Mono:

雨、歪む世界で君を -chrome-

 雨だ。

 広がった入道雲が青を鉛色へと塗り替えて、気温を下げていた。

 降り注ぐ冷たい雫が、熱いアスファルトの熱を奪いながら激しい音を立てている。頭の奥に響くような音が心地よい。僅かに痛む手首を摩りながら息を吐く。

 俺と結雨は、雨に溶けたように影も無く音も無く、ただ無言で空を見上げていた。

 

 一時間前、俺たちは新たな依頼人に会っていた。

 依頼内容は簡単で、休みになると学校の屋上に立っている学生から、話を聞いて悩みがあれば解決して欲しいというもの。少しだけ特殊な感じのする依頼だが、依頼者本人も、なぜその学生が気になるのか分からないという。ただ、自分じゃない誰かが心の奥にいて、助けたいと言っているのだけ感じているらしい。

 それは前世だろう。俺はそれだけ言って、高校の校舎を見上げた。雨は止む気配がない。

 今日は何が起きるのか。


 雨音だけが響く中、屋上に揺れる人影が現れた。

「あの人か」

「そう、お願いしても?」

「分かった。どんな結末になるかは保証しないからな」

「大丈夫、あの子の話を聞いてあげてくれるだけで十分です」

 雨の中、依頼者の女性の水無瀬さんは、遠くに見える影を目で追いながら頷いた。それを聞いて俺と結雨は校庭へと足を踏み入れた。

 所々、水溜りの出来た校庭。消えていく足跡や、蛇行する細い轍。

 あたりを見回しながら、ペチュニアの咲いた花壇の横を通って、生徒用の玄関へと入る。玄関のガラスを通り抜け、廊下を進む。L字型をした校舎の角に現れた階段を一歩ずつ上がっていく。

「あの子……どこから入ったんだろうね。新しい足跡なかったし、鍵も……」

「多分裏口だ。ほら、この窓から見えるだろ、体育館裏から足跡が伸びている。それに、屋上にも入っているんだスペアキーでも作っているんだろうな」

「そっか、そこまでして……でもセキュリティとかは」

「その辺を考えるのは俺たちの仕事じゃない。実際に屋上に誰かがいるっていう事実、それだけが今は重要だ」

 足音の響かない校舎は冷たくて暗く、廊下の奥深くへと飲み込まれそうな感覚に陥る。余計なことを考えないよう、痛みを感じないよう、俺は無になることを選ぶ。

 階段の終わり、狭くなった踊り場が寂し気に目の前に広がる。隅には錆びて、扉が所々変形した掃除用ロッカーが所在なさげに佇む。

 埃っぽい空気の中、実体化した手で鍵穴だけが付いた冷たい取手を回し、ゆっくりと手前へと引く。何かに引っかかる感覚がし、扉が動かない。外から鍵がかけられているのか。

「開かない?」

「駄目だな。どこかから通り抜けられるか」

「これは?」

 辺りを見渡し結雨が指さした先には、ロッカーの影に隠れたはめ殺しの窓が見える。

 外を覗くと、そこには屋上が広がり一人の高校生らしき男の影がフェンスの前で揺れていた。

「行けるな。結雨はどうする?」

「私も行く」

「今回は何があっても手を出さないようにしてくれ。俺が何とかする」

 窓越しに見える世界へ通り抜け、雨で濡れ続けるアスファルトへと足を下ろす。少し様子見をしようと、入口の上に取り付けられていた貯水タンクに上り見下ろすことにした。

 傘もささずにフェンスに足をかけては離し、針金を掴んでは離す。そのたびに鈍い金属音が雨音に混ざり、ノイズとなる。横に座っていた結雨は何か言いたげに、こちらへと視線を向けてくるが気にしている場合ではない。

 何度繰り返したのか、同じ動作を繰り返していた男が、フェンスにかけた足を滑らせて地面へと手をつく。

 ……もう良いか。

「死なないのか」

 自分が発した声が重く冷たい。何言っているの、という結雨の戸惑った声を無視して話を続ける。

「死ぬ気がないのか? 死ぬ度胸がないのか?」

 フェンスの前で蹲っていた男は、顔を上げこちらを見上げる。丸くした目と、呆けたように開けた口元。まあ当然だよなと思いつつ、俺は次の言葉を待つ。

 静寂の中、どこかから車のクラクションが聞こえる。鋭く、不快な音だ。生と死の境界を知らせる音。

「お前は、お前は誰だ。どうしてここに。鍵は……確かに閉めたはず」

「そんなことはどうでも良いだろ」

「何言っているんだよ。お前は何なんだよ!」

「俺は幽霊だよ」

「はぁ?」

 気の抜けた声を出した瞬間、俺は貯水タンクから飛び降りた。六、七メートルほどの高さから落ち、地面に着く瞬間に実体化を解く。体には衝撃が伝わらず、羽が地面に触れるように足が地を撫でる。

 突然消えたように見えるんだろうなと考えながら、ゆっくりと立ち上がった男の背後へと歩みを進めた。我ながら芝居じみていると笑えて来る。

「信じたか?」

 俺が声をかけると、振り向きつつ息をのむような悲鳴を上げて、数歩後退りをした。手のひらに出来ていた擦り傷から、僅かに血が流れているのが見える。灰色の世界には、僅かな深紅が映えるものだ。白黒映画に突然つけられた口紅のように。

「あぁ、信じたよ。それで何をしに来たんだ。誰だよお前」

「俺は那岐。別に目的は無いよ、ただ話を聞きに来た」

「意味わかんねぇよ」

「名前は?」

「隼人。目的がないどころか、名前すら知らずに来たのか」

 濡れた髪をかき上げて、敵意のこもった視線を向けられる。この視線、久しぶりだが痛みは無い。

「それで、死なないのか?」

「死ぬよ! 死ぬさ」

「じゃあ、死ねよ」

「あぁ、死んでやる」

 目の前で隼人が身長よりも高いフェンスに手をかける。乗り越えようと足をかけ上ろうとするが、結局は上れずにフェンスから離れた。

「無理なんだろ。諦めろ」

「嫌だ、俺は死ぬんだ。こんな世界で生きている意味なんてない。死んで自由になる」

「別に俺はお前が死ぬのを止めに来たわけじゃない。死にたければ死ねばいいし、死ねないのなら諦めろ。俺には関係ない」

「……じゃあどうして」

 そうだ、別に俺は自殺を止めに来たわけじゃない。話を聞くだけだ。

 止める権利も促す権利も無いはず。無いはずなのに――。

「死ぬのは解放じゃない、自由にならないんだよ。死の先にあるのは無だけだ」

「それでも苦しんで生きるよりは、一瞬の死を受け入れる方が良いに決まっている」

「そっか、それが良いなら別に止めない。でも俺は、お前が何に苦しんでいるのかも、どんな痛みを負っているのかも知らないから、無責任なことを言う」

 アスファルトで跳ねた雨粒が足元を濡らしていく。俺は死者だ、生者に対して責任を負うことなどできない。簡単に他人の人生に干渉し、無責任に立ち去っていく。それでも間違っているのはこの世界だ。意味も無く、人が死ぬ選択をしなくてはいけないこの世界だ。

 俺は悪くない。

「まだ生きる選択ができるだろ。死を選ぶのは早くないか」

「どうやって生きろっていうんだよ」

「好きなように生きればいい。どうせ死ぬ気なら、学校なんか辞めてどこか旅へ出たり、金がなくなるまで好きなものを食べたり、こんな場所から逃げれば良いんだよ。そんなことしていれば、最後には嫌でも死ぬさ」

「……」

「まだお前は幸せだ。生きる選択も、死ぬ選択も、死に方の選択も出来る。死ぬなんて人生で一回しかできないんだから、こんな陰鬱なところでその権利を使わなくても良い」

 俯いたままの隼人の反応を待つ。結局俺は、目の前の死を取り消そうとしているのだろう。死を先延ばしにして、自分の目が届かないようにするだけの応急処置。その先の結末は見ない。

 息を吸う音が聞こえる。上げた視線は弱々しく、結んだ口元は力強い。

「死にたくないけど、死ぬしかないんだよ! 俺が生きる意味がないから!」

「じゃあ殺してやる」

 奥歯を噛み締め、首を掴んだ右腕に思いっきり力を加える。踏み込んだ足が濡れたアスファルトを鳴らす。フェンスが音を立てて軋んだ。

 乾いた金属の音。息が詰まった声。雨音。

 手のひらに熱が伝わり、必死に息を吸おうとする喉の動きが伝わってくる。藻掻きながらも掴まれた手首に、爪が刺さり鋭い痛みを覚えた。

 ――俺はこの感触を知っている。

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