸出記録を改竄し、彼が未だ資料を一点返却していないことにする。そして未返却資料回収業務を管理員会に申請する。

 受理される見込みは薄い。最悪の場合、嘘が露呈して罰せられる可能性もある。

 意外にも申請は受理される。

 管理委員会から回収日程の通知が来て、指定通りの日時に気象観測者の研究室へ行く。

 扉の前には管理委員会の係官が立っている。わたしを取調べた人物と似ている気がするが、同一人物である確証はない。彼は特に何も言わない。こちらからも何も言わない。我々は初対面として、形式的なやり取りを交わす。

 鍵は既に開けられている。入室する。廊下を抜け、居室へ至る。係官は居室までは入ってこない。戸口に立ち、こちらを監視している。

 わたしは室内を見渡す。

 室内は一見すると彼の痕跡が残されたままになっている。恐らく彼のものと思われる痕跡が。

 机に向かう。天板の端には数冊のノートが積まれている。皿にはペンが整然と横たわっている。無数の小さな紙片が、正面の壁に掛かったボードだけでなくスタンドにまで貼り付けられている。紙片には単語や数式が書き込まれているが、一枚一枚を読んだだけでは何を意味するものなのかはわからない。

 係官の目を盗み、一番上のノートを少しだけ開いてみる。中には何も書かれていない。その下も、その下のノートにも。これらの空白はむしろ、有益な情報が書かれたノートの不在を感じさせる。

 机の後ろには作業台が置かれている。天板がこちら側に傾斜し、書き物をし易い作りになっている。手前には、長さの違う定規が二本と、分度器、鉛筆、消しゴムが並んでいる。わたしは定規を手に取ってみる。彼が使った定規。彼はこれを使って、何のための線を引いたのだろうか。

 窓の外へ目を向ける。バルコニーの向こうに広がる曇り空。彼の見た景色。夕暮れ時には、彼方にあの明滅が見えるのだろう。わたしが眺めていたのと同じように、彼も手摺りにもたれ、光を眺めていたのだろう。

 咳払いが聞こえる。係官から、昼のサイレンまでに終わるだろうかと訊ねられる。わたしは終わらせますと答え、架空の未返却資料の捜索に取り掛かる。

 棚には書物が並んでいる。この研究室に代々受け継がれてきたものだろう。抜けもなく、一切の隙間も生じさせない形で棚に収まっている。背表紙の題名を見ると、やはり気象観測に関わるものばかりだ。

 しばらく題字を追って、探しているふりをする。

 そのうちに違和感を覚える。何かが胸の内側に引っ掛かる感覚がある。正体を見極めようと、己の内部へ目を凝らす。気付く。

 書物の並びが不自然なのだ。

 棚に並ぶのは、複数巻に分かれた書物ばかりだ。頭文字順、或いは巻数順に納められている。

 だがよく見ると、所々に順番の乱れがある。後ろにあるべきものが前にあり、前にあるべきものが後ろにあるのだ。それが一箇所ではなく、複数箇所確認できる。

 わたしは棚の下段に辿り着くと、もう一度最上段から、〈乱れ〉を意識しつつ視線を走らせる。〈乱れ〉は等間隔で起きているわけではない。感覚はまちまちで、段によっては全くない場合もある。

 何かに似ている。

 いや、わたしはその〈何か〉に、既に思い至っている。

 無意識に組み合わせた両手の親指で、拍子を刻んでいる。

 胸の中では光が明滅する。

 チカ、チカ。チカ、チカ、チカ。チカ、チカ、チカ、チカ。

 ヒ、キ、ダ、シ、ノ、ソ、コ。

 辺りを見回す。抽斗を探す。それらしいものは見当たらない。

 この部屋に抽斗は一つしかない。机の天板の下にあるものだけだ。

 取って返しそうになる気持ちを押さえる。

 何かを見つけた素振りを見せてはならない。飽くまで自然に、ふと思い付いた風を装って机まで戻る。抽斗を開ける。

 中には何もない。あったのだろうが、今はない。

 手を差し入れ、奥の方まで探る。やはり何もない。

 ここにあった筈の他のものと同じように持ち去られてしまったのだろうか。

 いや、書架にメッセージを残すほどのことをしておきながら、そんな迂闊なことを彼がするだろうか。

 抽斗の底を叩いてみる。鈍い音。指先に、想定よりも厚みのある感触が伝わってくる。

 今度は底の裏面に手を這わせてみる。指が小さな穴を探り当てる。小指すら入らない、小さな穴だ。天板からペンを取る。ペンの先を穴に挿す。抽斗の底が僅かに押し上げられる。わたしは立ち上がる。

 係官と目が合う。そろそろ切り上げろ、とでも言いたげな眼差し。わたしは小さく頷く。後ろ手で押し上げた抽斗の底から一冊のノートを抜き出しながら。

 結局書物は見つからなかった、と報告をする。係官は特に疑問や違和感を抱いた様子もなく頷く。我々は気象観測者の研究室を出る。扉が閉まる間際、中を振り返る。無人の部屋が、扉の向こうに消えていく。

 図書室へ戻り、閉架書庫へ入る。

 服の下からノートを取り出す。表紙には何も書かれていない。作りたてのように、歪み一つ見当たらない。

 開く。

 一枚目は真っ新だ。

 次の頁も。その次の頁も。

 どこまで捲ってもノートは白いままだ。

 だがやがて、白だけだった視界に黒が現れる。見開きいっぱいに、明らかな意思を以て書かれた黒が。

 文字ではない。点と線。

 ――・――――・・――――――。

 一見すると模様のようでしかない。しかしわたしは、それが彼の〈言葉〉だとわかる。

 解読する。口の中で、点と線の連なりを変換していく。

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