1-3

 塔が刻む〈鼓動〉の中で、わたしは生活を送り続ける。

 或る時、閉架書庫で整理をしていたらカウンターでベルが鳴った。

 出て行くと、男性が一人、立っている。背が高く、痩せて、眼鏡を掛けている。長い髪が所々外側に撥ね、白衣を纏っている。その風貌から、何らかの研究職であるということはわかる。

「お仕事中すみません」白衣の男性は言う。「探していただきたい資料があるのですが」

「貸出も業務の内です。お気になさらず。資料の題名はわかりますか?」

「実は一冊だけではないのですが」

 彼は白衣の内ポケットから折り畳んだ紙を抜き、差し出してくる。受け取って広げてみると、五冊分の題名が縦に並んでいる。細かく、精確な字だ。

「お調べしますので少々お待ち下さい」わたしは傍の椅子を示す。

「お願いします」と、彼は椅子の方へ向かう。

 目録を繰り、紙に書かれた題名を探す。一冊目と三冊目、それから四冊目は開架書架、五冊目は閉架書架にあると記されている。だが、何度確認しても二冊目の題名は目録のどこにも記されていない。

「お待たせしました」

 やって来た男性に、わたしは書物の所在を伝える。彼は「そうですか」と頷き、取り敢えず所在の確認できた四冊を貸出したいと言う。

 希望通り四冊を棚から抜き出して戻ると、カウンターの向こうで男性が頭を掻く。

「実は、最近この仕事に就いたばかりで、図書室を使うのは初めてなのです」

「そのようですね」彼の顔に見覚えがない。もっとも、利用者全員の区別をつけられるわけでもないのだが。そもそも塔の住人たちは、毎日のように顔を合わせる友人を除いて皆、わたしにとっては〈他人〉でしかない。

 わたしは貸出用の申請書類を取り、カウンターに置く。

「ここに必要事項を記入して下さい。情報は管理委員会へ提出されますので、予め了承して下さい」

「わかりました」彼は紙を引き寄せ、鉛筆を握る。

 硬い芯が、紙の上を走る。そこへコトコトと、別の音が混じってくる。

 やがて控えめな〈コトコト〉は、ランプの揺れる〈カタカタ〉に取って代わられる。

 足元が横に揺れ出す。壁が、天井が、塔全体が、軋みを上げる。

 最近では身に覚えがないほどの強い揺れだ。わたしは咄嗟に、カウンターに置いたランプの火を消す。書架の方から書物の落ちる音がする。閉架書庫からも、同じような音が聞こえてくる。どこかで鉄の棒が落ちるような金属音が響く。これは図書室の外だろう。

「危ない!」

 手首を掴まれる。かと思うと、抗いようのない力で前方へ引き寄せられる。

 頬に当たる布の感触。服。誰かの胸に顔を埋めているのだとわかる。〈誰か〉は考えるまでもなく、一人しかいない。

 鼓動が高鳴る。

 強い揺れに対する恐怖。

 いや違う。原因は、恐怖とは別の何かだ。

 だが、それが何なのかわからない。言い表す言葉をわたしは持っていない。

 言語化できないのなら、それは存在しない。

 その筈なのに。

 頭のすぐ後ろで物が落ちる。積み上げた書物が崩れた時に立てる音だと気付く。棚の上に置いていたのが落ちたのかもしれない。元に戻すのに骨がいるな。そんなことを考えながら、わたしは男性に抱えられている。

 揺れは次第に収まっていく。わたしを抱く力も、段々と緩んでいく。顔を離すのも容易になる。

「し、失礼!」男性が身を竦ませる。何かを弁明するように、両手が宙を泳いでいる。

「いえ、ありがとうございました」わたしは肩越しに、落ちた書物の山へ視線を投げる。

「片付け、手伝いましょう」

「いえ結構です。わたしの仕事ですから」わたしは屈んで、床に散らばった書物を纏める。

 横から男性の手が伸びてくる。彼もまた、書物を集め始める。わたしは一瞬、身が竦んだ。カウンターのこちら側に、わたし以外の誰かが来るのは初めてのことだ。

「一人で片付けるには量が多い」彼は集めた書物の束を、カウンターに置く。「本来の仕事がおありでしょう」

「はあ」

「それに、その棚の上にあなたが届くとは思えない」

 なるほど、台に乗って手を伸ばしたところで、指先が触れるかどうかといった具合だ。

 二人で纏めた落下物は、男性の手で元の場所に戻される。今度は簡単には落ちてこないようあまり積み上げず、棚の奥の方へ押しやる。

「ありがとうございました」わたしは言う。

「どうか気を付けて下さい。最近は大きな揺れが頻発してますから」

「やはり増えているのですか」

「ええ」彼は棚の上を見上げたまま言う。「だから急がなくては」

「〈だから〉?」疑問が口から滑り出る。

「失礼、仕事の話です」彼はカウンターを出て、四冊の書物を抱え上げる。「資料、ありがとうございます。残りの一冊もどうかよろしく」

「わかりました。明日までには探しておきます」

 男性は頷くと、出口へ向かう。音のない室内に、扉の閉まる音が響く。


 目録作りも目標数に達したので、依頼されていた残り一冊の書物を探すことにする。

 書物の題名をメモに書き取り、閉架書庫に入る。開架書架とは違い、こちらは何かしらの規則に則った分類が成されているわけではない。大昔の百科事典の途中の巻の隣に、植物を育てる方法を記した書物があり、その隣に戯曲が並んでいる、などということがよくある。だから背表紙には目を凝らさなければならない。

 目録への記載がまだの箇所から始め、棚を二棹移動する。口の中で題名を囁きながらランプの灯を移動していると、不意にそれは現れる。初めは見つかったことが信じられない。それから、見つからないと思っていた自分に驚きを覚える。

 カウンターへ戻り、メモを挟む。取り置きの資料であることを示す目印である。

 彼が来たらすぐに渡せるよう書物を隅に置くが、気になったので再び手に取る。別に疚しいことをしているわけでもないが、こっそりと表紙を開く。

 題名には〈信号〉という言葉が付いている。それは、遠く離れた場所にいる相手に言葉を伝える手段を記した書物だ。

 読み始めたら最後、指が勝手に頁を繰っていく。書かれた文章が、起き抜けに飲む水のように身体へ染み込んでくる。所々にわからない単語が出てきても、想像で補うことが出来る。それ以上に得られる知識の方が大きい。胸の中が何かで満たされていくような感覚を、わたしは味わう。

〈光〉と題された項目で、手が止まる。

〈信号〉にはいくつか種類がある。中には、光の明滅を利用したものも存在する。発光の間隔を調整することで長短の符号を伝え、それを解読して文章を作るのだと記されている。

 頭の奥に、あの光が見える。バルコニーから見える、光の明滅だ。

 チカ、チカ。

 チカ、チカ、チカ。

 頁を進むと、符号の判読方法が一覧として載っている。わたしは頭の中の明滅を口の中で繰り返しながら、該当するものを探し、文章に変換していく。

 出来た。念のためもう一度見直し、間違いがないことを確認する。符号の解読に間違いはない。そこには、ちゃんと意味の通った文章が現れている。〈信号〉として正しい意味を持つ、相手に伝えるべき言葉が。

 コ、コ、ニ、イ、ル、ゾ――

 わたしは鉛筆書きした紙片を折り畳み、ポケットにしまう。

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