5-2.桂木中の盗難事件
「あれ? どこいったんだ?」
中学二年生の二月のこと。昼休み、高見さんのその一言が始まりだった。
彼の隣にいた生徒が「どうした?」と声をかける。それを皮切りに、高見さんの周りに数名のクラスメイトが集まっていった。私は本を読みながら、そのやりとりに聞き耳を立てた。
どうやら、キーホルダーがなくなったらしい。高見さんが鞄に着けていた、プレートにイニシャルが入ったあれだ。登校したときは鞄についていたはずなのにどこへいったんだろう、と彼は自分の机の周りを探し始める。
そこまで聞いて、私は意識の矛先を本に戻した。彼がどれだけキーホルダーを大切にしていたかは知っており気の毒には思うが、私に心当たりはない。
しかし、私は否応なしに巻き込まれることになる。
「都月さんじゃないの?」
その一言で、私の意識は引き戻された。
本から顔を上げて周囲を見ると、視線が私に集まっていた。その原因を作った声の主は、松井さんだった。
「わたし、見たよ。三限の音楽でみんないなくなった後、都月さんが高見君の席のとこにいたの」
彼女は、言葉を続けた。
でたらめだ。確かに三時間目に音楽室へ行くとき、私はみんながいなくなるまで教室にいた。だけどそれは、私物を松井さんたちに盗まれないよう、あえて最後に教室を出ただけだ。高見さんの席には近づいていない。
そこで、思い出した。あのときなぜか、最後に教室を出た私よりも、松井さんの方が遅く音楽室へ入ってきた。不審に思ったが、三時間目が終わった後に何も盗まれていないことを確認して私は安心していた。
違ったのだ。あのときの松井さんの目的は私ではなかった。
――松井さんだ。高見さんのキーホルダーを取ったのは。
しかし、私はそれを証明できない。松井さんの言葉によって、私が犯人であるかのようにクラスの空気が傾き始める。
「あんたがやったんでしょ!」
疑惑が最高潮に達したところで、松井さんのグループが席に座る私を取り囲んだ。
「さっさと自白しなさい!」
「そうよ!」
「奪った物さっさと出せよ!」
「あんたが持ってるのはわかってるの!」
「この泥棒!」
私を責め立てるたくさんの声。
「どこに隠したの? 机の中? 鞄の中?」
「ほら、鞄見せろよ!」
周りの女子生徒の一人が。私の鞄に手をかけようとする。
――触られるのは嫌だ。
鞄、教科書、ノート、筆記用具、文庫本。触られた物すべてに今の彼女たちのどす黒い感情が染みついてしまう。これからの学校生活で私がそれらに触れるたび、この最悪な記憶が呼び起こされることになる。そうでなくとも鞄を漁られること自体が嫌だ。
それに鞄の中にキーホルダーがなかったからといって、彼女たちが鎮まるわけない。
私は机の横に置いていた鞄をすぐに取り、胸の前に抱えこんだ。
「なに? やってないなら鞄出せばいいじゃん」
「やっぱキーホルダー隠してんじゃないの?」
「だよねー、ウチもそう思う」
――どうして、こうなるのだろう。
――私はただ、独りで本を読んでいれば満足なのに。
――それだけで、誰にも迷惑をかけていないのに。
――どうして、私を放っておいてくれないの?
早くこの場から立ち去りたい。だけど、私の席を取り囲む女子生徒たちがそれを許してくれない。
無力感に苛まれ、頭が、視界がぼやける。感覚が切り離されたように、今起きている出来事を遠く感じる。それでも頬を伝う涙の熱はしっかり感じて、自分がさらに惨めになった。
「……違う……私じゃない……」
私にできるのは、望みのない、か細い抵抗を口にするだけだった。
表面上は抵抗するも、心ではもう、完全に諦めている。雑音の中で、私はただ、時間を待つことしかできないと思っていた。
だけど、その雑音はより大きな音で遮られた。
――バン!!!
私を非難していた声がやみ、衝撃音の方に視線が集まる。癖毛の男子生徒が、机に手をついて立っていた。
私と同じで、クラスで目立たない生徒だ。彼が誰かと話しているところを見たことがなかった。
しかし――だからこそ、私は彼に仲間意識のようなものを感じ、名前を憶えていた。
――夜岬慎。
「うるせぇよ」
言って、夜岬さんが動いた。渦中の私の方へは向かってこない。彼が止まったのは、松井さんの席だった。
夜岬さんは、そのまま彼女の机を蹴り飛ばした。
「ちょっと! なにすんの!?」
松井さんが声を上げたときには、机の中身は床に飛び散っていた。
「……こっちじゃねぇか。それなら……」
夜岬さんは近くに置いてあった鞄を手に取る。それも、松井さんの物だ。
「なにわたしの鞄触ってんだよ!」
松井さんが夜岬さんの方に早歩きで近づく。しかし夜岬さんはすぐさま鞄のファスナーを開けて、ひっくり返した。
紙類や体操着などの中身が落ちる中で、チャリン、という金属音が際立って聞こえた。
夜岬さんは金属音の発生源をつまみ上げた後、今度は高見さんを見て告げた。
「これか?」
――夜岬さんが持っていたのは、プレート状のキーホルダーだった。
私の記憶とも一致する。それは間違いなく、高見さんの物だった。
「……う、うん。間違いない。ありがと」
夜岬さんの行動に面くらいながらも、高見さんはキーホルダーを受け取った。
これで、失せ物が見つかったので、事件は丸く収まる……わけもなかった。
「……で、このキーホルダー、なんであんたの鞄から出てきたんだろうなぁ」
夜岬さんは嫌見たらしい表情を浮かべる。視線の先にいるのは、もちろん松井さんだ。
「し、知らないわよ! ……あれよ! こいつがわたしの机の中に入れたんじゃないの!?」
松井さんは、私を指さしながら夜岬さんに言う。
「んなわけあるか。もしそこまで用意周到だったら、疑われた時点で堂々と自分の鞄の中身見せて潔白証明しようとすんじゃねぇの?」
「……!」
「っつーか、やってること中途半端だろ。他人に罪を被せようとしてんのに、なんで盗んだもん自分で持ってんだよ。罪被せたい奴の鞄にでも入れときゃいいのに。……なに? 自分がキーホルダー欲しかっただけ?」
「……」
松井さんは反論できずに押し黙る。
「……とにかく、あんたの鞄からキーホルダーが出てきたのは事実。これをどうとらえるかは今見てるクラスの奴らが決めることだ」
さっきまで松井さんと一緒に私を糾弾していた女子生徒たちは、お互い目を見合わせている。他のクラスメイトもだ。確実に皆、松井さんへの疑念を抱き始めている。
「俺はもう知らね。勝手にやってろ。帰る」
夜岬さんは自席に戻り、自分の鞄を持って教室を出ていった。
その後、クラスメイトたちが私に向けていた矛先は、徐々に松井さんへと移っていった。
最初は「あんな陰キャ野郎の言うこと気にすんなよ」とか「松井を疑うなんてひでーよな」とか「言うだけ言って逃げやがったぜあいつ。だせー」とか、松井さんを擁護するような声も上がっていた。
しかし当の本人は、相槌すらしどろもどろな状態。先ほど私を攻撃していたときの勢いなんて見る影もない。挙動不審な彼女を前に、優しく声をかけていたクラスメイトたちの笑顔もだんだん引きつっていき、優しい言葉も減っていった。
疑念は膨らんでいき、それは昼休みの終わりに、先生が教室にやってくるまで続いた。
事件の名残として、その日松井さんはクラスメイトに冷たい目を向けられ、居心地が悪そうにしていた。
結果的に残ったのは、松井さんへの疑念だけ。
みんな、私を糾弾していたことなんて、すっかり忘れてしまったようだった。
……ただ、一人だけ、私に声をかける人がいた。
「ごめん、都月さん」
放課後の生徒玄関。帰ろうとする私を高見さんが呼び止めた。
彼だけが、唯一、私に謝ってきた。
だけど、私はその声に振り向かず歩き出した。
後ろでは、高見さんが何か話している。それに対して、私がかろうじて口から絞り出せた言葉は、我ながら酷いものだった。
「……もう、私に話しかけないでください」
高見さんは声を止めた。生徒玄関から出ていく私を追ってくることもなかった。
……別に、高見さんは何も悪くない。
彼はただの被害者だ。私のせいで、彼は大切なキーホルダーをなくしそうになった。それに、松井さんのグループや、それにあてられたクラスメイトたちが私を攻撃する中、彼は一言も、私を疑うような台詞を言わなかった。
――あなたは、悪くありません。
そう言えればよかったのだけど、濡れ衣で糾弾され心が疲弊していた私は、彼を切り捨てる冷たい言葉を発することしかできなかった。
こうして、家に帰ってベッドに横たわりながら後悔している始末だ。
……明日もう一度、高見さんと話そう。
それだけじゃない。私にはもう一人、話さなければならない相手がいる。
――夜岬慎。
夜岬さんがいなければ、あの後どうなっていたかわからない。あのままキーホルダーは見つからず、必然的に私の疑惑も晴れないまま、いじめもエスカレートしていただろう。
だから、伝えなければならないのだ。
――助けてくれてありがとう、と。
夜岬さんは他人に関わろうとしない。
私に話しかけられるのさえ嫌がるかもしれない。だからこれは私のエゴかもしれない。
でも――私は自分の想いを言葉で伝えたい。
それは、独りがいいと思い続けてきた私にとって初めての衝動だった。
――しかし、夜岬さんは翌日から学校に来なかった。
>――――――>
……そのキーホルダー盗難事件の犯人は、すぐにわかっていた。
『あんたがやったんでしょ!』
そう言った彼女は、黒だった。
その後も――。
『さっさと自白しなさい!』
『そうよ!』
『奪った物さっさと出せよ!』
『あんたが持ってるのはわかってるの!』
『この泥棒!』
――灰、灰、灰、黒、灰。
黒だったのは、彼女だけだった。
彼女は、今自分が糾弾している眼鏡の女子生徒が犯人でないことを知っている。それはなぜか。自分自身が犯人だからだ。
しかし、彼女の言葉のすべてが黒だったわけではない。
『どこに隠したの? 机の中? 鞄の中?』
その言葉は灰色。といっても、かなり黒寄りのグレーだった。嘘の中に、わずかな真実がある。
――それはおそらく、隠し場所。
キーホルダーは机か鞄の中にある。眼鏡の女子生徒の机と鞄ではない。糾弾している、彼女自身の机と鞄だ。
もちろん、彼女は眼鏡の女子生徒の机や鞄という意味で発言しているから、嘘ではある。しかし、本当の隠し場所が頭をよぎり、意識してしまったのだろう。だから、その言葉は黒ではなくグレーになった。
真犯人も、隠し場所のあてもついた。そして行動した。彼女の机を蹴り飛ばし、そこに目的の物がないことを確認したら今度は彼女の鞄をひっくり返した。
キーホルダーは持ち主に返した。最後まで見届けなかったが、さすがに真犯人が判明して眼鏡の女子生徒の冤罪も晴れたはず。
……盗難事件の顛末を最後まで見届けなかったのは、もうあの場にいたくなかったからだった。
誰かが誰かを騙し、疑い、貶める。そんな混沌の渦中にいることが耐えられなかった。
人は、嘘をつく。それは、集団生活の中で大小さまざまないざこざを起こす。
自分が関わらずとも誰かの頭に黒い色が見えるだけで、悪意に触れたようでむかしから気分が悪かった。
そのストレスがたまたま、中学二年の盗難事件で限界に達しただけ。
だから不登校になった。それだけの話だ。
慎の話を聞き終えた灯が、口を開く。
「……そんなことがあったの……。話してくれてありがと」
「別にどうってことねーよ。もう気にしてねーし」
そう、気にしていない。
自分としては、すでに吹っ切れているのだ。
不登校だった時期に灯と出会って、他人と、そして自分の能力と向き合っていこうと思えるようになった。
だから自分は今こうして、モノクロ探偵部の活動をしている。
慎の中で、盗難事件の件はとっくに整理がついている。
……でも、綾にとっては違ったらしい。
「……都月さん言ってたんだ。自分がいるとまた俺に迷惑をかけてしまう、って。……たぶん、自分のせいで俺が不登校になったと、本気で思い込んでる。だから他人を遠ざけてるんだと思う」
綾はおそらく、その責任で自分を縛りつけている。
綾が昨日『独りじゃないと、だめ』、『誰とも関わらない方がいい』と言った色は白だった。
断定的な言葉で、自分はこうあるべきと課している。
しかし、それは綾の本当の望みではない。だから『独りになりたい』、『放っておいてください』なんて、欲求が滲む言葉は黒に近かった。
それに――。
『……でも、相手の嘘がわかれば……距離を置いた方がいい人とか、見極められますよね』
二日前、慎が自分の能力のことを嫌いだと語ったときに、綾の口から出た言葉だ。
慎の能力があったら、自分はこうしたい。そういう願望がなければ、あんな言葉は出てこない。
距離を置いた方がいい人を見極めたい。それは、関わる人を選びたいということ。
「俺は、都月さんが本当に人と関わりたくないって……そう思っているようには見えない」
「……で、あんたはどうしたいの?」
「……まずは、わかってほしい。都月さんは悪くないって。俺は、都月さんのことを迷惑だなんて思ったことはないって。……それと、これは当初の目的でもあるんだけどさ…………――――」
少し照れくさそうに口ごもりながら、慎は言った。
「――――――――」
その言葉を聞いて、灯はうなずいた。
「あたしもそうしたいと思ってる。……でも、それはまず慎が伝えた方がいいね」
「……んなこたぁわかってるよ。でも、都月さん今日休みだし、そもそもうまく伝えられる自信がねぇ。昨日の感じじゃあ、聞く耳は持たなそうだったからなー……」
慎が何を言っても、綾はそれを信じられないという様子だった。慎は、綾がネガティブな思考に囚われて意固地になっているように見えた。
ふと、昨日の別れ際に綾が放った言葉を思い出す。
『私にも嘘が見えたら、夜岬さんのことをもっと素直に信じられたのかもしれません』
不本意だがその通りだ。綾もそれができるなら、確かに話は早い。
そんな弱気な思考が、ため息まじりに漏れ出た。
「都月さんにも嘘が見えてれば、俺の言葉も真っ直ぐ届くのかなー……」
「だったらそれと同じことをすればいいんじゃない?」
「……は?」
慎としてはただの独り言のつもりだったが、思わぬ食いつきに疑問符を返す。
「簡単な方法があるよ。……ちょっとずるいかもしれないけど」
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