ワールズエンド・アパートメント

佐藤ムニエル

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 今日も、起床のサイレンより前に目が覚める。

 灰色の、無表情な天井を見上げたまま、わたしは塔の〈鼓動〉に耳を澄ませる。

 カン、カン、カン、カン、カン――。

 金属のぶつかり合う音は、一拍も乱れることなく鳴り続けている。わたしが生まれるずっと前から。その出所を見たことはないが。

 程なくしてサイレンが鳴る。〈鼓動〉と同じく、塔の中に響き渡る。身体の奥底の、恐怖を司る器官を刺激するような音で。

 ベッドを抜け、洗面台で顔を洗う。

 蛇口から迸る冷たい水。

 下ろしたての乾いたタオル。

 洗濯紐にタオルを干したところで、玄関から物音がする。配給口の閉まる音だ。行ってみると、扉の脇に据えられた台の上に食事が乗っている。真四角のトレイを持って、わたしは部屋へと戻る。

 灰色の机にトレイを置き、灰色の椅子を引いて腰掛ける。灰色の壁を見ながら食事する。黒パン。タマネギの浮いたコンソメスープ。崩した卵。それらを順番に、変わらず鳴り続けている〈鼓動〉と合わせるように口へ運んでいく。ローテーションを五回も繰り返すと食事は終わる。立ち上がり、出掛ける準備を整え、部屋を出る。

 ゴンドラへ向かう途中で、廊下に置かれた返却台に空いたトレイを戻す。廊下には〈鼓動〉に混じって風の音も響いている。上が吹き抜けになっているせいだ。四角い塔の中心部分は空洞になっている。柵から少し身を乗り出せば、上には空が、下には霧がある筈だ。しかし、廊下を覆う薄暗さに目が慣れているため、実際には眩しい光とどこまで目を凝らしても深い闇しか見えない。

 ゴンドラの扉の前には既に三人並んでいる。他の住人たち。いつも同じ顔ぶれかどうかはわからない。わたしとは何の関わりもない。女だろうと男だろうと、若かろうと年老いていようと、わたしと言葉を交わさない人々は飽くまで〈人〉という存在でしかない。

 やがて鉄の軋む音が近付いてくる。扉が開く。

 ゴンドラの中は下の階層から乗ってきた人々で満杯だ。前の乗客に続いて乗り込む。誰もが無言の内に身を窄める。扉が閉まり、ゴンドラは上昇を始める。二十を越える数の人間が互いに身を寄せ合っているが、誰一人として何の物音も立てない。ゴンドラを引き上げる鎖の擦れる音が聞こえるばかりだ。

 三つの階で乗り降りがあった後、わたしの降りる階層に到着する。自分の意思で降りたのか、押し出されたのか定かではない。背後では扉が閉まり、わたしとは無関係になったゴンドラは鎖を軋らせながら上昇していく。

 廊下を進み、四番目の扉の前に立つ。鍵を取り出し、解錠する。中へ入る。

 室内は窓がないため、一切が闇に包まれている。扉脇のスイッチを上げ、電灯を点ける。

 ジリジリと音がして、薄目を開いたような明かりが灯る。

 天井まで聳える書架の間を通って、奥へ向かう。カウンターのランプを灯し、抽斗の鍵を開け、書類を机に並べる。閉架書庫の鍵も開ける。こちらは必要な時を除いて明かりを点けることを許されていない。無駄な電気の使用は禁じられている。

 閉架書庫から午前中の作業分を運び出す。仕事の準備を整えると、入口を出て、扉に掛かった表示を〈開館〉にする。一日の仕事が始まる。

 部屋は〈図書室〉と呼ばれている。わたしはここで、本の整理や貸出といった管理業務を任されている。いわゆる司書だ。

 もっとも、大半の時間は資料整理に費やされる。閉架書庫にある資料の目録作り。それもわたしに課せられた仕事だ。わたしが着任した時、既に膨大な長さの目録が存在したが、書庫に眠る資料の量からすると、ほんの指先のようなものだった。客観的に見て、わたしが生きている間に全てを目録として纏められる気がしない。目録の冒頭部分の印字の古さからは、何人もの司書がわたしと同じ気持ちを抱えながら作業に当たってきたことが覗える。

 積み上げた書物の山から一冊を取り、机に広げる。前任者たちの遺したリストを一行ずつ更新し始める。

 床に敷き詰められた絨毯や聳えるような書架がそうするのか、この部屋で響く物音といえば、わたしの動かすペンの先が紙の上を走る音ぐらいだ。後は外から聞こえてくる塔の〈鼓動〉だが、これも大分くぐもっている。一定のリズムを刻んでいるそれは、作業に集中する手助けにもなっている。

 図書室を訪れる者はそうはいない。皆、それぞれの仕事に就いているから、書物を読みに来るような時間はないのだ。

 書架に並ぶ書物は、歴史や技術について書かれたものがあれば物語もある。様々な形態を以て、霧に沈んだ世界を記している。そうした書物に接していると、わたしにもそれなりの知識が蓄えられていく。大昔、人が〈地上〉という場所で暮らしていたということ。〈地上〉は広く大きく、人々はいくつもの場所に点在していたこと。縄張り争いを頻繁に起こしていたこと。

 どこまでも続く〈地上〉に立つというのはどういう感覚なのだろう? 塔での暮らしと何もかもが違うため、上手く想像しきりれない。たぶん永遠に、わたしにはわからないままなのだろう。

 カタカタと、卓上ランプが音を立て始める。

 続いて、書架が軋み出す。軋みは壁から天井へと伝播していき、音はやがて揺れとなって室内全体を覆う。

 積み上げた書物が上から何冊か落ちる。山そのものが崩れぬよう、押さえる。

 揺れは次第に収まっていく。今のは、ここ最近では大きい方だ。

 倒壊がないと判断できるまで、書物を押さえ続ける。振り子の中にいるような横揺れがいつまでも残っている気がするが、わたしの中だけのものだったのかもしれない。

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