4-2

 元通りの日々が戻ってくる。つまり、司書として業務をこなす日々が。

 わたしが不在の間、受付には代理の女性が座っていたらしい。彼女がどこの誰で、本来どのような業務に就いているのかは知らない。ただ短い申し伝えをされただけだった。曰く〈異常なし〉とのこと。大きな揺れで散乱した書物は、全て書架に戻っていた。

 代理の女性が去って行く。わたしは業務を再開する。やがて、部屋の隅の席に同じ男性が座り続けていることに気付く。彼は時折書物を取りに行く他は、決して席を立たない。貸出の手続きを取りに来る気配もない。そこにいること。それこそが、彼の目的であるようだ。わたしは彼の存在を意識の中から消去する。

 書庫の中も片付いている。当然だが、赤ん坊はいない。寝床として使っていた籠もない。彼がいた形跡は、一切見当たらない。

 わたしが不在の間、目録作成の作業は進まなかったようだ。代理の女性は飽くまで、貸出と返却業務だけを代行していたのだろう。不満はない。むしろ、独力で進めてきた作業が他者の介入を受けなかったことに安堵する。

 そうとは言い切れぬものの、未分類の書物の山はほぼ精確に直されている。少なくとも、次に目録へ記載しようと見当をつけていた書物はある。それらを抱え、受付へ戻る。

 何日かぶりに目録を更新する。

 自分がどれだけの間、不在にしていたのかはわからない。

 何日、或いは何十日。

 拘束されていた間の日々は、全てが溶け合って一つに感じられる。そこには、一日一日の区別などはない。ただ〈拘束されていた日々〉という塊があるだけだ。

 持ってきた書物の分類を終え、新たな書物を取りに行く。書庫へ入ると、自然とある一点に視線が引き寄せられる。そこには何もない。リノリウムの床が剥き出しになっているだけ。或いは、何かが置かれていた痕跡がある、と言えるのかもしれないが。わたしは歩を進め、未分類書物の山へ向かう。

 サイレンが鳴り、昼食の時間となる。

 食堂では友人が待っている。彼女はわたしを見るなり手を振り、近付いてくる。昨日もそうしていたような気さくさがある。

 昼食を受け取り、彼女と共に席に着く。

「大変な目に遭ったわね」と、彼女は言う。「でも良かった。あなたの潔白が証明されて」

 わたしは白いパンを千切りながら頷く。

「ここだけの話、あたしも尋問を受けたの。尋問といっても、ごく軽いものだったけれど。あなたの人となりを訊かれたわ。どんな性格で、普段はどんなことを話すかとか、そういうこと。あたしはありのままを話したわ。だってそうした方が、あなたに疚しいことのない証明になるもの。〈彼女に落ち度はありません。彼女は巻き込まれただけです〉って、最後に言い添えてやったわ」

 わたしは千切ったパンを口に運ぶ気にもなれず、弄ぶ。

「あなたはごく普通の人間よ。しっかりとした教育を受けて、ちゃんとした仕事に就いている、まともな人間。平均的な塔の構成員なのよ」

 パンは、段々とそれが〈食べられるもの〉であるという認識が薄れてくる。掃除道具でも摘まんでいるような気分になってくる。

 そこへ、白い手が伸びてくる。別の体温が、わたしの手を覆う。

 目の前に、友人の眼がある。

「だからお願い。もうやめて。いい加減、元のあなたに戻って」

「元、の……?」

「昔の、書物を読むのが好きなだけだったあなたに」

「わたしは……」彼女の手を除けようとするが、力が入らない。「今でもそうだよ。書物さえ読めれば、後は何も求めない」

「違う」友人は断言する。「ある時からあなたは変わってしまった。たぶん、彼と出会ってから。いつも話していた、気象観測者の彼と」

 わたしは黙る。

「深く詮索するつもりはなかったし、これからもないわ。あなたはあなたで、あたしはあたしだもの。だけど、これだけは言わせて。お節介は承知の上よ」

 重ねられた手に力が込められる。わたしはいよいよ抗えなくなる。

「何が自分にとっての幸せなのか、よく考えなさい。あなたの生きる場所は、この塔の中にしかないのよ」

 彼女の手が離れていく。パンの欠片は、すっかり潰れている。


 終業後、図書室の戸締まりをして居室へ戻る。

 夕食までの間、バルコニーへ出る。冷たい風が吹き付ける。雨粒が混じっている。光の明滅は、雲に覆われ見ることが出来ない。

 鴉が飛んできて、傍の手摺りに止まる。

「やあ。僕の声が聞こえているかい?」

 わたしは答えず、彼方の雲を見続ける。鴉は言う。

「今まで寂しかったよ。おかえり、僕の一番大切な友達。ようやく戻って来られたんだね」

 わたしは鴉へ目を向ける。

「戻るって、どこへ?」

 鴉は嘴を開けたまま、首を傾げる。わたしの言葉を理解していないように見える。

「わたしは〈元に戻った〉の? あの子のことも、彼のこともなかったことになって、わたしは元いた場所に戻っているの?」

「やれやれ」と鴉は言う。「あまり反省していないようだね。もっとも、君の性格をよく知る身としては、どうせそんなことだろうと思っていたけど」

 いいかい、と彼は言葉を置く。

「すっかり元の通りに戻るなんて不可能さ。時間というものは決して巻き戻ったりしないからね。ある地点の自分に戻りたいと願っても、完全にその地点にいた自分にはなれない。そこまで経過した時間は、どうやってもなかったことには出来ないのだから。君の場合で言えば、あの男とあの子供。二人の消息を今でも気にしているという点が、〈経過した時間〉に当たる部分だね」

「それは理解した。その上で、わたしは何をすればいいの?」

「努力することだね」鴉は言う。「周囲の人々は――塔は、君が元の従順な住民に戻ることを望んでいる。この塔に対して何の疑問も持っていなかった、ただひたすら与えられた仕事をこなすだけだった無垢な君に」

 そんな頃が、あったのだろうか。

「あったんだよ」鴉が胸の内を見透かす。「君は、少なくとも僕の目から見れば、あの男と出会うまでは無垢な女の子だった。外の世界への憧れは、飽くまで君の抱いた〈空想〉で済んでいたんだ。それが、あの男に悪知恵を吹き込まれたことによって真実味を帯びて〈危険な思想〉になってしまった。僕は辛かったよ。君が段々と汚されていくのを見ていることしか出来なかったんだから。何度あの男を突き殺してやろうと思ったかわからない。実際、何度も隙を覗ったことはあるんだ。だけどあの男は警戒心が強かった。決して不用意に、君みたいに外に出てきたりはしないんだ――おっと、ごめん。話がずれてしまったね。とにかく僕が言いたいのは、僕は君を大事に思っているということさ。それは今も変わらないよ、もちろん」

 わたしは問う。

「あなたは、彼がどこにいるか知っているの? もしくは、あの子がどうなったか、を」

 鴉は口を噤む。わたしは更に問う。

「知っているの?」

 答えはない。

「知っているのね?」

「もし僕が知っていると答えて、その居場所まで教えたら、君はどうするつもりだい?」

「お願い、教えて」

「僕の質問にも答えてほしいな」

「教えて。わたしのことを本当に大切に思うのなら」

「やれやれ。君は本当に変わってしまったんだね」

 鴉が翼を広げる。黒い羽が何本か舞う。彼の両翼は、わたしの記憶にあるものよりも遥かに大きい。わたしの身体がすっかり包み込まれてしまいそうなほどだ。

「だけど僕は待っているよ。いつか本当に、君が戻ってくるのを」

 鴉は羽ばたく。手摺りを蹴って飛び立っていく。

 虚空を握る手に気付いて初めて、わたしは自分が手を伸ばしていたことを知る。何を掴もうとしていたかはわからない。

 目の端で何かが光る。

 雲の切れ間に、瞬く光が見える。

 チカ、チカ、チカ。

 チカ、チカ、チカ。

 解読表を見るまでもなく、わたしは明滅パターンを言葉に置き換えることが出来る。

 ソ、コ、ニ、イ、ル、ノ、カ。

 そこにいるのか?

 わたしは、明滅に変換された問いに答えようと試みる。だが、上手くはいかない。

 自分がここにいるのか、自信が持てない。

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