1-4
男性は約束通り、次の日に現れる。
探しておいた書物を差し出すと、彼の顔が綻んだ。
「ありがとうございます。さすがは司書さんだ。あなたに頼んで良かった」
「いえ、仕事ですから」言いながら、どうにも気持ちが落ち着かないことに気が付く。彼が来たら〈信号〉のことを話そうと思っていたが、いざ相対してみると、口にすべきではないのではという考えが起こっている。他人の部屋を覗き見したような、そんな疚しさがあるのだ。
よほど不自然にしていたのかもしれない。男性が小首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「いえ……」俯く。それから意を決し、顔を上げる。「実は昨日、その書物を読んでしまいまして……」
「図書室の書物なのですから、あなたが読むのは普通ではないですか?」
「それはそうかもしれませんが……すみません、とにかく謝罪させて下さい」
男性は呆気に取られていたようだったが、やがて肩を竦める。
「一応、受け取っておきましょう」
その笑みで、胸の強張りが緩む。
「見てもらいたいものがあるのです」わたしは言う。
「何でしょう」
ポケットから折り畳んだ紙片を取り出す。昨日、〈信号〉を判読した文章を綴った紙片だ。それを広げ、男性に渡す。彼は受け取った紙をまじまじと見つめる。
「これは……?」
「わたしの部屋から見える光を、その本の内容に沿って文章にしたものです」
「光?」男性の眼に、真剣味のようなものが萌す。「それは、この塔の?」
「いえ、外です。バルコニーから外を眺めていると、光っているのが見えます。特に日没から夜にかけて、よく」
「失礼ですが、あなたの部屋はどちら向きですか?」
「どちら、というと?」男性の勢いにやや気圧されながら問う。
「方角です。いや、街区を教えて下さい」
方角、というものが何を指すのかわからないが、街区ならば答えられる。
「第一街区です」
「やはり」言ったきり、男性は口元に手を充て、黙り込んでしまう。何か考え込んでいるような様子である。
やがて、口元から手が離れる。
「その話を、誰かにしましたか?」
「いいえ、誰にも」毎日昼食を共にする友人にも話したことはない。光を眺める時は鴉も一緒だが、それは話さない方が良い気がする。
男性は改めて紙片に目を落とす。
「この文章を読んで、どう思いましたか?」
難しい質問だ。問いの範囲が漠然とし過ぎている。こちらの戸惑いが通じたのか、彼はさらに言葉を継ぐ。
「その……文章の内容というよりも、この文章が存在すること自体に対して……」
中心に置いた物と距離を取ったまま、その周囲をぐるぐると回るような言い回し。彼は何かを言いあぐねているようだ。その〈何か〉に、わたしは心当たりがある。だが、口に出すには別の意志が必要だ。
それは、この塔の中では言うべきではない言葉だ。管理委員会の耳に届けば、何らかの処置が施される類いのものだ。
わたしは男性の眼を見る。彼の中にある〈何か〉とわたしの胸に浮かぶそれが同じであると、慎重に見極めようとする。彼が微かに顎を引いたように見える。わたしは短く息を吸い、同じ短さで吐く。
「誰かが――」言葉が喉に引っ掛かる。小さく咳払いして言い直す。「誰かが、こちらへ向けて呼び掛けているのだと思いました」
一切の静寂。
わたしは無意識のうちに耳をそばだてている。扉の向こうの廊下を、誰かが駆けて行く音を聞き逃すまいと、そうしている。幸い、例の〈鼓動〉以外には何も聞こえない。
男性の首元で、影が上下する。
「それはつまり、塔の外にも人がいる、ということですか?」言ってから、彼は自分の言葉を掻き消すように首を振る。「いえ、率直に言います。あなたは、外の世界に人がいると思いますか?」
これまで触れまいとしていた、それと同時に待っていた問いでもある。
言葉として発せられた以上は、その存在を取り消すことは出来ない。存在する問いには答える義務がある。
わたしは頷く。
「思います」それから、相手にも義務を課す。「あなたはどうなのですか?」
彼は一瞬息を呑んだ素振りを見せたが、やがて背負っていた荷物を下ろすように肩を窄める。
「あなたと同じです。この塔の他にも人はいる。僕はそう信じています」
これまで自分の中に不意に浮かんでは消えていった考えが、言葉という形を以て他人の口から発せられる。はっきりと存在感を得てわたしの前に転がっていることが、俄に信じ難い。
「もう一つ、質問しても?」
わたしが言うと、彼はまた頷く。
「資料は、公的な仕事の一環として借り出しているのですか?」
「ええ」彼は頷く。「もっとも、名目上は別の目的ですが。僕に与えられた仕事は気象観測なんです」
「その研究をするふりをして、外の世界について調べている、と」
彼は苦笑いを浮かべる。
「本来の仕事の方も抜かりなくこなしていますよ。全く無関係な分野というわけでもありませんから。そうした意味では、この仕事に就けたのは運が良かったと言えますね」
運。物事が起こる確率を指す言葉。昔は〈神〉という存在が差配していたと、書物で読んだことがある。昔の人々が何故そんなものを気にして生きていたのか、わたしには上手く理解が出来ない。塔に生きるわたしたちは、明日も明後日も、その先、肉体が朽ちるまで与えられた仕事をこなし続けていく。ずっと、今と同じように。何かが起こる可能性など考える必要はない。全てはわかりきったことなのだから。
だが、彼は違う。彼は、わたしとは違う何かを見ている。
男性が、書物を取り上げる。
「話を聞いてくれてありがとうございます。それから、この本も」
わたしは頷く。
「こんなこと、わざわざ口にするのは失礼だけれど」と前置きして、彼は続ける。「今の話は他言無用でお願いします」
彼の〈願い〉がわたしの前に現れる。
「ご心配なく」わたしは言う。「あなたの〈研究〉のことは、誰にも話しません」
日没の頃、いつものようにバルコニーへ出る。
光は相変わらず、薄闇の向こうで瞬いている。
コ、コ、ニ、イ、ル、ゾ。
信号の内容は昨日と変わらない。
これまで誰かとあの光について話したことはない。東に面した部屋で暮らしているのはわたしだけではないから、他に見ている住人はいる筈だ。だが、一切の噂が聞こえてこないということは、光を見ていても、誰もが黙って〈見なかったこと〉にしているということなのだろう。当然だ。塔の外に人がいるなどといった妄想は、間違いなく処置の対象となる。
しかし、口に出さずとも、わたしと同じように光を眺めている人が他にもいると思うと、瞬きが昨日までとは違うもののように思える。位置も明るさも瞬き方も変わらない筈なのに、何かが違っている。それは純粋に不思議なことだ。
そんなことを考えていると、鴉がやって来て手摺りに留まる。
「あまり彼には深入りしない方がいいんじゃないかな」鴉は言う。
「彼って、誰のこと?」わたしは言う。
「とぼけても無駄さ。僕には全てお見通しだよ」
「覗き見? 悪趣味」
「君の図書室には窓なんてないだろう?」鴉は笑う。「顔に書いてあるのさ。〈彼のことが気になる〉って」
「そんなこと書いてない」
「嘘だね」
「あなたのそういうところ、大嫌い」
「傷つくなあ」でもね、と彼は続ける。「僕はいくら嫌われても、あの男と関わるのはお薦めしないよ。ついでに言えば、あの光についてここ以外で口にすることもね。それは絶対、いつか君を不幸にする。僕はそんな事態を、何としても防ぎたいんだ」
「まるで今のわたしが不幸じゃないような言い方」
「今の君は不幸なのかい?」
不幸とは、幸せというものが何なのかについて考えること。わたしは日常、そんなことを考えない。だから不幸ではない。
不幸ではない――その筈なのに。
「僕は君の味方さ」鴉が羽を広げる。「いつだって君を見てる。君が間違った道を進みそうになったら、それを正そうともする。たとえお節介だと嫌われてもね」
彼は羽ばたき、闇の中へ飛び去っていく。黒い羽が何本か、ヒラヒラと舞っている。
夕食を告げるサイレンが鳴る。わたしは光に背を向け、部屋の中へ戻る。
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