3-6

 一瞬、全ての音が消える。

 目に映る何もかもが遅くなる。静止したようにさえ見える。

 すぐに世界は動き出す。

 轟音が耳から流れ込んでくる。その向こうで微かに、書物の落ちる音や木の砕ける音、悲鳴、その他原因不明の破裂音が聞こえる。

 棚から書物が飛び出す。その書架も倒れる。電灯が狂った振り子のように揺れ、やがて灯りが消える。カウンターに積んでいた本の山は跡形もなく姿を消す。目の前に立っていた利用者も消えている。天井から砂が落ちてきて、白い埃を巻き上げる。何も見えない。目を凝らそうにも、立っていられない。抗いがたい力に屈して壁に叩きつけられる。痛い。そこへ更なる力が上方から被さってくる。わたしは押さえ付けられる。

 抵抗する気力も湧かないほどの、圧倒的な力で。

 暗闇の中で、じっと息を潜める。どんな物音も立ててはいけない気がする。書物で読んだ物語を思い出す。幼い子供が、恐ろしい〈魔物〉から逃げるという話だ。彼は自分を追ってくる〈魔物〉から身を隠す時、息を潜めていた。音を立ててれば〈魔物〉に気付かれ、また捕まってしまう。読んだ当時はそんな状況に直面したことはなかったが、恐怖はありありと伝わってきた。そして今、同じ恐怖がわたしを包み込んでいる。同じどころか、何倍も恐ろしいと実感できる。

 轟音は次第に小さくなっていく。入れ替わりに、今度はサイレンの音が聞こえてくる。危険を報知すると共に、恐怖を掻き立てる音色だ。

 彼方此方にギシギシという軋みが残っている。部屋全体が、というより塔そのものが軋んでいるようだ。激しい揺れが収まっても、緩慢な横揺れが続く。それはしばらく収まる様子を見せない。わたしは書物に埋もれたまま長い時間を過ごす。

 サイレンが尾を引きながら消えていき、いつもの〈鼓動〉が戻ってくる。

 横揺れも小さくなっている。わたしは覆い被さる書物を除ける。身体の所々に痛みがあるが、出血はない。

 立ち上がる。

 カウンターの向こうには、数分前までの〈図書室〉の景色はない。書架は倒れ、収められていた書物が床に散乱している。部屋全体が埃っぽく、口を覆わずにはいられない。奥の壁から天井にかけてはヒビが入っている。

 どこかで何かが割れる。廊下からは人の叫ぶ声が聞こえる。

 すぐ傍で呻きがしたかと思うと、カウンターに手が載ってくる。目の前にいた利用者だ。彼は衣類こそ汚れているものの、目立った外傷はない。転倒した際に打ち付けたのか、腰を擦っている。

「大丈夫かい、司書さん?」

 わたしは頷く。同じ問いを返すと、彼も頷く。

「今の揺れはひどい。ここまでのものは、未だかつて味わったことがないよ」

 出入り口の扉が叩かれる。返事をする前に蹴破られる。管理委員会の腕章を付けた男性が顔を覗かせ、短い無事の確認と避難の命令をして立ち去っていく。

 わたしはハッとする。そこで初めて、ぼんやりしていた自分に気付く。

 書物を踏みつけながら書庫へ向かう。扉に取りつくが、開けられない。向こうで何かが押さえになっているようだ。全身の体重を掛けると、どうにか僅かな隙間が生まれる。そこから書庫の床が見える。こちらと同じく、書物が散乱している。

「どうしたんだい、司書さん?」利用者の声がする。「そこに何かあるのかい? それとも誰かいるのかい?」

 わたしは答えず、扉を押し続ける。

 誰かが駆け込んでくる気配がある。気配はわたしの元へ近付いてくる。

「代わります」気象観測者が、息を切らしながら言う。

 わたしは扉から離れる。代わりに彼が扉を押し始める。隙間が見る見る広がっていく。やがて、わたしなら身を滑り込ませられるほどになる。わたしは彼を押し退けるようにして、隙間へ飛び込む。

 書庫もまた、ほぼ全ての書物が床に落ちている。書架はどれも斜めに倒れ、端の一列が壁に凭れている。

 赤ん坊の寝床を探す。見つからない。背表紙を向けて開いた書物ばかりが目に付く。大凡の見当を付け、その辺りの書物を除ける。四角い書物の隙間から、白い布が覗く。寝床に敷いていたものだ。書物を除ける手を早める。

 赤ん坊の呆けた顔が現れる。傷はない。落ちてきた書物同士が支え合い、彼を覆う空間を作っていたらしい。身体のどこにも書物は触れず、どこかを痛めた様子はない。

 真っ黒な瞳が天井へと向けられている。己の身に起きたことに驚いたのかもしれない。

 抱き上げようと手を伸ばす。すると、彼の顔が俄に歪む。歪みは見る間に顔全体へと広がっていき、目には泪が浮かぶ。

 わたしは初めて、泣き叫ぶ彼を見る。

 その声はサイレンに似ている。聞いていると、胸の奥を浚われるような不安を覚える。

 幼い時に見た、あの女性の顔が浮かぶ。わたしに向けて何かを叫ぶ、あの顔が。

 泣き声は書庫を満たす。そればかりか、図書室へ漏れ出て、廊下にまで伝わっているようだ。扉が押し開けられ、気象観測者が入ってくる。その後ろにも多くの人の気配がある。しかし、誰もが黙っている。呆然としている。わたしと気象観測者の二人とは違う理由で、言葉を見つけられずにいる。

「何だい、それは?」ややあって、先ほどの利用者が声を発する。「どうしてこんな所に乳幼児がいるんだい?」

 明確な回答はない。答えられる者はいない。

 

 その事実があるだけだ。

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