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カン、カン、カン、カン――。
塔の〈鼓動〉が、ここでは鮮明に聞こえる。音の発生源が近いのだ。
最上階。管理委員会の拠点が置かれる階層。屋上庭園にいた頃を除けば、わたしはこれまでの人生で最も高い場所にいる。
カン、カン、カン、カン――。
〈鼓動〉のリズムは安定している。決してずれることはない。
わたしは、バルコニーから見る光の明滅について考える。今頃はまた、明滅のパターンが変わっているのだろうか。今度はどんな言葉が送られてくるのだろうか。すぐにでも確かめたいと思う。
カン、カン、カン、カン――。
一定の間隔で響き続ける。この音には、何の言葉も、感情も、込められていない。
節くれ立った人差し指が、机を叩く。
わたしは顔を上げる。対座する取調官を見る。
彼は背筋を伸ばし、こちらを向いている。わたしは壁と向き合っている気分になる。机の上で手を組み合わせ、取調官は言う。
「いい加減、話してくれないだろうか」
わたしは答えない。
「あの乳幼児はどうした? 誰の子だ? どうやって手に入れた? 自分で産んだのか? だとすると父親は誰だ? 〈彼〉か?」
わたしは否定も肯定もしない。気が付けば、また机を見ている。
小さな溜息が聞こえる。
「〈彼〉とはどういう関係だ? どこで知り合った?」
気象観測者について訊かれているのだとわかる。図書室で、と言おうとして口を噤む。どんな些細な糸口でも開けてはならないと自分に言い聞かせる。
沈黙。それが、今のわたしに出来る唯一の抵抗だ。
「黙っていても得はない」取調官が言う。「我々は君が話すまで尋問を続ける。それが我々の仕事だからね。君が毎日書物の管理をするように、我々は秩序から逸脱した者を取り調べる。こちらが根負けするなどと思わない方がいい。君が来る日も来る日も書庫に籠もり続けられるのと同じで、我々もまたこの取調室に居続けることが出来るのだから。来る日も来る日も。来る日も来る日も来る日も」
〈鼓動〉が大きくなる。取調官の声を覆うほどに。
カン、カン、カン、カン、カン、カン、カン、カン――。
取調は続く。わたしは取調官と向き合い続ける。
既に何日ここにいるのかわからない。過ぎていった日々は、全て一つの〈過去〉として溶け合っている。
取調官は常に背筋を伸ばしている。前日と違う人物ではないかと疑うほど、疲労の色は見られない。そしてどれだけ目を凝らしても、前日と違う部分は見当たらない。わたしだけが不当に、時間の流れに晒されているようだ。
気持ちが挫けそうになったのは一度や二度ではない。数えられないほどの回数、わたしは噤んだ唇を解きかけた。その度に、赤ん坊と気象観測者の顔を思い浮かべた。わたしが不用意な発言をすれば彼らに危害が及ぶ。沈黙を守りきれば少なくとも、危害を行使するきっかけを与えずに済む。言葉にしなければ、事実も存在しない。
終業のサイレンが鳴る。一日の尋問も終わる。取調官が溜息交じりに言う。
「今日も一日、乗り切ったな」
わたしは答えず、独房へ連行される。
独房は居室より狭い。実際の広さとしては居室の半分程度なのだろうが、それより遥かに狭く感じる。窓が小さいせいだ。わたしには届かない位置に空いた明かり取りが、この空間に於ける唯一の窓なのだ。
夕食が運ばれてくる。黒いパンと、野菜屑の浮かんだ薄いスープ。わたしはそれらに一口ずつ口を付けただけで食事を終える。
明かり取りの向こうに月が見える。月のない日は星が見える。空が曇り、どちらも見えないことも少なくはない。そうした日に、むしろ明滅する光について考える。今日はあの光は見えまい。いやもしかすると靄の向こうで朧気に光っているかもしれない。硬いベッドに横たわり、わたしはそんな想像を巡らせる。そして知らないうちに眠りに落ちる。
大昔、罪人に罪を告白させるため、その肉体に危害が加えられたという。爪を剥ぐとか、熱した鉄を押し当てるとか、塩を塗った足の裏を家畜に舐めさせるといったものがあったと、書物には記されていた。
少なくとも今のところは、わたしはそういった目には遭っていない。取調官は危害を加えるどころか、わたしに指一本触れてこない。
彼はいくつかの質問を投げてくる。その後は、こちらの答えをじっと待つ。待ち続ける。テーブルの上で手を組み合わせ、背筋を伸ばしたまま視線を向けてくる。身を隠すような遮蔽物は存在しない。その眼差しから逃れる手立ては、俯く他にない。
以前話していた通り、彼には時間が潤沢にあるようだ。黙って、こちらが話し出すのを待つほどの余裕が。
一方、わたしの方にはいつまでも黙っていられる余裕はない。赤ん坊と気象観測者の消息を一刻も早く知りたい。こうして俯き口を噤んでいる間にも、彼らはどこでどうしているのか。少しでも考えがそちらへ及ぶと、途端に胸の内側で何かがざわざわと蠢き出す。
やがて気を紛らわせる手段として、〈鼓動〉を数えることを思い付く。初めは百まで数える頃には落ち着きを取り戻していた。しかし日数を経る毎に耐性がついていき、二百でも足らず三百、四百と数えるようになった。
五百を過ぎても尚、〈数を数えている自分〉が自覚された時、わたしはこの方法を放棄した。
明かり取りの向こうに満月が浮かぶ。わたしは壁に寄り掛かり、何度目かわからない満月を蒼白い光の中で眺める。それからぼんやりと、次にここで満月を見ることはないのではないか、と考える。漠然とした予感だが、言いようのない根拠も孕んでいる気がする。
月は欠けていき、新月となる。
真っ暗な独房に靴音が近付いてくる。わたしは闇の底で、その音を他人事として聞いている。
靴音は、わたしの独房の傍で止まる。
続いて、金属の触れ合う音がする。わたしは鍵の束を思い浮かべる。束の中から一本が選び抜かれ、鍵穴に差し込まれる。
解錠。鉄の閂が外される。毎朝、取調室へ連れて行かれる時にしか聞かない音だ。
名前を呼ばれる。もはや聞き慣れた声だ。ベッドの上で身体を起こすと、戸口に人影が立っている。影で取調官だとわかる。
「君への疑いは晴れた」取調官は言う。「明日からは通常の職務に戻りたまえ」
言葉の意味を理解するまでに時間が掛かる。その間に、取調官は去って行く。わたしは後に残った係員に連れられ、独房を出る。元の居室へ戻る。
居室には赤ん坊の姿はない。バルコニーの向こうには光も見えない。わたしはベッドへ上がり、壁に寄り掛かって膝を抱える。真っ暗な部屋で一人っきり、蹲るような格好で〈鼓動〉を数える。
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