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気象観測者の男性は、頻繁に図書室へ来る。
彼は書物を返す度、その倍の書物を借り出していく。同時に貸出可能な上限である三十冊にはすぐに達してしまう。すると彼は、一冊返しては別の一冊を借りるようになる。今ではほぼ毎日、顔を合わせている。
わたしの中で、彼はもはや〈図書室利用者の一人〉ではない。他の利用者たちとは、頭一つ分抜け出している。わたしとの関係の近さとしては、昼食を共にする友人の次ぐらいである。
そんな彼だから、なのかもしれない。彼が「霧に潜る」と言った時は耳を疑った。〈驚き〉ももちろんあったが、〈危惧〉の気持ちも多分に含まれていた。わたちたちの関係は、彼の身を案じる程度には親しくなっている。
「調べれば調べるほど、〈失われた知恵〉が必要だとわかったんです」と、彼は言う。「あの光の所へ行く方法が、霧が発生する前――人々が地上で暮らしていた頃にはあったらしい」
そうなのだろう、と思いながら、わたしは気象観測者の話を聞いている。これだけの高さの塔を作り上げた知恵があるならば、鳥のように空を飛ぶ方法を持っていたって不思議ではない。
わたしは訊ねる。
「管理委員会の許可は取れたのですか?」
「既に申請済みです。もちろん、気象観測に纏わる目的として。許可は下りる見込みです」
正式に許可が出次第、探索隊を結成して霧に潜るという。
「そこで、どうでしょう。あなたも一緒に行きませんか?」
突然の問いに、わたしは言葉を失う。
「……霧の中へ?」ようやく、それだけ口にすることが出来る。
彼は頷く。
「新たな書物が手に入るかもしれません。我々も発見したら持ち帰るつもりですが、目利きのあなたがいた方が、既にここにある蔵書を避けることが出来て効率が良いと思うのです」
彼の言うことには一理ある。目録を作っていると重複している書物が少なくないことがわかる。それは恐らく、霧に潜った探索隊が持ち帰った物を取り敢えず書庫に入れておいたからなのだろう。目録に通じている者が立ち会えば、そんな重複もいくらか防げるかもしれない。
初めは突拍子もなく思えた気象観測者の申し出だが、気持ちが落ち着いてくると魅力の方が勝ってくる。この図書室に並ぶ書物の大半は霧の中から持ち帰られた物なのだ。もし自分の手で蔵書を増やすことが出来るのなら、実行すべきではないだろうか。それは司書という仕事の、最大の役目であるように思われる。
だが。
わたしは返事をすることが出来ない。喉元を絞められたように声が出ない。わたしの気持ちは〈行く〉という方向に傾いているというのに、まるで誰かが、その意思を表明することを阻んでいるようだ。
「返事は今すぐでなく結構ですよ」彼は肩を窄める。「危険を伴うことですから、よく考えてから返事を下さい。こちらも正式に決まったら、また改めてお訊きします」
彼が立ち去ってから、喉元に指先で触れてみる。無論、そこには絞めるようなものは何もない。苦しみさえも、完全に消えている。
彼からの誘いについて、鴉には相談していない。言ったところで、どんな返事が返ってくるかはわかりきっている。
公平な意見が欲しい。次の昼食時、友人に潜霧の話を打ち明ける。
「へえ、彼が」
彼女には以前から、気象観測者のことは話していた。わたしの話を介してしか彼のことを知らない筈なのに、彼女は彼に好意を抱いているようだった。
「良いじゃない。行ってみれば?」
「本当にそう思う?」
「思う思う。あなただって、本当は行きたいんでしょう?」
「それが自分でもわからなくて」自分がどうしたいのか、夜通しかけて考えていた。だが答えは見つからなかった。見つからないということは〈ない〉ということではないか。辿り着いたのはそんな結論だった。「これは、わたしが考えることではないのかもしれない」
「指示があれば彼についていくということ?」
わたしは頷く。
「彼からの誘いだけじゃ駄目なの?」
わたしはまた頷く。
「選択肢なんていらない」
「ふうん」彼女は頬杖を突き、窓の外へ眼を向ける。「まあ、適正情報もなしに〈選べ〉なんて言われても難しいわよね」
わたしたちは生まれてから今まで、何かを選んだことはない。居住地も、職業も、交友関係も、食事の際に料理を摂取する順番さえも、全ては管理委員会の算出する適正情報によって決められてきた。適正情報に誤りはない。適正情報にさえ従っていれば、ここでの生活は全て円滑に進んでいく。
何かを選び取ることは、未来の不利益に自ら手を伸ばすのと同じことだ。
「それにしても、その彼、本当は何者なんだろうね」友人が外を見たまま言う。「潜霧の許可を取り付けるまでは良いとして、適正情報もなしにあなたを誘うなんて。そんな権限持ってるなんて、只者じゃないよ」
そういうことになる。或いはわたしの潜霧への適正情報を持っているのかもしれない。だがそれならそれで、そうと言ってくれた方が話は早い。少なくとも、わたしがこうして迷う必要はなくなる。
友人が、笑みを浮かべてこちらを向く。
「案外、管理委員会の中心人物だったりして」
「実行委員ということ?」
「もしくはその関係者」
「関係者」とそのまま口にする。だが、その言葉の意味がいまいち理解できない。「友人、ということ?」
「それか、肉親ね」
肉親。自分と遺伝的繋がりのある、前世代の存在。人がまだ地上にいた頃は、肉親関係を明確にし、親が子を育てることが通例になっていたという。塔にはない習慣だ。ここでは、子は屋上の庭園に集められ、保育士の手によって育てられる。そうすることで子は塔の構成員として、着実に成長していく。誰が誰の子であるかなんてことは重要ではない。大切なのは、生きてそこにいるかどうかだけだ。
突然、あの女性が現れる。
こちらに向かって何かを叫んでいる女性。彼女はわたしに何かを訴えかけているように見える。何を言っているかまでは聞こえない。わたしと彼女の間は格子で隔てられている。
わたしは幼い。たぶん、屋上庭園にいた頃だ。
格子の間から手が伸びる。女性が差し伸べてきたのだ。
何かを促すように。
何かを求めるように。
白い手は光を浴び、輪郭がぼんやりと滲んでいる。
わたしは動かない。前進も後退もしない。女性の言葉は耳に届かず、ただ格子の間から伸ばされる手を眺めるばかりだ。恐怖というものも感じない。目の前の光景が〈そういうもの〉として網膜に映る。わたしの中に何らかの感動が起こることはない。
「――ねえってば」
友人の声にハッとする。目の前には食べかけの昼食が置かれていた。
「どうしたの、いきなりボーッとして」
「ちょっと考え事を」わたしは言う。
「大丈夫? 医務室行こうか?」
「大したことじゃないから」わたしは微笑んだ。上手く笑みが作れていたかはわからない。
頭の隅には、まだ格子の隙間から伸びる手が焼き付いている。
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