2-5
向かい合って初めて、係員がわたしより一世代分年上だと知る。
だが、そこに〈老い〉といった印象はない。たしかに顔の端々に皺が見えなくもないが、眼を引かれるほどではない。彼女の方でも隠しているといった風でもない。時の流れによる必然。そんな言葉を思い起こさせる。
ナイフとフォークを持つ手は、むしろ若さが感じられるほどだ。白く、肌理が細かい。思わず触れてみたくなるほど艶やかで、つい眼を奪われる。
「わたしの手に何か付いているかしら」
言われてわたしは、慌てて相手の顔を見て首を振る。
「すみません。綺麗な手だなと思い、見惚れてしまいました」
彼女は口元に微かな皺を作る。
「霧に触れているせいかもしれません」
「素手で触れることもあるのですか」
「いいえ」彼女は首を振る。それから自身の手を見下ろし、「必ず手袋を掛けています。けれど、それで霧が完全に遮断できるわけではありません。指に触れている実感があるのです。白く冷ややかな空気が、指を伝って手を覆うような実感が」
白い指先が、同じように白い手の甲を撫でる。
「身体が変調を来したりはしないのですか?」わたしは訊ねる。
「どうでしょう。この手が、或いは変調の証なのかもしれません」
手を起点に彼女を見ると、全体的に肌が白いことがわかる。初めは〈美しさ〉として映ったそれが、〈霧〉という単語を介することで、一抹の不健康さを纏い始めてくる。
「霧はどんなに綿密な布でも防ぐことは不可能です」係員は言う。「空気を遮断するほどのマスクをしていても、呼吸に混じって身体の中に入ってくる。ましてや壁など立てても、隙間からどんどん漏れてきます。あなたはあの書物が、どこにあったものか御存知?」
「大昔の、書庫のような場所ですか?」
「半分は当たっています」
彼女の白い指がグラスに触れる。グラスは持ち上げられ、彼女の口元に運ばれる。しかしすぐに元の位置へ戻る。水を飲んだというよりは、唇を湿しただけのように思われる。
「半分は不正解」彼女は言う。「〈大昔〉というほどの過去ではありません」
「人が地上で暮らしていた頃のものではないのですか?」
「いいえ」彼女は首を振る。「あれらの書物は、かつての閉架書庫から見つかったものです。といっても、わたしよりも更に上の世代、こうして顔を合わせる機会もないほど遡った過去の人々が暮らしていた階層のものですが」
「その場所が今は霧の中にある」わたしは自身に確かめるため呟く。
係員は頷く。
「日々の暮らしの中では気付きにくいことだけれど、霧は今でも増えつつあります。徐々に高さを増して、わたしたちの所へ迫りつつある。下層との通路を塞いでも、防ぐことは出来ません。いずれ、そう遠くない未来に、この場所も放棄しなければならない時が来るのです」
「いつかは霧が塔を呑み込んでしまうのでしょうか」
「ええ。いつかきっと」彼女の顔の右半分に、暗い影が射す。「この生活にも、いつか必ず終わりはやって来る」
わたしたちのテーブルの横を、空いたトレイを持った人々が通り過ぎる。間もなく午後の業務が始まろうとしているのだ。
係員の表情が緩む。
「だからそれまでは、次の世代に受け継いでもらうため、一生懸命仕事をしなくてはね」
わたしは頷く。上手く頷けたかはわからない。
いずれ終わるもののためになぜ一生懸命になれるのか。問おうとしたが、言葉が出ない。だからその疑問はこの世界には存在しない。
存在しないことになっている。
光の瞬きが、またリズムを変えている。
解読法を記したノートは部屋にある。たった数歩のことだが取りに戻るのが面倒なので、わたしは手摺りに凭れて光を眺め続ける。
鴉は来ない。思えばここ数日、会話をしていない。あんなことを言ったからかもしれない。塔の周りを飛び回っているだけの鴉。あれで彼を傷つけたのかもしれない。もっとも、今更反省したところで、発した言葉をなかったことには出来ない。
チカ、チカチカチカチカ。
チカ、チカ、チカ。
わたしは明滅に合わせ、指先で手摺りを叩く。何度か繰り返しているうちに身体が覚えた。或いは、これまでの慣れもあるのかもしれない。
ドン、という音が響く。扉に何かがぶつかったらしい。
ドンドンドンドンドン。
扉が叩かれている。誰かが意思を持って叩いている。
他人の居室の戸を叩くなど滅多にあることではない。唯一の例外が管理委員会だ。彼らが住人を呼びに来る時には、扉を激しく叩くという。
わたしは振り向きはしたものの、バルコニーに立ち尽くす。扉を叩いているのが管理員会からの使者だとして、自分に何の用件があるのかわからない。いや、心当たりならある。昼食の際に書物洗浄の係員と交わした会話だ。あそこでわたしたちは、塔での生活が終わる可能性を口にした。この生活に疑念を抱くことは禁じられている。誰かに聞かれていて、管理委員会へ報告が上がったのかもしれない。
弁明の言葉を必死で探す。しかし、有効に思えるものは見つからない。何を言ったところで、管理委員会の定める禁則事項を犯していないとはいえない。
扉は尚も叩かれ続けている。こちらが応答するまで止めそうにない。
だが不意に、音は止む。かと思えば、再び叩かれ始める。先ほどよりゆっくりで、そこには何らかの意図が感じられる。
ドン、ドン。
ドン、ドン、ドン。
知っているリズムだと気付く。それが頭の中で言葉に置き換えられる。それが出来るようになる術を教えてくれた人物のことを思い出す。
バルコニーから部屋へ入る。跳ぶような歩幅で玄関へ向かう。
解錠し、扉を開ける。
気象観測者が立っている。胸に、布で包んだ何かを抱えて。
彼は息を切らしている。ここまで走ってきたとでもいうように。頻りに背後を気にしながら、部屋へ入りたいと訴えかけてくる。わたしは気圧されるまま、彼を扉の内側に入れる。その際、布の隙間から包みの中が僅かに見える。
小さな人間――乳幼児という段階にある子供だ。小さな顔。眠っているのか、目も口も閉じられている。
塔で生まれた子供ではないと実感する。肌や髪の色が、わたしが今まで会ってきた誰とも違っている。子供の肌は浅黒く、髪は艶が出るほど黒い。
バルコニーでは何かが飛び立つ。鴉が来ていたのかもしれない。
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