手を伸ばしても届かない距離 -arm-

 遠くで鳴る万雷の花火の音で、沈み始める太陽の影を背に受けながら空を見上げる。着物を着た人々が皆同じ方へ向かう。

 藍から濃紺へと広がるグラデーションが、近くまで迫った夜を知らせていた。

「あのさ、私」

 一言、ぽつりと零れる。

「人の憎悪みたいなものに初めて触れた気がする。私があの封筒を軽い気持ちで渡したせいで……。私も誰かのために手を差し伸べたかっただけなのに」

 震えた声が地面に落ちて、細かく砕けていく。降り積もる後悔の跡が痛々しくて、苦くて。

 自分の無力さを呪う。

「少し歩くか」

「うん」

 人の流れに溺れるように進む、息継ぎの方法も分からずにただ流される。溢れかえるほどの笑顔に包まれながら、アスファルトのひび割れを辿り続けていた。

 この流れの先は夏祭り会場だろう。川が海へとつながる様に、幸せの先にはより大きな幸せが待っている。

「今日って、花火大会らしいな」

「うん」

「よく行ってた?」

「家族とが多かったね……去年は友達とだったな。昨日話した私の親友と。そういえば、今年も一緒に行くって約束しちゃってたっけ。ははは……あの子との約束すら守れなかったか」

 赤く染まった空の端が濃紺へ染まり、月の輪郭が浮かび始めた。

 力なく笑う結雨の横顔。月よりも白く、瞬きをすれば消えてしまいそうな儚さ。

「結雨、行こう」

「え?」

「実体化できるか? 手を出して」

 恐る恐る出した手を取る。仄かに感じる熱を手のひらに、俺は地面を蹴った。

 人の流れに逆らって進む俺たちに向けられる、色とりどりの視線を無視して走り続ける。

 夏の夜。湿った草木の香りと、浴衣の袖から漂う香水の匂いに思考回路が乱される。それでも、走る足は止めないように。この手は離さないように。

 人の喧騒から離れ、波の音がする小さな入り江が見えてきた。どれだけ無理をしても息が乱れないのは、この体の特権だと思う。どこまでも、いつまでも走り続けられるんだ。

「あ、那岐」

 すっと、握っていた手から温もりが消える。伸ばした手が空を掴んだ。

 一歩、二歩。走っていた足を止め振り向くと、結雨が恥ずかしそうに笑っていた。

「ごめん、今日はもう実体化できなくなっちゃった」

「……歩こう」

「うん」

 波音が聞こえる。砂浜を撫でる柔らかな音。

 どこまで歩いても足跡の付かない俺らの道は、どこへも繋がらない。

 ――ぱっ。

 紺碧の空に咲いた深紅の花。数多に散らばる光の欠片を覆いつくして、世界を照らす。

 強く、儚い光。

「花火……こんなに大きく見えるんだ」

「綺麗だよな」

「そうだね。この一瞬のためにどんな想いが込められているのかな。それに、この一瞬でどれだけの人が空を見上げているんだろう」

 波に揺れる光の残滓が星空のように広がって消える。

 鮮やかに咲き、一瞬で散った輝きは、今夜、空を見上げる誰かの記憶の中で生き続けることが出来るのだろうか。

 誰かの足跡が残った砂浜に腰を下ろした結雨。その横顔からは表情が伺えない。

「結雨、ごめん。今日は俺が悪かった、あんな思いをさせるつもりはなかったんだ」

「悪くないよ。那岐は悪くない」

「頼らなければ良かったんだ。いつも通り俺が全て対応していれば、結雨が辛い思いをする必要がなかったはずなのに。つい優しさに甘えて――」

「頼らなければ良かったなんて言わないでよ。そんなこと言われると寂しいよ」

「でも……」

「でもじゃない。私は好きでやったことだし、それに、前世の記憶を取り戻す手段でもあるんでしょ?」

 結雨の声が花火にかき消されないように、俺は隣に腰を下ろす。

 肩と肩が触れ合いそうなほど近い距離。その距離がゼロで止まらずマイナスになる度に、俺たちは死者だと思い知らされる。

「でも、今回は少しも記憶を取り戻すことが出来なかっただろ?」

「ほら、また『でも』って言ってる」

 隣へと視線を向けると、右手を翳して目を細めながら笑う結雨がいた。

「私ね、少し思い出したよ。痛みも悲しみも、想いも」

「本当に? 後悔が何か分かりそうか?」

「負の感情に触れたせいかな、ショックを受けたせいかな、記憶が頭に流れ込んできたの。後悔もね何となく分かったんだ、でも私が『彼女』を理解しきれていないの。あと一歩ってところ。もう少し記憶と、彼女の言葉を思い出さないと」

「良かった、もう少しか」

「ええ、貴方のおかげですよ」

 結雨の言葉が凪いだ海に響いた。

 息が詰まるような一瞬。

 次の瞬間には、空を光が覆う。

 眩しいな。夜空へ翳した手から溢れ出る白い光が、僅かに滲む。

「生きるべき人が生きられない世界は間違っていると、そう思っていた。いつかは変わると……。でもやっぱり駄目だった、世界は変わらないし、生きたいと願う人は死んでいく。俺は、この手が届く限り人を救おうと決めて、目の前の人を幸せにしようとしたんだ……したんだけどな――。蝶が羽ばたいたところで、何も影響が無かったんだ」

「世界は変わっているよ、きっと。少しずつ良くなっているの。那岐も覚えているでしょ? 昨日の昼に見た土牢。昔はあそこに罪のない人も囚われて、生きることを奪われていたんだって。そのころに比べたら、生きることが身近になったと思わない? 私はね、生きたいと祈った人たちの想いが、今を作っているんだと思うんだ。だから……だからね、明日は今日よりも世界は幸せに近づいているはず」

 一筆の光の線が空へと昇る。

 大きく空気を震わせて咲いた純白の花。その周りを囲むように、次々と同じ色の花が咲き、空に真っ新なキャンバスが出来上がった。

「那岐、ありがとう。私の心配をしてくれて」

「今回は俺に責任がある。それに……結雨にあんな顔をさせたくなかっただけだ」

「あんな顔ってどんな顔?」

「……さあな忘れた」

「もう……。ふふ、まあ良いか、花火が綺麗だったし。これからも、もう少しの間だけ、私の我がままに付き合ってくれると嬉しいな」

「最初からそのつもりだ。よろしくな」

 結雨は微笑んで空を見上げた。

 空からは疎らに光の粒が降り注ぐ。

「――貴方は優しいですよ」

 呟いた結雨の言葉は、夏の残響と静かな波音が攫っていった。

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