3-4

 管理委員会から配られた貼り紙を、図書室の彼方此方に掲示する。カウンターは元より、壁や全ての棚の側面に鋲で留める。この部屋へ入った人間の眼に、否応なく触れるように。

 もっとも、ここへ来るまでに同じ貼り紙を見ないわけにはいかない。廊下の壁には等間隔で並び、全ての部屋の扉にも必ず一枚は貼り付けられている。毎日、食事と共に添えられてもいる。書かれた文言が単なる模様に見えるぐらいには、見慣れている。

 それは、霧の上昇により現在の居住可能階層を見直すとの内容だ。現在の総人口と各員の移動効率を鑑み、再策定されると貼り紙には書かれている。他にも様々な理由が述べられているが、それらが指し示す先にある結論は〈最下層の放棄〉だ。文面では飽くまで、自分たちでそれを選択したということになっている。

 霧が、最下層では日常生活を送れないほど濃くなってきたのである。直接的にそう書かれているわけではないが、そうした理由が透けて見える。或いは、そのように考えるのはわたしの側に原因があるのだろうか。気象観測者の話ばかりを聞いている、わたしの側に。

 図書室に彼が来る。赤ん坊の様子を見た後で、自ずと話題は貼り紙のことになる。

「前回の最下層引上げは、僕がまだ幼い頃でした。記憶にないほど幼い頃です。あなたはまだ産まれていなかったかもしれない」

 彼の言葉に、わたしは頷く。わたしが覚えている限り、最下層の引上げは初めてだ。

「その前は、もう一世代前のことだったと記録に残っています。つまり、前々回と前回の時に比べ、前回と今回の間は期間が早まっているんです」

「霧が早く上昇しているということですか?」

「少なくとも、観測記録はそう示しています。管理委員会は認めたがりませんが」

「原因はわかっているのですか?」

「今のところは何も。もしかすると、最近の揺れの頻度と大きさに関係しているのかもしれない」

 霧と揺れ。その二つを繋げて考えたことは一度もない。気象観測者は続ける。

「この塔が建っているのは地上です。揺れは、その地上の奥底が変動することで引き起こされます。片や霧は、地上の裂け目から噴出しているものと考えられています」

「どちらも地上の奥にあるもの」

 彼は頷く。

「そうです。塔の建つ大地そのものが異変を来している。それは何事もなく収束していくかもしれないし、もっと大きな異変をもたらすかもしれない。それこそ、この塔が崩壊するほどの異変を」

「崩壊……」口にするが、意味を上手く掴めない。積み上げたものが崩れること。それはわかる。だが、言葉の意味と、自分が生活を送るこの塔とが結びつかない。わたしを包み込むこの空間が崩れる光景が想像出来ない。

 彼は言う。

「いずれにせよ、このままで良いことはありません。外の世界。その可能性に、打って出る時なのです、今は」

 気球は着実に完成しつつある。今や彼は、その操縦法の習得に努めている。

 気象観測を目的に作られた気球は、飽くまで無人で飛ばすことを前提に作られている。実際に乗り込むことが出来ないので、資料を捜し、そこから操作を会得するしかない。幸い、未分類の書物の中には気球の操り方を書いたものがある。気象観測者はその書物から知識を得る。少なくとも机上では、浮かび上がった気球を操縦することが出来るようになっている。

 不安はないのかと訊ねたわたしに、彼は言う。

「もちろん不安ですよ。しかし、駄目だったら霧の中へ落ちるだけです。あちらへ辿り着き、こちらへ戻ってきて外の世界のことを皆に話す。管理委員会を説得する。そちらの方が遥かに難しいですからね。それに比べれば、気球の操縦など雑作もないことです」

「戻ってくるつもりなのですね」

「僕が自分だけ逃げ出そうとしていると思っていましたか?」

「そういうわけでは……」

 わたしは口ごもる。彼は笑う。

「すみません、冗談です」それから、彼は真面目な顔をする。「しかし、ここからの話は冗談ではありません」

 その声を聞くと、否応なく身体に力が入る。

 彼は言う。

「僕と一緒に来てくれませんか。つまり、一緒に気球に乗ってほしいのです。その子も連れて」

 わたしは気象観測者を見る。それから彼の言う〈その子〉に眼を向ける。赤ん坊は起きていて、真っ黒な瞳でこちらを見つめている。

「さっき言ったこと――」

 彼の声で、視線を戻す。

「僕が自分だけ逃げ出そうとしているのではないか、ということですが」

「わたしはそのようには思っていません。本当に、心の底から」

「わかっています」彼は微笑する。「ですが僕自身、半分は本当のつもりなのです。僕は心のどこかでは、もう二度とこの塔へ戻ってくることはないのではと思っている」

 ランプの灯が僅かに揺れる。わたしは続きを待つ。

「もし戻ってこられないとしたら、あなたとその子を残していきたくはない。ちゃんとこの手で守ることの出来る、近い場所にいてほしいのです」

 わたしは無意識のうちに赤ん坊を見る。赤ん坊もこちらを見る。話の内容を理解しているような顔つきだ。

 気象観測者が続ける。

「もちろん、これが勝手な考えであることは承知しています。あなたたちを命の危険に晒すことになるのはわかっているつもりです。でも、ここまで巻き込んでしまった以上は、最後まで僕が、僕自身の手で、あなたたちを守り切りたいのです」

 彼は両手の指を組み合わせている。力が入っているのだろう、指先は白くなり、手は全体的に小さく震えている。わたしはそこに、己の手を重ねる。理由はわからない。ただ、そうすべきだと思った。

 彼の手の震えが止まる。

 わたしたちは至近距離で見つめ合う。長い間、そのままの格好でいる。


 夕暮れ時、バルコニーに出る。

 鴉の姿はない。思えばここしばらく、彼と話をしていない気がする。

 わたしは手摺りに凭れ、彼方の明滅を眺める。

 チカ、チカ。

 チカ。

 チカ、チカ、チカ。

 ソ、チ、ラ、ハ、ド、ウ、カ。

 まだ変わらぬ問い掛け。あれから何度も応答を試みたが、明滅の拍子は同じまま。こちらの応答は届いていないようだ。わたしはいつしか諦め、洗面所の鏡を持ち出すこともなくなっている。

 だが、昨日までとは違う。今は諦念を抱えながら手摺りに凭れているわけではない。

 後ろで衣擦れの音がする。ベッドの上で、目を覚ました赤ん坊が動いている。

 わたしは彼を抱え上げ、再びバルコニーへ出る。彼に光の明滅を見せる。子供は大人しく従う。彼の眼も、わたしと同じものを捉えたようだ。

 わたしは訊ねる。

「あなたは、あそこから来たの?」

 答えはない。こちらも期待はしていない。わたしは続ける。

「あそこには、あなたの仲間が大勢いるの? 水や食糧は豊富にあるの?」

 湿り気のある風が吹き付ける。わたしは尚も問う。

「霧や揺れに怯えて暮らさなくても済むの?」

 答えはない。代わりに赤ん坊は手を伸ばす。短く小さなそれを、目いっぱい前方へ。明滅する光を掴み取ろうとでもするように。

 かと思えば、伸びていた手がこちらへやって来る。胸元へ顔を向けると、左の頬に柔らかな感触が当たる。彼の手が添えられているのだ。赤ん坊は、真っ黒な瞳でわたしを見上げている。何か言いたげな様子で、薄い唇を微かに動かしている。

 わたしは、彼を抱える腕に力を込める。彼を落とさぬように。彼を決して離さぬように。それから再び明滅へ眼を向け、口の中で呟く。

「一緒に行こう。あそこまで」

 赤ん坊が瞬きをする。わたしはそれを首肯と理解する。

 吹き付ける風が冷たくなってくる。夜の食事を告げるサイレンが鳴り響く。わたしたちは部屋の中へ入る。

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