2-6
乳幼児はわたしのベッドで尚も眠り続けている。
まるで作り物のようだ。まだ屋上庭園にいた頃に遊んだ玩具の人形に似ている。だが、この乳幼児はたしかに生きている。小さな鼻の穴が、時折膨らむのがその証拠だ。
わたしはベッドの脇に立ち、乳幼児から気象観測者へ眼を移す。彼はテーブルの椅子に座っている。息切れは収まっているが、肩を落とし、疲労を漂わせている。長いあいだ何かに追われ、逃げ続けて来たような姿である。
塔の〈鼓動〉が、沈黙に鋲を打ち付ける。
やがて彼が、俯いたまま声を発する。
「突然押しかけてすみません。ご迷惑は承知の上です」
ようやく会話の入口が開かれ、わたしは訊ねる。
「構いません。それより、これはどういうことなのでしょう?」一度ベッドへ眼を向けてから、視線を戻す。「つまり、この子供は」
「その子について語る前に、いくつか話をしなければなりません。潜霧の結果について、何か知っていることは?」
「成果はあったと聞いています。実際、持ち帰られた書物の洗浄にも立ち会いました」そしてやや迷ってから、「それと、男性の遺体を発見したという噂も耳にしました」
彼が顔を上げる。
「あなたはその話を信じていますか?」
「興味はそそられました。ですが、完全には信じ切れていません。自分の目では何も見ていないので」
「その噂は本当です。極秘事項の筈ですが、どこから漏れたのでしょうね」
鴉に聞いたとはとても言えない。気象観測者は続ける。
「たしかに我々は潜霧中、男の遺体を発見し、それを持ち帰りました。男は大きな身体をしていて、我々の物とは違う潜霧装備を身に付けていました」
わたしは頷く。
「遺体は比較的新しいものでした」彼は言う。「皮膚は朽ちておらず、顔も原型を留めていました。初めは眠っているようにさえ見えました。何より眼を引いたのがその大きさです。探索隊の誰よりも大きな身体をしていた。あれほどの体格は、或いは塔の中を捜し回ったって見つけられないかもしれません」
「その遺体の人物は、塔の外から来た」言葉が無意識に、唇の間から漏れる。引っ張る力が加わったように。
気象観測者は頷く。
「探索隊ではそのように結論付けました。その報告を上げた管理委員会でも、公にこそしていませんが、そのような認識を持っています」
「外の世界は存在する」
「確実に」
「けれど、その人物がどこから来たかまではわからないのですね?」
「ええ。西から来たのか、東から来たのか。はたまた北か、南か。どれほど離れた場所からやって来たかも定かではありません。どれだけの長時間、霧の中にいたのかも。ただ一つわかっているのは彼が、水や食糧の豊富な場所で暮らしていたということです。あの身体の大きさが、そうした場所の存在を物語っている」
水や食糧が配給制ではなく欲した分だけ手に入る環境を、わたしは想像する。人が地上で暮らしていた頃はそうだったと、書物で読んだことがある。つまり、地上と同じ生活を送れる場所が、世界のどこかにはあるということだ。
再びベッドへ眼を向ける。
「この子供は、どのように関係してくるのでしょう?」一応、自分なりの推測はあったが、訊いてみる。
「遺体の傍には箱が置かれていました」彼は言う。「表面が古い書物の表紙に使われているような材質で覆われた箱です。蓋を留めるための金具が付いていました。その箱を、紐で引いていて運んだらしかった。そうした状況からして、遺体の人物の持ち物であるのは明らかでした」
彼はランプの灯で手元を照らしながら、蓋を開ける。
「蓋の内側は、霧が入り込まないように密閉されていました。そして箱の中には綿のようなものが敷き詰められていました。箱の揺れが中に伝わらないようするための緩衝材だったのでしょう。その中に、その子供が寝かされていました」
わたしの中にあった推測が、確たる事実となる。
わたしは訊ねる。
「密閉された箱の中で、どうしてこの子は生き続けられたのでしょう? どのように呼吸を行っていたのか、疑問です」
「僕も同じことを思いました。たしかに霧が入る余地はないが、呼吸に必要な空気も入らない。遺体の男同様、その子もまた我々とは違う身体のつくりをしているのかとも考えました」でも違った、と彼は言う。「緩衝材が、箱の中で空気を作り出しているようでした。同じ材質は、遺体が身につけていたマスクにも使われていました。恐らく霧を遮断して呼吸に必要な空気を作り出すための道具なのでしょう。少なくともこの塔には存在しない技術で作られた材料です」
緩衝材を初めとした遺体の持ち物は、現在も管理委員会の管理の下で調査中だという。
「もっとも、大した情報は得られていません。我々の持っている技術とは違うという他には、何も」
「この子については?」わたしは子供を見下ろしたまま訊ねる。「管理委員会は調査したのですか?」
「調査はされていません」彼は首を振る。「そもそも、その子の存在は管理委員会には知られていません」
驚きはない。予感はしていた。大男の遺体と共にいたという赤ん坊など、遺体の身に付けていた装備よりも厳重に管理されるべき存在だ。それが今、わたしのベッドに寝かされているということは、何か通常とは違う手順が踏まれると考えるのが妥当である。
気象観測者は言う。
「その子供は、僕が誰にも気付かれないよう連れ帰り、とある場所に匿っていました。もし存在が知られれば、どんな目に遭うかわかりません。身体の構造を調べるために――いえ、やめましょう」
わたしは、高層階で見た彼の姿を思い出す。あの時、扉から出てきた時と、彼は同じ表情をしている。
「本当は、一人で面倒を見るつもりでした。ですが、すぐに行き詰まってしまって……。それで、たまたまあなたを見かけて、ここへ連れて来たのです。勝手なのは重々承知しています。しかし、今のこの子には、女性の力が必要なのです」
「わたしに何か出来るとは思えません」
「食糧や必要な物資は僕が調達します。昼間はずっと眠っているので手は掛かりません。起きている時に食事を摂らせ、語りかけてやってほしいのです」
「わたしでなければならない理由がわかりません」
「あなたが母親になり得る人だからです」
また、あの女性の顔が浮かぶ。こちらに向けて何かを訴える、幼い時に見たあの女性が。
何故ここで彼女の顔が蘇ったのかはわからない。何か結びつきがあるのかもしれないが、わたしには想像もつかない。
本当に、想像もつかない。
わたしは頭を振る。ベッドで眠る子供を見る。
子供はいつの間にか、目を覚ましている。真っ黒で大きな瞳がこちらを向いている。
子供の小さな唇が開く。言葉は出ない。泣くわけでもない。ただ小さく開いただけだ。
精巧な作り物のような小さな手が宙を泳ぐ。
何かを探すように。
何かを求めるように。
わたしは右手を差し出す。人差し指に、子供の小さな指先が触れる。そっと、五本の指で包み込まれる。
作り物に見えた小さな手は柔らかく、熱を帯びている。それは確かに〈人間の手〉だ。
わたしは、子供の瞳に反射する、己の顔と見つめ合う。
気象観測者が帰った後、残された子供の寝床を整えていると、バルコニーに鴉がやって来る。
「まったく、止せばいいのに。碌なことにはならないよ」
「そうかもしれない」わたしは言う。「けど、それでもいいと思える」
「やれやれ。少しは僕の気持ちも汲んでほしいものだね。僕は君の身を案じている、ただ一人の存在なんだよ?」
わたしは鴉の言葉を聞き流す。再び寝息を立て始めた子供の、赤みがかった頬に指先を触れる。柔らかい。
子供の顔が、心なしか綻ぶ。わたしは胸の内側に、暖かさのようなものを感じる。
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