2-4
ゴンドラは上昇を続ける。
上階へ行くにつれ、乗降者の数は疎らになっていく。最終的にはわたし一人が鉄の箱に揺られている。子供の世話か、管理委員会の中枢に関わる仕事でもない限り、通常はこんな上階に用はない。わたしとて特別な要請を受けたから来たに過ぎない。許可証もなしに来たとなれば、処置の対象にもなりかねない。
頭上でベルが鳴り、柵が開く。目の前に人が立っている。管理委員会の係員のようだ。女性。わたしを案内するため、待っていたという。わたしは彼女に身分証明書を提示する。
彼女に促されるまま、廊下を歩く。
上階は空気がいくらか薄く感じられる。或いは、これが空気の綺麗な状態なのかもしれない。霧から離れている分、澄んでいる。身体になかなか馴染まないのは、わたしが汚れた空気に慣れているせいかもしれない。
吹き抜けの反対側も見通せる。下の階では靄が掛かっているが、ここでは向こう側の廊下に並ぶ扉までがはっきりと見える。
不意に、その一つが開く。
中からは男性が出てくる。気象観測者だ。
伏せられていた彼の眼がこちらを向く。眉が上がり、唇も半分ほど開く。わたしも胸の中では同じ表情を浮かべる。
見てはいけない、と咄嗟に思う。顔を逸らさなくては。今は見るべきじゃない。
「こちらです」
耳許で聞こえた声に、心臓を掴まれた気がする。係員が扉の前で立ち止まっている。わたしは取り繕うように居住まいを正す。わたしが反対側の廊下を見ていたことを、彼女が気付いていたかはわからない。
鉄の扉が軋みを上げながら開かれる。
中はわたしの居室と同じ広さの部屋である。だが、生活の気配というものが覗えない。誰かが住んでいるというよりは、倉庫として使われている部屋のようだ。窓際には大きなテーブルが置かれている。その上に、書物の山が出来ている。
テーブルに近付こうとすると、呼び止められる。係員が四角く折り畳んだ白い物を差し出してくる。前掛けと帽子、それにマスクと手袋だ。いずれも合成繊維で出来ている。
係員は何も言わなかったが、同じ物を身につけることで、彼女はそれを着るようわたしに命じる。わたしはそれに従う。合成繊維の表面は如何なるものも弾くようにツルツルとしており、空気も通さないようだ。マスクだけはキメの細かい紙を重ねているが、それでも息苦しさを覚える。
準備を整えてテーブルの前に立つ。もっとも、わたしは係員の付き添いに過ぎない。主たる作業は彼女が行う。彼女が書物に〈霧吹き〉を掛ける。布で表面を丁寧に拭き取る。その際、書物に過剰な負荷が掛かり破損しないよう、横から助言するのがわたしの役目だ。
特に自己紹介などはしなかったが、彼女が日頃から洗浄を仕事としていることはその手際から察せられる。書物の扱いは的確で、わたしが口を出す局面は全くない。霧が吹き散らされる。布が紙の上を滑る。頁が捲られる。また霧が吹き散らされる――。一定のリズムに則った動きは眺めているだけで心地よく、それだけに意識がこの場から遠のいていくようでもある。
吹き抜けの向こう側で、扉が開く。気象観測者が出てきて、こちらを見る。
彼はわたしに気が付いていた。
わたしは気付かれた事実から逃れるように顔を背けた。今は見るべきじゃない。そう思ったのだ。
何故?
何故、〈今は〉などと時制を限定したのだろうか?
何がわたしをそのように考えさせたのだろうか?
原因を特定出来ない。
明文化出来ないということは、この疑問は存在しないということだ。
わたしは何の疑問も抱いていない。
しかし、彼と眼が合って、咄嗟に顔を背けた事実は残っている。自分の中に焼き付いている。
霧吹きが作業台に置かれる。
「休憩にしましょう」係員がマスク越しに言う。
わたしは昼のサイレンが鳴っていることに遅れて気付く。
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