偽りと本質 -joint-
海に反射する日光が、今日も波に揺れる。
結雨と二人で海岸線を進むと、二階堂さんが佇んでいるのが見えてきた。どこか遠くを見つめる瞳。何を見ているのか。
近づくと、俺らに気づいた様子で小さく頭を下げる。僅かに緊張したような姿に、自分の声色が鈍くなる。
「この封筒で間違いないか」
「はい、ありがとうございます。もし差し支えなければ、この封筒を渡して欲しい人が居るのです。そこに名前が書いてある人ですが」
手紙を裏返して名前を確認する。掠れた『小鳥遊 絵梨』の文字。
「なるほどな。その人がこの時間帯に通るから、待ち合わせを再指定したってことか」
「はい、お願いできますか。渡せなかったのが心残りで」
「結雨、これを渡すのをお願いできるか? こういうのは俺が行くと警戒されそうで」
「まあ、そっけないもんね。大丈夫だよ、任せて」
実体化した結雨に手紙を渡し、目的の人物が通るのをじっと待つ。
無言の空間が広がるなか、八月の初頭とは違った蝉の声が響く。目を閉じてじっとしていると、重なり合う命の燃える音だけが体中に響き渡ってきた。
命の重さはそれぞれ違うのか、同じなのか。
命の無くなった俺らは、生きているときよりも軽くなっているのだろうか。
思いっきり息を吸う。遠い記憶、忘れていた夏の香りを思い出していた。
「いました、あそこを歩いている白い服の女性です」
ぼそっと呟くような二階堂さんの声に、視線を向ける。閉じていた目を開くが、日差しの眩しさで焦点が一瞬合わなくなった。
「結雨さん、お願いできますか?」
「はい。あのひとが小鳥遊さんですね」
「あと、出来ればその封筒を、その場で開けてもらえるように言ってください」
首を傾げた結雨は、頷きつつ走り出す。
じっとりとした暑さの中に響く、軽やかな足音。風で揺れるスカート。
そして透き通った、鈴の音のような結雨の声が纏わりつくように歪んだ夏の陽炎を拭い去る。
「すみませーん」
呼びかける声を追うように、俺たちも小鳥遊さんのもとへと進む。
ゆっくりとした足取りは、まさに生者の影に身を潜める亡者。振り返り結雨の顔を見た小鳥遊さんの表情は、どこか憔悴しきったような、痛みを感じさせるようなものだった。光の無い空虚を見つめる目。それは見覚えがある。何もかもを失った者の瞳。希望を捉えられなくなった瞳。
彼女にはこの青い夏空は何色に見えているのだろう。
「突然呼び止めてすみません。私は結雨です。この封筒を貴方に渡して欲しいと言われまして。今すぐ中身を確認して欲しいとのことです」
「これは……私宛?」
二人の会話が聞こえてくる。受け取った封筒を眺め、動かない姿だけがこちらからは見える。ゆっくりとした手つきで封を開ける。
「はい、二階堂さんから預かってきました」
手が止まる。
上げた顔には、うっすらと困惑の色が浮かんでいる。
「……二階堂は私ですけれど」
「え、小鳥遊さんでは?」
「いえ、私は二階堂綾乃です」
聞こえてきた言葉に思わず立ち止まる。隣に並んでいた、今まで『二階堂綾乃』だと思っていた人物へ視線を向ける。
お互いに視線があう。僅かに歪んだ口元。
息が詰まるような感覚に襲われ、何が起きているのかを把握しようとするが上手く頭が回らない。騙られた名前。廃墟。腐臭。差出人の小鳥遊絵梨はこの人か。
「なんで! なんで、なんで、なんで!」
叫び声に混ざる悲鳴。
結雨と向き合っていた本物の二階堂さんの手から、数枚の写真が舞い落ちるのが見えた。光を反射し、俺たちからは見えない。
その写真を拾い上げた結雨が、口元を抑えて膝から崩れ落ちる。
「あなたが、あなたがやったの! ねえ、答えなさいよ!」
崩れ落ちた結雨に降り注ぐ罵声。理由もわからずに責められる、その様子にたまらず駆け出す。
「結雨、どうした」
「この写真」
差し出された写真には、廃墟で見た地下室の光景が写っている。唯一違う点は、その写真の真ん中に幼子が一人横たわっていること。
なんなんだよこれ。
「私の子を、どこへやったの! あなたが殺したの? ねえ、何とか言いなさいよ」
「違います、私じゃないです。裏、封筒の裏の名前を……」
写真に写っていた真っ赤に濡れた子供。
涙を流す結雨の声に、昨日、廃墟で目にした鎖や鋸が脳裏を横切る。
「封筒の裏? え……これって」
裏返した封筒に書かれた文字を見て、目を見開く二階堂さん。数歩後退りした後、封筒が手から落ちた。ひらりと風を纏う赤。それは零れた血のようで。
「ハハハ、あーあ、面白い。やっと反応が見れた」
振り向くと、今まで全く表情を表さなかった依頼人が笑っている。浮かべた恍惚の表情に虫唾が走る。
「探偵さんもありがとうね。馬鹿みたいに何も疑わず依頼をこなしてくれて。少し心配だったんだよね、写真が見られたらどうしようって。それにしても、あの助手の子も泣いちゃって可哀そう。ふふふ」
気づいたら地面を蹴っていた。自分が騙されていたとか、そんなことは関係ない。結雨にあんな表情をさせたのが許せなかったのかもしれない。幼い子供の死を見たからかもしれない。
「小鳥遊!」
体勢を崩しながらも右腕を伸ばし、首元を掴もうとした。勢い任せて触れようとした手が、小鳥遊の体をすり抜け空を掴む。互いに霊体故に、影は重なり合うが交わらない熱。
「お前の目的は何だ! あの子を殺したのか。なぜその写真を見せる必要がある」
振り向くと、見下すような視線をこちらへ向けていた。
笑うのをやめたが、未だ口元には笑みを浮かべている。自分でも抑えきれないほどの嫌悪感。どうしてここまで、俺は必死になっているんだ。
「あの女の苦しんだ顔が見たかったのよ。勝手に彼と結婚して、子供を産んで。少しは罰を受けるべきでしょ」
「……なに言ってるんだ。あの人の結婚相手は、お前の恋人だったのか?」
「いいえ。でも私の方が先に彼を好きになったの。毎日、毎日、私が彼のデスクの近くを通ると、顔を上げて私のことを見てくれたのよ。そして私が微笑むと、満足そうに顔を戻して仕事に戻るの。そんな幸せな日々だったのに、いつの間にかあの女と結婚なんかして、子供まで作って……」
おかしい。話している内容のすべてを頭が拒絶している。
勝手に嫉妬して、全く関係ないあんな小さな子を殺したのか。
「それでいて幸せそうな顔をしているのよ。彼はあの女に騙されてるの。私が救ってあげなければいけなかったの。私しか彼を幸せにしてあげられないの」
「ふざけてる」
「何とでも言いなよ。私は子供を殺して、あの女を地獄に落とすという目的を達成した、もう満足だからね」
「……」
不純な感情に呼ばれた、純粋な笑顔。
対面しているだけで、自分の中からどす黒い感情が湧き上がってくる。それと同時に疑問も浮かぶ。泣き崩れる二階堂さんと、彼女の肩に手を添えながら狼狽える結雨のもとへ向かいたいが、いま聞ける情報をすべて聞き出すのは自分だけだという責任が、俺をこの場に縛り付けていた。
「そんな大切な写真をどうして廃墟に置いてきた」
「あーそのこと。ちょっと失敗しちゃってね。本当はあの女に廃墟で封筒を見つけさせて、さらに埋めた子供を自分で掘り起こさせようとしてたんだけど、準備中に死んじゃったんだよ。私が」
死ぬなら一日後がよかったと笑う。
だめだ、根本的に俺とずれている。まともに向き合っては引き込まれるのも時間の問題だろう。
「子供はね、廃墟近くの横穴に埋めてあるよ。土牢だったっていう場所ね。詳しくはあの封筒の内側にも書いてあるんだけど、そのことに気づくかな? いや、ヒントも無しにあの女はわからないか」
「もう十分だ」
発した自分の声の弱さに、思わずアスファルトへと視線を落とす。
話し続ける小鳥遊の声を無視し、ふらつきながらも二階堂さんへ向かって歩みを進める。ゆっくりと実体化する体の重み、包まれる湿度の高い夏の空気、蘇る痛みが自分の咎か。
「二階堂さん」
俺の声に大きく肩を動かすと、驚いた様子で振り返った。
指先が細かく震えている。
「あなたは……」
「結雨……その子と同じで、封筒を渡すように依頼されていたんだ。すまなかった、そんな写真だとは知らなかった」
「知らなったで……知らなかったで済むと思っているの?」
喉の奥から絞り出すような声。
そこに乗った感情が僅かに肌に伝わってくる。
「済むとは思ってないけどさ、他に俺に出来ることは少ないんだよ」
視線が揺れる。震えた指から地面に落ちた写真が乾いた音を立てた。
「俺は事件について話すことしかできない、犯人について、貴方の子供について」
「どうして貴方がそんなこと知っているのよ」
「聞いてきた」
信じてもらえるかは分からない。それでも、いま俺が出来ることをしないと、この結末には納得できない。二階堂さんの口から零れた空気の漏れるような音に、俺は次の言葉をじっと待ち続けていた。
「犯人は、あの女なの」
「封筒にも名前が書いてある通り、小鳥遊だ。本人はもう死んでいるけどな」
「あのストーカー女……だから早く警察に行くべきだって……。あぁ、もうなんで、何でなのよ。どこまで私たちの邪魔をするの」
掛けるべき言葉が見つからない。慰めか同情か、同じ痛みを味わっていない人間がどんなフレーズを言っても、全てが薄っぺらく意味のないものになる。そんな気がして、俺はただ目の前で苦しむ彼女の痛みに気づかないふりをするしかなかった。
「ごめんなさい、取り乱して。それで……」
「埋めたって……その封筒の内側に場所が書いてあるらしい」
不揃いに破られていく封筒の隅。中身にはどんな言葉が書いてあるのか。
「この場所に……行けばいいのね」
「たぶん。線路沿いに行けば場所は見つかると思う」
「今は信じるわ。貴方の名前は?」
「那岐」
「ありがとう、これで少し希望が見えたわ。結雨さんもキツく当たってごめんなさい」
俺の後ろに隠れるように立っていた結雨へと視線が向く。
「私は大丈夫ですよ。その気持ちは分かりますし」
「ごめんね、本当に。貴方達は嘘をついているようには見えないから、信じてみるわ。よければ今度、会いに来て。顛末とか話すから、私はあそこのビルで働いているから」
二階堂さんが指さした建物は、小鳥遊がずっと見上げていたビルだった。
昨日も、今朝も、感情の無い瞳の視線の先にあったもの。
「私の旦那がそこの代表をしていてね、名前を出してくれればいつでも会えるようにしておくわ。今回のお詫びはその時にでもさせて」
二人で行ける日は来るのかな。
それとも結雨を前世の枷から解放するのが先だろうか。
上手く言葉が出ずに、僅かに頷いて笑った。笑ったふりをした。
さよなら、と封筒を握り締めて振り向く瞬間の二階堂さんの目には、僅かにだが力強さが戻ってる。復讐なんかの悪い方へ向かないことを願いつつ、寂しさの残る背中を見送った。
小さくなる影を見て、俺たちも振り向く。
「ふふふ、面白いものを見せてもらったよ」
未だその場に立っていた小鳥遊が、肩を震わせていた。
「これで心残りがなくなったわ。ありがとうね、良い道化だった」
「お前は来世も幸せにならないよ」
「それは貴方も一緒ね、探偵さん。さっき怒りに任せて私の胸倉を掴もうとしたでしょ。気に入らないとすぐ手が出る辺り、貴方の本質は私と同じ。どれだけ良いように取り繕っても、芯にあるものは変わらないわ」
「言われなくても分かってるよ。その本質が嫌だから、自分を騙して過ごしてるんだ」
「ふーん、いつか壊れるわ。いや、もうすでに壊れているのかな。貴方、人を殺しているでしょ」
そう言って小鳥遊はゆっくりと消え始めた。
体の透明化が始まり、世界と同化していく。
灰色に輝く光の粒子が空へ。
消滅後、影すら世界から消える。ただ、その人が生み出した悲しみや恨み、喜びのみ、誰の目にも見えずに残り続けるのだ。
たぶんそれが呪いになるのだろう。
現世に残った想いの残滓。それは俺たち自身かもしれない。
「那岐は優しいよ。少なくても私からはそう見える。本質とかそんなのは関係ないって。どれだけ自分を騙して良い人であろうとすることは、別に他の人を騙すことじゃないよ」
「そうか、ありがとう」
涙の跡を残して無理やり笑う結雨から目を背けた。
遠くから祭囃子が風に乗って届く。あぁ、夏の終わりが始まった。
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