5-3.孤独に浮かぶ月

 物の輪郭が闇に塗りつぶされようとしている部屋の様相に気づき、今がとっくに放課後の時間なのだと知った。

 窓の外では、日が沈んだ薄暗い空に、滲んで消えてしまいそうな弱々しい月が顔を出している。

 初めて、私は仮病で学校を休んだ。

 これまで、どんなに教室の居心地が悪くても、休むことはなかったのに。

 それだけ、今回起きた事件が自分を動揺させているのだとわかる。

 

 ……本城観依さん。彼女と夜岬さんの会話はすべて盗み聞きしてしまった。その内容には、私の知らない出来事も含まれていた。


 体育倉庫の落書きと、そこに貼ってあった五十嵐さん宛ての脅迫写真。

 天野さん宛ての二通の脅迫状に便乗して作られた、三通目の脅迫状。

 208教室の黒板に書かれた、夜岬さんと日野川さん宛ての脅迫文。

 すべては本城さんが、私を独りにするためにやったこと。


 ……――私のせいで、迷惑をかけてしまった。


「……なんで……――」


 ――こうなってしまうのだろう。

 

 他人に迷惑をかけたくない。

 だから、誰とも関わらないようにしてきた。

 それなのに。

 私が関わらなくても、私がそこにいるだけで誰かに迷惑をかけてしまう。


 ――いや、違う。

 そんなの、都合のいい解釈で責任から逃れているだけだ。

 すべて、私が最初にから起こったことなのだ。


『あ、ごめん。ちょっとお話したいなって思って』


 中学三年生の始業式の朝、水瀬中に転校してきたばかりの私に、最初に声をかけてくれたのは天野さんだった。

 当時の私は警戒していたが、次第に彼女の人柄に惹かれて仲良くなっていった。

 志望校が同じだったこともあり、天野さんが部活を引退してからは、一緒に勉強することも多くなった。

 いつしか私は、自分の能力のことを話すくらい、天野さんのことを信頼していた。

 ――……仲良くなっては、いけなかったのだ。


『でも、話したのには理由があって……夜岬さんが、綾ちゃんと似た力を持っているから――』


 三日前、天野さんは私の能力を他人に話したことを謝ってきた。

 私はこのとき、『夜岬』という名前を聞いて、前日に声をかけてきた彼が中学時代の恩人だと気づいた。

 ……彼が不登校になったのは私のせいだ。私には、彼の側にいる資格がない。

 それでも……もう一度だけ、会いたいと思った。

 会いたくて、お礼を言いたくてモノクロ探偵部を訪ねた。しかし、彼は私のことを覚えていない様子だった。

 ……覚えていないのならば、黙っておいた方がいい。自分が不登校になった出来事など、思い出したくないはずだ。

 だから私は、せめて彼を手伝って罪滅ぼしをするため、モノクロ探偵部の活動に参加した。

 ――……会いたいと思っては、いけなかったのだ。


 五十嵐さんの件も、本を取られたときに私がもっと穏便に済ませていれば、脅迫写真が送られることもなかったかもしれない。


 ――私は、誰とも関わってはいけない。私の居場所はどこにもない。

 こうして、部屋にこもっているのが、お似合いだ。


 ――そう思った矢先、静寂を突き破る電子音が響いた。


 インターホン。誰か来客のようだ。

 今は両親ともに仕事で家にいない。呼び鈴に応えられるのは私だけだ。

 普段であれば、私もまだ学校にいる時間。居留守を使うこともできるが申し訳ない気もする。

 私は居間へ向かい、カメラ付きインターホンの映像を表示するモニターを確認した。


「――!?」


 外にいたのは、見知った人物だった。

 少し迷ったが、私は通話ボタンを押した。


「……はい」

『綾ちゃん! こんにちは……じゃなくてこんばんはかな、もうそろそろ』


 天野さんはあたふたと落ち着きのない様子で言った。

 天野さんが私の家に来るのは、中学生のとき以来だ。


「……どうして、ここに?」

『あのね、鞄。あと靴。……昨日、学校に置いていったままだったでしょ』


 天野さんがカメラに映るように鞄と紙袋を持ち上げる。私の鞄だった。となると、紙袋の中身は靴だろう。

 私は昨日、鞄を208教室の前に置いたまま、靴も履き替えずに帰ってきた。天野さんはそれを私に届けに来たという。……おそらく、夜岬さんか日野川さんに頼まれたのだ。


「……その、すみません……」

「大丈夫だよ。それで……開けてもらっても、いいかな?」

「……」


 ドアを開ければ、天野さんと顔を合わせることになる。

 ……私はもう、誰にも迷惑をかけたくない。

 そのために私は……誰とも関わってはいけない。


「……鞄と靴はそこに置いておいてください」

「…………うん、わかった」


 天野さんは何か言いたそうだったが、ただ悲しげにうなずいた。


「……一応、鞄の中身確認してね」


 私の鞄と紙袋をその場において、天野さんはモニターの外へ消えた。

 少し経ってから私は玄関へ行き、静かにドアを開け、覗き見るように周囲を確認する。天野さんが本当にいなくなったことを確認して、鞄と紙袋を手に取った。


「…………」


 すぐにドアを閉める。そのまま玄関で紙袋の中身を確認する。中身はやはり、私が昨日履いていた革靴だった。

 紙袋から出した革靴を玄関に置き、私は鞄と空になった紙袋を持って自室へと戻った。


 ……罪悪感は、ある。

 天野さんは、私に鞄と靴を届けてくれた。それなのに私は、お礼も言わずに、彼女の好意をぞんざいに扱った。

 ……ふと、中学三年生のときに偶然聞いた、天野さんの友人の会話を思い出す。


『円香さー、最近付き合い悪いよね』

『受験だし仕方ないんじゃない? 志望校、色高でしょ?』

『でもあの人とはよく一緒にいるじゃん。あのガリ勉ちゃん』

『転校生の?』

『そーそー』

『なんか、一緒に勉強してるみたいだよ。志望校同じらしいし』

『え、そうなの? あの人なら余裕で受かるんじゃないの?』

『あれじゃない? あの人円香くらいしか友達いなそうだし』

『わかるー。他の人と喋ってるの見たことないし。いつも付きまとわれて、円香も迷惑してるんじゃないんかなー』

『だよねー。円香優しいから口に出さないだろうけど』


 それを聞いて、私は自分の罪を再認識した。

 私は前の中学校で、夜岬さんを不登校に追い込んだ。夜岬さんに迷惑をかけた。

 あのとき、誰かに迷惑をかけるのはもう嫌と思ったはずだった。なのに私は、同じ失敗を繰り返そうとしている。

 私のせいで、天野さんの交友関係に支障が出ている。

 だから私はもう、天野さんと関わらないことに決めた。

 それなのに、何度無視しても、天野さんは私に話しかけてくる。

 私は彼女に酷い態度をとっているのに、彼女は中学時代と変わらない態度で接してくる。


「……もう、やめてください……」


 誰も、私に関わらないで。私は、独りでいいんだから。

 気づけば何度も行きついた結論に戻ってきた。私の頭はずっとこの調子だ。考えては後悔しての繰り返し。出口のない迷路を廻っている。

 同じことばかり未練がましくぐるぐると考えている自分に対し、さすがに嫌気がさす。


 ……何か、別のことをして気を紛らわそう。


 読書は……今はできない。素直に本を楽しめる状態ではない。今の私のこの暗い感情が、本に込められる想いにも影響してしまう。

 ――……勉強しよう。

 今日学校を休んだ分は、自習を進めておかなければならない。今までの授業の進度と教科書の内容から、今日の授業範囲は推測できる。その範囲は押さえておきたい。

 そうしないと、次の授業に対応できない。


 ……次の授業?


 自分の思考に引っかかる。

 私は、これからも学校に通う気なのだろうか?


 今日は金曜日だから、明日明後日は休日だ。だけど、月曜日から、私はどうする?

 私は、夜岬さんとの話を拒んで、自宅へ逃げ帰ってきた。夜岬さんにも、そして日野川さんにも合わせる顔がない。

 それに、登校すれば結局天野さんと会うことになる。彼女は今まで、私が拒んでも話しかけてきた。これからもきっとそうだ。……彼女は、優しいから。

 でも、そのせいで天野さんは、今回の事件に巻き込まれた。天野さんが私に話しかけなければ、本城さんから脅迫状が送られることはなかった。

 すべて、私がいなければ、うまくいくのだ。


 ――……だめだ。学校には、行けない。


 じゃあ、月曜からも学校を休む? いや、それだと両親に迷惑をかけてしまう。

 今日一日だけなら、体調不良という言い訳でどうにかなった。しかし月曜からはその理由は通じない。


 どうすればいいかわからない。

 私は、誰にも迷惑をかけたくない。本を読んで、必要な勉強をして、それだけやって誰にも関わらず生きていく。

 それで十分なのに。


 考えれば考えるほど思考の沼にはまる。

 悩んだ末、私にできるのは問題を先送りにすることだけだった。

 今は何か別のことをしたい。私は勉強をしようと、天野さんが届けてくれた鞄を開ける。


「……?」


 すぐに違和感があった。

 ――厚い。

 昨日と比べて、教科書とノートの束が厚く見える。

 不思議に思いながら、私は鞄の中から一冊ずつ取り出す。


「……!?」


 一冊のノートに触れた瞬間、思わず手を引っ込めた。

 ――このノートは、私のじゃない!

 一瞬だけど、ノートに込められた想いを読み取った。それは、明らかに自分のものではなかった。

 ノート一冊にも、触れれば触れるだけその人の想いが込められる。そこには授業態度や学習意欲が反映され、人によって特徴がある。

 恐る恐る、そのノートを取り出す。やはり自分のものではない。手のひらで想いを読み取りながらひっくり返すと、ノートの裏に名前が記されていた。


『天野円香』


 なんで天野さんのノートが私の鞄の中に? 間違えて入れた?

 鞄を漁ると、他にも私のものではないノートが数冊。すべて、裏面に天野さんの名前があった。

 見つかった天野さんのノートを確認する。ここにあるのは全教科じゃない。金曜日に授業がある教科だけだ。


 ――つまりこれは、欠席した私に授業範囲を教えるために、天野さんが入れたものだ。


 そして、鞄を漁って見つかった物がもう一つあった。

 私は、クリアファイルを手に取る。これは自分のものだ。

 ただ、クリアファイルの中に、茶封筒が入っている。A4紙を三つ折りにして入れるようなサイズのものだ。

 ――こんなもの、私は知らない。


 私はクリアファイルから茶封筒を取り出した。

 封筒自体からは想いを読み取れない。未使用の封筒をそのまま使ったようだ。なんの記載もない。

 恐る恐る封筒の中身を確認すると、折りたたまれた紙が入っていた。

 紙の端をつまんで封筒から取り出す。片側に穴がたくさん開いている。これは、ルーズリーフだ。


「…………」


 迷った末、私はその折りたたまれたルーズリーフを開いた。




>――――――>




「手紙?」


 慎は、灯の言葉を復唱した。

 

 灯が提案した、綾へ言葉を伝える方法。それが手紙だった。


「そう、手書きの文字で伝えるの。都月さんならそれが本心かわかるはずでしょ」


 なるほど、と慎は思った。

 慎が能力を使って嘘を判別できるように、綾にも能力を使ってもらえばいい。

 慎が会話の嘘を読み取れるなら、綾は文字の嘘を読み取れる。


「……にしても手紙かぁ……。書いたことねーけど大丈夫かな」

「むしろ慣れてない方がいいんじゃない? 思ったまま書いた方が伝わるだろうし」

「まあ……それもそうか」


 手紙の作法がどうとか、言葉選びがどうとか、そんなことを気にしていたら手紙に雑念が混ざる。

 できるだけストレートな想いを綾に伝えるためには、余計なことを考えない方がいい。


「ということで、悪いんだけど書ける? 今から」


 灯は鞄の中からルーズリーフの束を取り出した。


「え、今ここで?」

「うん、できるだけ早い方がいいから。……こういうこと言いたくないけど、時間が経つほど想いって薄れていくと思うの。都月さんのことでたくさん悩んでる今の慎だから、一番いい手紙が書けるはず」


 灯はルーズリーフを一枚抜き取り、慎の前に置いた。


「……わかった。やってみる」


 灯の真剣なまなざしを受け、慎はうなずいた。

 その後の相談で、手紙は円香に届けてもらうことになった。もともと灯は、昨日綾が学校に置いて行った鞄と靴を届けるよう円香にお願いしていた。そこに手紙も追加する。

 また、手紙単体で渡しても、慎の話を聞こうとしなかった綾には受け取ってもらえない可能性がある。だから手紙は、鞄の中に仕込む形でひそかに送り届けることにした。

 あと慎と灯にできるのは、祈ることだけだった。綾がちゃんと手紙に気づいて読んでくれることを。

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