2-3

 気象観測者が発ってからというもの、図書室を訪れる人は皆無となる。元々利用者が多かったわけではないので、元の状態に戻ったと言われればそれまでなのだが、やはり空虚な感覚は否めない。

 わたしはいつも通り起床して、ゴンドラに揺られて出勤し、目録を作る。

 時々、探索隊がどの辺りにいるのかと考える。具体的な階層は見当もつかず、ただ霧の中を進む男たちの姿が思い浮かぶだけだ。

 詩集を読み始めた。目録作りの際にたまたま閉架書庫で見つけたものだ。気象観測者に渡したのと同じ小型の書物で、茶色く変色し、全体が崩れてしまいそうなほど歪んでいる。

 中には太陽について書かれた詩が並んでいる。といって、気象に関するものではない。太陽を見て自分が何を感じたか。太陽がそこにあることにどんな意味を見出すか。そんな個人的な精神の移ろいが綴られている。気象予報の一助となる情報や天体の運行に関する知識とは無縁の文字列である。

 今までなら、こうした書物は〈無意味〉と見做して通り過ぎていた。だが、気象観測者の言葉が思い出され、時間を掛けて向き合ってみようという気になった。書かれてある言葉を、わたしなりに解釈してみようと思ったのだ。

 読み方を改めると、いくつかの発見がある。

 まず、太陽について詠まれたと思っていた詩が何かを強く求めるという内容であるように感じられる。具体的にいえば、ここではないどこかへ行きたがっているという内容だ。そんなことは文字としてどこにも明記されていない。しかし、単語の並びや組み合わせがそのように思わせる。まるで別の詩が、わたしの胸の中に記されるようだ。

 これが彼の言った〈自分なりに解釈する〉ことなのかは定かではない。自分で能動的に解釈しているというよりは、受動的に解釈させられている気がする。或いは、根本的に間違っている可能性だってある。彼が戻ったら確かめなければならない。

 もう一つの発見は、詩人の個人的な感覚が書物の形をとって〈存在している〉ということだ。至極当たり前のことで、今更特筆することでもないかもしれない。だが、この発見に気付いた時、わたしは短くない間、呆然とした。遥か昔の、今とは全く別世界に生きた人の心の揺らぎが、わたしの手の中に確かにある。それは俄には信じ難いことであり、また同時に、そんなことが可能なのかという驚きをもたらす。

 これらの発見について、誰かに話そうとしても相手がいない。友人も鴉も、相手としては不適当に思われる。

 やはり彼でなければならない。わたしはいつしか、探索隊の帰還を待ち望むようになる。


 彼らが帰ってきたという話は、噂として耳に届いた。出発から丁度三十日目のことだ。相当な収穫があったと、噂話は言っていた。

 気象観測者もじきに図書室へ来るだろうと思っていたが、彼はなかなか現れなかった。管理委員会への報告などで忙しいのかもしれない。初めのうちはそのように考えていたが、次第に時が経つにつれ、彼の身に何かあったのではという不安が頭をもたげてきた。

 そんな折、鴉が言う。

「彼らは死体を持ち帰ったらしい」

 死体、という響きに、背中に冷たい水を流し込まれた心持ちがする。

 ベランダの柵に止まった鴉が嘴を開く。笑っているように見える。

「大丈夫、彼は無事さ。死体は彼らのものじゃない。まあ、だからこそ大変なことになっているのだけれど」

 鴉に対する憤りよりも話への興味の方が強い。わたしは詳細を求める。

「大男の死体さ」と鴉は言う。「潜霧に参加した探索隊の誰よりも大きな男の、ね。彼らは最初、それを大昔に作られた機械か何かだと思ったらしい。それこそ〈失われた知恵〉の産物なのではないかと。けど違った。それは確かに人だったんだ。髪を生やし、服を着て、霧に潜るための装備まで着けていた。間違いなく人間だったのさ」

「ずっと前に潜霧した探索隊の隊員ということ?」

「そう思うかい?」

 そうではないのだろう。

「死体が身につけていた装備は、今回潜った探索隊のそれとは違っていた。以前使われていた物とも形が異なっていた。ただ、それが〈潜霧のための装備〉とわかるだけの共通点は持っていた。これが何を意味するかわかるかな」

 視界の端で、光が瞬く。明滅の間隔は、また別のものになっている。

 ミ、エ、テ、イ、ル、カ。

 信号として解読すると、そのような文章になる。

「――嬉しいのかい?」

 そう言った鴉を、わたしは見る。

「どうしてそう思うの?」

「君のそんな顔、初めて見たからさ」

 だが自分では、どんな表情を浮かべているのかわからない。

「喜んでいるところ水を差して悪いんだけど」と、鴉。「これはあまり喜ばしい事態ではないと思うんだ。僕個人としては」

 わたしは無言で続きを促す。鴉が話を続ける。

「この塔は、この塔の中だけで全てを賄い、生活を維持して来られたんだ。決められた規則に則って行動してさえいれば、不自由なく生きていくことが出来る。これは長きにわたる塔での生活で人々が生存の知恵を積み上げてきた成果さ。それが、外の世界にも人がいるとなったらどうなると思う? 今まで積み上げてきたものが崩されかねないよ。いや、断言しても良いのだけれど、何らかの齟齬を来すのは明らかだ。最悪の場合、塔の仕組みは崩壊する」

「まるで管理委員会のような言い方」わたしは言う。

「君のことを心配しているんだ。塔の仕組みが崩れれば、君は必ず不幸になるから」

「そんなこと、実際になってみないとわからない。今のままでいることが幸せなのかどうかだって――」そこまで言って、ふと思う。「もし今の生活が終わりそうになった時、あなたはどうやってわたしを助けるの?」

 鴉は答えない。ただ、真っ黒な眼をこちらに向けてくるばかりだ。

「ただの鴉に何が出来るの? 塔の周りを飛び回っているだけの鴉に」

「僕が人であったなら良いのに、といつも思うよ」彼は言う。「人の姿をしていれば、君はもっと真剣に僕の話に耳を傾けてくれるんじゃないかってね。たしかに、鴉の言うことなんて誰も信じない。君だって、たまたまこうして言葉を交わしているけど、本気で僕に取り合っているわけじゃない」

 わたしは口の中に苦いものを感じる。

「でもいいかい。前にも言ったけれど、僕は本気で君のことを想っている。君には不幸になってほしくないと、本気で考えているんだ」だから、と彼の言葉は続く。「君を守るためなら何だってするつもりさ。手段は選ばない。今の僕に出来る最大限の方法で君を守ると誓うよ。もっとも、君がそれを望まないのなら話は別だけれど」

 わたしは光の瞬きへ眼を向ける。

 ミ、エ、テ、イ、ル、カ。

 光は尚も変わらず、問いを投げ続けている。

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