3-2

 気象観測者は一日おきに図書室へやって来る。借り出していった書物を返却し、また新たな書物を借り出していく。乳幼児用の食事を置いていく。閉架書庫に入り、寝ている赤ん坊の様子を確認する。

 彼は言う。

「本当なら、毎日来るべきなのですが」

「多忙なら仕方ありません」わたしは言う。

「しかし、すっかりあなたに押し付けてしまって申し訳ない」

「わたしは別に。生活の一部にこの子が加わっただけですから。それぐらい、手の掛からない子供なんです」

「そうですか」彼は肩を窄め、寝ている赤ん坊の頬に触れる。「しっかりと大きくなりつつありますね。会いに来る度にわかる」

 わたしは彼に、雲の向こうの明滅に対し鏡で光を送ったことを話す。彼は興味深そうに耳を傾ける。成果がなかったと言っても、特に失望した様子はない。

「素晴らしい試みです。しかし、鏡が小さすぎたのでしょう」そう言うと、彼は手近にあった紙に図面を引き出す。塔と、光の明滅の距離を算出する図だ。その図を以てすれば、バルコニーから見えるほどの明滅を保つために、どれぐらいの大きさの鏡で光を反射しなければならないかが導き出せる。「大体、姿見ぐらいの大きさでしょうか。全身が映るほどの鏡であれば、あちらにも光を届けることが出来る筈です」

 それほどの大きさの鏡が塔のどこかにあったかと考える。すぐには思い出せない。

「屋上庭園になら、或いはあるかもしれません。あそこでは子供たちのために使っている筈ですから」

 わたしはハッとする。僅かに見たことがある気がしていたのは、幼い頃の記憶に依るものだったのだ。

「そういえば、たしかに」だが、何のために使われていたかまでは思い出せない。「手に入れることは出来ますか?」

 彼は首を振る。

「それは難しそうです。用途を説明することが出来ませんし」

 塔の外へ光を送る、などといえば、即刻〈処置〉の対象となるだろう。

 わたしは肩を落とす。そうしたつもりはなかったが、気象観測者の気遣うような声音で、自分がいくらか失望しているのだと知らされる。

「僕は光の明滅を解読することまではしても、あなたのように返事をすることまでは思い付きませんでした。しかもそれを実践するとは。純粋に、あなたの行動力に敬意を表します」

「どうも」こういう時、何と答えるべきなのかわからない。

 彼は何か言おうとして、止める。また口を開き掛けて、閉ざす。同じことを何度か繰り返した後、意を決したのか、話し出す。

「実は、僕は今、或る物を作っています」

 わたしは頷く。続きを待つ。

「空を飛ぶための乗り物です」

「空を飛ぶための」つられるように口にするが、言葉の意味を上手く呑み込めない。ようやく理解したところで、絵空事にしか思えない。「そんなことが可能なのですか?」

「理論上は」そう言って彼は、先ほどの紙に新たな図面を描き出す。「布袋に閉じ込めた空気を温めるのです。すると中の空気は軽くなり、袋が浮き上がる。この袋の下にゴンドラを吊せば、人間が空を飛ぶことが可能なのです」

「外の世界に、行くことが出来る」

 彼は頷く。

 わたしは言う。

「よく管理委員会の許可が下りましたね」

「気象観測用の道具として申請してあります。大気の状態を調べるために飛ばすものだと。彼らは、まさか人が乗り込むなどと思ってはいません。本当のことを話したのは、あなたが初めてです」

「何故、わたしに?」

 彼は再び言葉に詰まる。しかし、先ほど言い淀んだのとは種類が違うように感じられる。

「あなたになら、話しても許される気がしたのです」

「わたしが管理委員会に報告するとは思っていないのですか」

「思いませんでした。現にあなたは、この子のことも黙っていてくれるじゃありませんか」

「それがずっと不思議でした。そもそも、どうしてあなたは、この子をわたしの元に連れてきたのでしょうか。わたしが通報したら、あなたの立場が危うくなるというのに」

「無論、恐れはありました。しかし、誰かを頼らないわけにはいかなかった。そこで浮かんだ〈誰か〉というのがあなただったのです。あなたしかいなかったのです」

「偶然、顔を見かけたから?」

 上階の、吹き抜けの向こうの扉から出てきた彼の顔が蘇る。あの時彼が出てきた扉の内側に、わたしは今、暮らしている。

「たしかに、それもあります」彼は言う。「ですが、それだけではありません」

「言語化していただけますか」

 気象観測者は黙り込む。頭の中で適切な言葉を探すように。

 わたしは待つ。

 やがて彼が口を開く。

「あなたが、この塔を覆う欺瞞に気付いているように思えたからです。この塔がある種の〈おかしさ〉に包まれていることを、あなたは知っているようでした」

 今度はわたしが黙る。

 彼が続ける。

「ご自分でも感じている筈です。あなたは、夕方に見える光のことを僕以外の誰かに話したことはありますか? ないのならば、何故誰にも話さないのでしょう? 僕に話した時にだって、相当の覚悟を持って話したのではないですか?」

 わたしは沈黙を続ける。返す言葉が見当たらない。

 彼は一呼吸置き、更に続ける。

「あなたが僕に話してくれたのと、僕があなたにこの子を託し、気球の話をしたのは同じ種類の理由です。わざわざ言葉にせずとも、あなたにはそれがわかっている筈です」

 ミシミシと、書架が軋み出す。

 軋みはあらゆる方向から聞こえ出し、やがて足元が揺れる。

 作業台に積んでいた書物の山が崩れる。書架に並んでいた書物も落ちる。どこかで硝子が割れる。わたしは立っていられず、書架に凭れる形で床に尻を着く。

 頭上からはバラバラと書物が降ってくる。そんなわたしに、気象観測者が覆い被さってくる。目の前には子供の顔がある。彼が抱えてきたのだ。子供は眠っている。瞼の外側で起きていることなど無関係だと言わんばかりに、安らかな顔をしている。

 揺れは、次第に収まっていく。

 天井でサイレンが鳴り出す。緊急を告げるものだ。今の揺れは、最近でも稀に見る大きなものだった。

「怪我はありませんか」気象観測者が言う。彼の声には、呻きが混じっている。

 わたしは頷く。それから言う。

「あなたは、怪我をしているのではありませんか?」

「背中に書物が当たっただけです。ご心配なく」彼はわたしから離れる。抱えた赤ん坊を見て、微笑する。「こんな時にも眠っていられるなんて、逞しい子だ」

 赤ん坊の寝顔を見ていると、何故だか気持ちが落ち着いてくる。

「先ほどの話の続きというわけではありませんが」と、気象観測者が厳しい口調で言う。「この塔には終わりが近付いています。今後は今のような揺れが多くなることでしょう。いつまでも、これまでのような暮らしを続けていくことは不可能なのです」

「だから外の世界へ行く、と?」

 彼は頷く。

「もはや、外の世界にも人がいることは明らかです。行かない理由がありません」

 彼はわたしの眼を見据える。

 わたしも彼の眼を見返す。

「どうか、力を貸していただけませんか?」彼は言う。

 わたしは導かれるように、頷く。

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