2-2

 管理委員会からの潜霧の許可は、程なくして下りる。

 わたしは結局、同行を断った。図書室の業務を中断させるわけにはいかないし、何より、同行したところで足手纏いになるのは明白だった。自分の未熟さで他人の業務に支障を来すのは、忌むべき悪徳である。

 返事を聞いた彼はいささか残念そうであったが、僅かに見える口の綻びを見ると、どこか安心したようでもあった。間違った回答ではなかったようだ。

 三日後の朝に出発すると、彼は言った。

「必要な装備も人員も、既に準備は整っているんです」

「許可が下りると確信があったのですか?」わたしは、彼が実行委員もしくはその肉親ではないかとという友人の話を思い出しながら訊ねる。

「許可の下りる・下りないは潜る深さにも依るんです。今回は今までの誰よりも下へ行くつもりですから、許可されたのでしょう。誰もそんな危険な場所まで行きたくはありませんから」それから彼は何かに気付いたように、「あ、でも、あなたの身の安全は確保するつもりでした。それだけはどうか信じていただきたい」

「疑ったりはしていません」わたしは言う。「もっと体力があったらついていきたいところでした」

「何らかの発見があったら、あなたにもお知らせしますよ」

「お願いします」わたしは頷く。

 出発の朝、わたしは起床のサイレンより先に目覚め、朝食も摂らずに部屋を出る。ゴンドラをいつもとは逆の下方向へ乗り、現在の居住可能地域の最下層となるフロアへ向かう。そこでは既に探索隊の面々が集まり、出発の時を待っている。

 声を掛けられ振り向くと、気象観測者がやって来る。小型のライト付きのヘルメットを被り、大きく膨らんだ背嚢を背負っている。首からぶら下がっているのは防霧マスクだ。さすがにいつもの白衣は着ておらず、機械技術者が着るような作業服姿だ。腰からは様々な工具類をぶら下げているようで、彼が動く度、カチャカチャと金属の触れ合う音が響く。

「わざわざすみません、こんな早朝に」

「いえ、一緒に行けない分、せめて見送りぐらいは」

 気象観測者と同じようにカチャカチャと音を立てながら、隊員の一人がやって来る。彼は花束を抱えていて、その中から一本を抜き取って気象観測者に渡す。花は茎の先端に白い蕾がついている。霧の中で咲くというシロクシナダの花だ。この花が咲ききったら、人は霧から出なければならない。花が枯れた時、それは所有者の死を意味する。

 わたしは訊ねる。

「花が咲くまでに戻ってこられそうですか?」

「多少の無理は覚悟しています」花を胸に挿しながら、彼は言う。「その分、新鮮な空気も持って行きます。今までの探索隊よりは深く潜れる筈です」

「地上に着くことも」

「そうなれば嬉しいのですが」

 わたしは鞄から一冊の書物を取り出す。昨日、彼から依頼されていたものだ。本当は潜霧から戻った折に渡すことになっていたが、予想に反して閉架書庫の目につく場所にあったので持ってきてしまったのだ。ポケットに入るほど小型なので邪魔にはならない筈だ。内容は詩集で、書物として編まれた時よりも更に前に詠まれたという詩が並んでいる。

 彼の表情が綻ぶ。

「ありがとうございます。しかし、返却期限までに戻ることは難しいかもしれませんよ?」

「大丈夫です。そこはこちらで何とかしますから」その小型の書物は目録にもまだ載っていない。あるかどうかも定かではないということだ。万一、他の利用者に貸出を求められても誤魔化すことは出来る。

 彼は改めて礼の言葉を口にする。それから、

「探索中の数少ない娯楽として楽しみます」

「詩がお好きなのですか」

「ええ。実利的な情報ばかりに接していると、たまにはこういった書物が欲しくなります。あなたはあまり読みませんか?」

「手に取ることはありますが、内容を殆ど理解出来ません。何を言わんとして詠まれているのかわからないというか」

「たしかに」気象観測者は苦笑する。「時代も、住んでいる環境も大きく違うのだからもっともな話です。そもそも詩のような想像の産物は、他人が真意を完全に理解するのは難しい。本当の意味というのは、作った本人にしかわかり得ない」

 わたしは頷く。

「けれど、僕はそれで良いのだと思います」

「それで良い?」

「たとえ真意が汲めずとも、書かれてある言葉を自分なりに解釈するだけでも、読む価値はあると思うのです。書物に記された詩を補助線として自分の中で新しい詩を詠む、とでもいうべきでしょうか。幸いにして、目の前にある詩は自分と同じ〈人〉によって書かれた言葉で、自分はその〈言葉〉の意味を理解出来る。補助線として使うことぐらいは可能です」

 彼は何かに気付いたというように、口を押さえる。わたしはわたしで、口を開けたまま彼を見つめていることに気が付く。

「すみません、一人で長々と。話し過ぎましたね」

「いえ」わたしは小さく首を振る。「とても楽しいお話しです。もっと詳しく聞きたいと思いました」

 彼は微笑む。

 また、カチャカチャという音が近付いてくる。隊員が気象観測者に、準備が整った旨を伝える。

「時間が来ました。続きはいずれ、戻った時に」

 わたしは頷く。

 潜霧に赴く探索隊員たちが階段の近くに集まっている。十二人。いずれも屈強な体つきの男性で、気象観測者よりも更に重そうな装備に身を包んでいる。彼らの中心にいるのが気象観測者だ。彼は、自分より大きな隊員たちに向けて潜霧の目的や行程、注意事項などを改めて伝える。

 それが終わると出発となる。隊員たちが先に階段を下りていき、気象観測者は後からついていくようだ。

 彼がこちらを振り向き、手を挙げる。

 わたしも応じて手を挙げる。

 彼は小さく頷くと、階段を下りていく。

 彼らの立てるカチャカチャという音は、やがていつもの〈鼓動〉に置き換わる。それでも尚、わたしはしばらくの間、その場所に立って階段を見つめている。

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