3-5
友人が、わたしの顔をじっと見つめてくる。何かを探り当てようとする眼差しだ。わたしは動揺を気取られぬよう訊ねる。
「どうかした?」
「あなた最近、何かあった?」
視界が揺らぐ。動揺を表に出さぬよう注意しながらわたしは問い返す。
「何かって、何が?」
「何かは何かよ。強いて言うなら、そうね――あなたにとって嬉しいこと、かしら」
彼女の洞察は鋭い。たしかにわたしには彼女の言う〈何か〉がある。だが、それに名前を付ける時、〈嬉しいこと〉が適当なのかは疑問が残る。そもそも何が、自分にとって〈嬉しいこと〉に相当するのかを、わたしは把握しきれていない。
「特に思い当たる節はないけれど」わたしは言う。
「そう? 心なしか、以前より顔つきが柔らかくなったように見えるわ」
思わず頬に手を充てる。特に違いは感じない。それだけに危機感を抱くべきだ。わたしの意図しない所で、変化が漏れ出ている。
沈黙しているわけにもいかないので、わたしは注意深く言う。
「最近、蔵書候補が増えたからかもしれない」
「潜霧隊が持ち帰ってきたもの?」
わたしは頷く。
「洗浄が終わって、ようやく図書室へ回ってきたの。分類までにはまだ時間が掛かるけど、書物が増えるのは純粋に嬉しい」
「ふうん」友人は頬杖を突く。「あなたって本当に書物が好きなのね」
まだ疑われている気がして、繕うようにわたしは言う。
「好きじゃなかったら司書なんて仕事は務まらないわ。わたしは文章を読むのが好きなの」
「たしかに、庭園の中で誰よりも早く読み書きを覚えたのはあなただった」
「誰かの残した考えや、昔の出来事を知るのは楽しいの。ここではないどこか別の場所に行けるような気がするから。たとえ空想でも、そうしたものについて考えると、気持ちが落ち着いてくる」
言ってから、しまったと思う。別の面を誤魔化そうとするあまり、本来隠しておくべきだった部分を露呈してしまった。今のは本心から出た言葉である。同時に、自分の中で言語化していても、誰にも聞かせたことのない考えでもある。
この動揺は隠せなかったようだ。友人が肩を竦める。
「今の話、聞かなかったことにしておくわ。だから他の人の前で言っては駄目よ」
わたしは頷く。それから、こちらの未熟さを大らかに受け止めてくれた彼女の優しさに対して礼を述べる。
一方で、彼女に隠し事をしていることに罪悪感を覚える。
わたしは彼女を騙している。
弁明の機会が訪れることは、きっとない。今この瞬間、罪を意識して罪悪感に苛まれる。それがわたしに出来る唯一の贖罪だ。
段々と、赤ん坊の目を覚ましている時間が増えてくる。今までは夕方以降にしか開いていなかった瞼が、昼間に書庫を覗くと開いていることがままある。
やがて彼は寝床を抜け出して、書庫の中を這うようになる。様子を見に行って寝床に姿がないと、書架の裏側にいたりする。わたしは彼のために床を掃除し、書物の山を一箇所に纏める。彼への危険を極力排除する。
彼が書庫から出てくることは決してない。また、泣き声を上げてわたしや気象観測者以外の人間にその存在を知らしめることもない。
彼は書庫の中で、塔に気付かれぬまま着実に成長していく。
サイレンが鳴る前に起床する。
金属を打つ〈鼓動〉を聞きながら食事を済ませ、身支度を調え部屋を出る。
廊下を、荷車を押して進む。表向きには書物を積んでいることになっている。遅々として進まぬ分類作業を、夜間も自室で行うために持ち帰ろうというのだ。これは、半分は真実で半分は嘘だ。たしかに書物は積んでいる。分類作業も少しは進めている。しかし、載せているのは書物だけではない。被せた大きな白い布の下には書物に囲われる形で赤ん坊が横たわっている。
赤ん坊が泣かない性質だから成立する輸送方法だ。書物に書かれた赤ん坊というのは己の危機を報せるために泣き喚くというが、彼はそうしたことがない。全くないというわけではなく、たまにぐずることもあるが、こちらの手が煩わされるほどではない。
彼は手の掛からない子供だ。まるで、こうして人目を忍んで育てられることを見越したかのように。
図書室に着き、荷車を書庫へ入れる。布を取ると、赤ん坊は目を覚ましている。わたしは彼を荷車から降ろす。彼は床の上を這い回る。こちらが一頻り開館の準備を済ませて戻ると、彼も書庫の〈探索〉を終えている。寝床に寝かせると、直ちに瞼を閉じる。
一日の業務が始まる。
わたしはカウンターで目録作りを進める。時々思い出したように利用者がやってきて書架の間を行き来する。彼らは書物を抜き取り、頁を捲っただけで帰って行くか、貸出の手続きをしにカウンターへ来る。こちらへ来た場合は手順に従って対応する。片手の指を折っても余る程度の回数それを繰り返すと、午前の終わりを告げるサイレンが鳴る。
食堂で友人と昼食を摂り、会話をし、図書室へ戻る。
午後の業務が始まるまでの間、赤ん坊に食事を与える。以前はこの時間には眠っていることの方が多かったが、今では目を覚ましていて食事を摂る。彼は流動食を食べ、ミルクを飲む。動きたがるので、床に下ろし、這い回させる。
いつも通りの手順を踏み、いつも通りの光景が繰り広げられる。寸分違わぬことはないけれど、区別を付けるほどの差違もない日々である。
午後のサイレンが鳴る。わたしは赤ん坊を抱え上げる。
寝床へ横たえると、彼は小さな手でわたしの服の袖を握る。引き留めるような、或いは縋り付くような手つきである。
わたしは俄に混乱する。こんなこと、今まで一度もなかった。床を這い回るのと同じ、赤ん坊の成長の証(しるし)だとはどうしても思えない。そのように思わせる特異な何かが、袖を握る小さな手には含まれている気がする。
「どうしたの?」わたしは小声で問う。納得のいく回答など求めていない。むしろこちらから彼に安心を与えるつもりで、穏やかな声音を心掛ける。「もう行かなくてはならないの。良い子だから離してね」
しかし、作り物のように小さな手は一向に離れない。それどころか、袖が一層強く引っ張られる。
背後から声が聞こえる。利用者がカウンターに来ている。わたしは少しだけ待っていてくれるよう返事をする。赤ん坊が泣き出さないかと気が気ではない。事実、こちらが言葉を掛ける度に、彼の顔は歪んでいく。眼には泪が溜まり、反射した電灯の灯りを漂わせている。
「すぐに戻るからね」言いながら、殆ど引き剥がすように赤ん坊の指を解く。
彼は喘ぐ。わたしは踵を返し、飛ぶような足取りで書庫を出る。後ろ手で戸を閉める。カウンターで待つ利用者に謝意を表明し、貸出手続きをとる。書庫の中からは何も聞こえない。そちらにばかり意識を集中させていたため、利用者からの雑談も聞き逃す。
相手が書名を口にする。その題名の書物がないか、調べてほしいという要望だ。わたしは目録に手を伸ばす。捲る。書名の連なりを指で追う。
不意に、足元が浮き上がる感覚を味わう。
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