1-2
友人は食堂で顔を合わせるなり、わたしの身を案じる。わたしも彼女の無事を確かめる。そういう挨拶ともいえる。
二人で昼食を受け取り、空いた席に着く。窓際の席だ。
わたしはパンを千切りながら訊ねる。
「子供たちは平気だった?」
「全然」彼女もパンを千切る。「泣き言ひとつ言わないわ。まるで揺れなんて起こらなかったみたいにピンピンしてる」
「頼もしいね」
「少し怖がってくれた方が、可愛げがあるわよ」
彼女の仕事は子供たちの養育だ。屋上庭園で、幼年期の子供の面倒を見るのだ。それぐらいの歳の子供が日頃、どういった振る舞いを見せるのか、実物を見たことがないのでわたしにはわからない。友人は〈可愛い〉と表現するが、それがどういった状態を指すのか、具体的には理解できずにいる。
言語化できないものは、存在しないのと同じだ。
窓の外を何かの影が通り過ぎる。たぶん、鴉だろう。
「ねえ」わたしは呟くように言う。「子供の世話は楽しい?」
友人は少し考えるように宙を見つめてから、肩を窄める。
「考えたことないわ。仕事だもの」
「強いて言うなら?」
「楽しい、ということになるかしら」
「それは子供が〈可愛い〉から?」
「うーん」彼女はまた考える。「理由はそれだけじゃない気がするけれど、全く無関係でもないようだわ」
今度はわたしが考える。〈楽しい〉という感覚については、いくらか理解しているつもりだ。苦痛を感じず、長い時間続けられること。それが〈楽しい〉だ。取り敢えず、〈可愛い〉もそこに含まれるということはわかる。
「妙なことを訊くのね」彼女は言う。
「だって、日頃何かを〈可愛い〉と思うことがないから」
「書物があるじゃない」
「書物は〈可愛い〉の?」
「あなたが守る対象でしょ。可愛くないの?」
考える。
「たとえば」と、彼女が言う。「あなたの図書室から、あなたに無断で書物が持ち出されたらどう思う?」
「わたしの、じゃない」と、わたしは言う。「図書室も、そこに収蔵されている資料も、塔の物。わたしの所有物じゃない」
「そうね。だけど、直接管理してるのは塔じゃない。あなた自身。あなたが塔の〈手〉となって、図書室の管理を司っている。だから、図書室はあなたのものとも言える」
「なるほど」
「で、そこから書物が一冊盗まれた。どう思う?」
「どの棚から盗まれたかによって、気付けるか気付けないか変わると思う」
「気付いたという前提で」
「盗まれた書物にも依ると思う」
図書室の資料はなべて貴重とされているが、実際のところは貴重なものとそうでないものに分かれる。内容の如何もそうだが、同じ書物が重複している場合も往々にしてある。書架の容量は限られている。全く同じ物をいくつも残しておくメリットはない。そうした物なら、盗まれてもさして困らない筈だ。
「残念」友人が言う。「書物と子供では事情が違うわね」
「どの子供でも、いなくなると困る?」
「困るわ」
「〈可愛い〉から」
「そうね。もちろん、自分の職能を疑われるということもあるけれど」
「そうか」一番大事なことを忘れていたことに気付く。そんな自分に驚きを覚える。「だったら、わたしも書物が盗まれると困る」
友人は笑う。
「しっかりしてよ、もう」
頭上からサイレンの音が降ってくる。
結局、〈可愛い〉には辿り着けぬまま昼食は終わる。
午後も図書室へ戻り、目録作りを進める。終業のサイレンまでそれを続ける。
朝と同じく満員のゴンドラに揺られ、自室のある階へと帰り着く。扉を開けると、部屋は薄闇に包まれている。電灯が灯るにはまだ明るい。
夕食の配給までにも時間がある。わたしはバルコニーへ出る。
遠くの空が橙色に染まっている。陽は落ちつつあるようだが、群青色の雲に隠れてその姿までは見えない。冷たい風が吹き付ける。
間近で軽い金属音がする。手摺りに鴉が止まったのだ。
頭の天辺から爪の先まで真っ黒な鴉が言う。
「やあ。今日もお疲れのようだね」
「そうかしら」わたしは手摺りに凭れながら言う。
「そうだよ」
「或いはそうかもしれない。鴉の声が聞こえるなんて」
「それは今に始まったことじゃないだろう?」
そう、今に始まったことではない。むしろ、今まで聞こえなかったことがない。鴉が喋らないと知ったのは図書室での仕事に就いてからだ。たまたま目にした書物の内容で、彼らが空を飛び、不快な音を立てて鳴き、時折ゴミを漁って生きるものだと知ったのだ。
尖った嘴が開く。
「今日は何か楽しいことがあった?」
「特に何も。いつもと変わらない」
「全く昨日と同じわけでもないだろう?」
「そう言い切れる自信はない。一昨日と三日前の区別がつかないもの」
「三ヶ月前と半年前の区別も」
「去年と三年前の区別だって」
「三年前と四年前では大きく違うじゃないか」
四年前ではたしか、まだ図書室の仕事は始まっていない。
「そうだけど、四年前から先は全部一緒。〈今と違う〉という一塊の記憶があるだけ」
「色々あったじゃないか」
「例えば?」
鴉は黙る。口を開けたまま、首を左へ傾げたりもする。
「細かく見れば、色々あった気はする」わたしは再び手摺りの向こうへ目を向ける。「でも、気がするだけ。そういう予感が、漠然と胸の中に立ちこめてるだけ」
「霧のように」
「そう。霧のように」
「思い出したいと思わない? 子供の頃のこととか」
「別に――」
ふと、目の裏に人影が現れる。女の人。見覚えがあるようでもあるし、ないようでもある。彼女はこちらに向けて何か言っている。叫んでいるようにも見える。
「どうかした?」
鴉の声でハッとする。
「別に」
あ、と声が出る。群青色の中で光が瞬いている。
チカ、チカ。
チカ、チカ、チカ。
「またやってる」鴉の言葉が、光の主に向けたのか、わたしへのものかは定かではない。
わたしの目と頭の殆どは、瞬きに注がれている。
チカ、チカ。
チカ、チカ、チカ。
何度も繰り返される点滅を見据えたまま、わたしは言う。
「ねえ」
「知らないよ」
「まだ何も言ってない」
「あの光が何なのかなんて知らない。何度も言ってるだろう?」
「飛べるんだから、見に行ったことはないの?」
「無理だよ、あんなに遠く。一体どれぐらいあると思ってるの?」
どれぐらい、と言われても困る。測る手段もなければ、それを言い表す言葉もない。塔の中で生きる限り、高さこそ気にはするものの、距離については廊下の長さ以上に考える必要はない。塔の中か外か。それだけで充分なのだ。
瞬きは、尚も続いている。わたしは指で手摺りを叩き、そのリズムを身体に刻みつける。
「この間とは違う」
「でも昨日と同じだ」
「一週間前とは違う。その一週間前とも違った」
「一昨日と三日前の区別がつかない君にわかるの?」
「訂正。あの光の件に関しては、区別が出来る」
溜息が聞こえた。わたしは気にせず、光を見つめる。
「何か理由があって変えてるのかも」
「まるで誰かの意図が存在するような言い方だね」
「だって空があんな風に光る理由なんて他に考えられない。雷とは明らかに違う。いつも同じ場所で。あそこに何かがあるとしか――」
「そこまでだ」鴉が羽を広げた。威嚇しているようにも見える。「それ以上は言うべきじゃない。どこで誰が聞いてるかわからないよ」
「でも」
「僕は君のためを思って言ってるんだ。君は僕の大切な友達だから」
わたしは口を噤む。
上階からサイレンの音が降ってくる。時報とは違う、警告の音。
わたしは手摺りから身体を離す。
間もなくして、手摺りの傍を黒い塊が落ちていく。大きさは、わたしと同じぐらいだろうか。生温い微かな風が、顔に当たった気がする。
サイレンが止む。
手摺りから顔を出して下を見るが、そこにはもう暗闇しかない。闇が、闇に染まった霧が、落ちていった〈何か〉をすっかり呑み込み、落ちていったという事実さえもなかったことにしてしまったようだ。
「君にはああなってほしくないんだ」ややあってから、鴉が言う。
「気を付ける」わたしは言う。
彼方では、例の光が未だに明滅を続けている。
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