第5章 都月綾

5-1.綾の過去

 ――私は、独りがいい。


 幼い頃から、私は本ばかり読んでいた。話すことも体を動かすことも苦手な私にとっては、それが一番好きな時間だった。

 他人と関わることに煩わしさを感じており、当然、友達もいなかった。


 ただ、人が嫌いというわけでもなかった。

 私には不思議な能力があって、ものに込められた想いを読み取れる。

 この能力は、誰かの気持ちを、口で語る言葉よりも雄弁に教えてくれる。

 誰かの想いに触れ、自分にない感情を知っていく。

 それが私のひそかな楽しみだった。

 仲間と協力し達成する喜び。友人と日常を過ごす楽しさ。好きな人への恋心。別れの悲しさ。

 ああ、世の中にはこういう人がいるんだなあ、と刺激を受け自分の内に取り込んでいく。

 でも、それはあくまで、知識でいい。

 私自身は、自分の心を強く動かされるような体験はしなくていい。

 

 私は他人と関わらない。

 自分が孤立しているのは仕方ないし、それに特段劣等感を抱いていたりはしない。

 自分が、誰かと仲良くすることに向いていない人間だということは理解している。

 不得意なことに時間を費やすより、自分の好きなことや必要なことに時間を費やしたい。くだらない会話や遊びをして過ごすよりはよほど建設的だ。

 自分の時間は、自分のためにある。

 本を読んで、他人の想いに触れて、勉強して。そうやって代り映えのない日々を過ごしていれば、私は満足だった。


 満足な、はずだった。




>――――――>




 慎と灯が脅迫事件の犯人である本城観依を問い詰め、それを耳にした綾が逃げるように学校を去った。

 それが昨日の出来事。

 日付が変わって、慎は改めて綾と話そうと一年五組の教室に行った。しかし綾は欠席であると円香に教えられ、慎は自分の教室に戻った。

 ――このままではいけない。

 綾と話をしたい。昨日のことを。そして。中学二年のときのことを。

 焦りだけが先行しているが、当の綾がいないので何もできない。

 気持ちが落ち着かないまま気づけば昼休みになった。

 数学の授業を終えた鬼瓦が教室を出ていく。その瞬間、隣の席の灯が立ち上がり、慎に詰め寄ってきた。


「慎、ツラ貸して」

「え、なに、ちょ、こっわ」


 不良が絡んできたかのような圧力に戸惑う慎。後ろの席の渓汰もまた、目を丸くしていた。


「渡瀬君。慎借りてくね」

「う、うん。どうぞご自由に」

「まって渓汰たすけて」


 灯は慎の腕を掴むと、そのまま歩き出した。引きずられるような慎の姿を、渓汰はただ眺めていた。






「……で、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」


 慎を208教室へ連行した灯が、開口一番に訊いてくる。取り調べを受けてるような気分だった。


「何があったの? ……何を話したの?」

「なにって……別に大したことは……」

「あるでしょ」


 昨日の綾との一件は『ろくに話ができず逃げられてしまった』とだけ灯に伝えていた。

 会話の詳細や、慎が思い出した中学時代のことは話していない。慎自身、頭の整理ができていないし、これは自分と綾の問題だと思ったから。

 しかしもう、はぐらかすのは難しそうだ。


「都月さんにただ逃げられたってふうじゃないでしょ。あんたの様子見てればわかるんだから。……もう一回言う。昨日、都月さんと何を話したの?」


 強い意志と確信のこもった視線が、慎をとらえる。ここまで真っ直ぐ、真っ白な言葉を向けられては逃げられない。

 慎は観念して話し始めた。


「……思い出したんだ。俺、中二のとき都月さんと同じクラスだった」


 中学二年の頃、慎は他人と関わらないように過ごしていた。

 クラスメイトに対しても興味はなく、名前も顔も憶えようとしなかった。

 クラスで目立つ生徒の顔くらいなら嫌でも記憶に残っていたが、都月綾はその限りではなかった。

 しかし、昨日の綾とのやり取りで、慎は思い出した。

 お互い話したことのない二人が唯一関わったといえる、印象的な出来事を。


「灯にはちょっと話したことあるよな。俺の中学で起きた盗難事件」

「それって確か……」

「……そう、俺が学校行かなくなったきっかけの事件」


 中学二年の二月。クラスメイトの私物がなくなり、ちょっとした騒ぎになった。


「そのとき冤罪で糾弾されてたのが、都月さんだった」




>――――――>




 中学二年生。

 私は依然、他人と関わらないように過ごしていた。友人もいない。

 そんな私に彼が話しかけてきたのは、とある昼休みのことだった。


「あれ? それって今話題のやつ?」


 図書室で本を読む私の後ろに立っていたのは、クラスメイトの高見という男子生徒。テニス部の部長を務め、文武両道で周りに好かれていた。

 高見さんは、私が読んでいる本を見ていた。


「……図書室では静かにしてください」


 冷たく答える私に構わず、彼は声を小さくして話し続ける。

 彼は、映画やドラマになったような話題の小説をよく読むと言った。彼が気になっていた本を私がたまたま読んでいたから、声をかけてきたらしい。


「その本どんな感じ?」


 どんな感じ。そういうあいまいな質問が一番困る。


「……まだ読んでる途中です」

「あ、だよね。じゃあ読み終わったら感想教えてよ」

「……自分で読むのに感想聞くのって、ネタバレになりませんか?」

「面白かったら読もうかなって」

「……面白さなんて人それぞれです。あてにされても困ります」

「でも、都月さんが面白いならきっと面白いよ。クラスでもいつも本読んでるんだから」

「……」


 ――本を読んでばっかの根暗ぼっち。

 言う人が違えばそんな嫌味にも聞こえそうな言葉を、彼は屈託のない笑顔で言った。


 ……いい人、ではあるのだろう。

 それは、普段の教室での様子からも感じていた。彼は相手によって態度を変えたりしないし、誰かを貶めるような発言もしない。

 彼はただ純粋に、本を読んでいる私に興味を持って話しかけてきただけなのだろう。

 そう思うと、そっけない態度をとっている自分に、少しだけ心が痛んだ。


「……もし読んだら、聞かせてください。……あなたの感想も」


 口から出てしまったその言葉は、自分でも意外なものだった。






 それから、高見さんは図書室で会うたび、私に話しかけてきた。


「前に薦めてくれたあれ、面白かったよ」

「……別に、薦めていません」

「面白いって言ってたじゃん」

「……言いましたけど、まさか読むとは思っていませんでした」




「都月さん、これ読んだことある?」

「……はい」

「お、どうだった?」

「展開が駆け足で、あと結末がもやもやするといいますか……個人的にはちょっと物足りない気がしました」

「あ、そうなんだ。ドラマ結構きれいに終わったんだけどなー」

「……ドラマですか?」

「そうそう、最近やってたの。都月さんドラマとか見ない?」

「……私は静かに本を読んでいるのが好きなので」




「この前のドラマ化した本、読んだけど結末全然違ったよ」

「……そうなんですか?」

「ほら、最後。ドラマだと犯人つかまってハッピーエンドなの」

「……確かに、全然違いますね」

「他にも登場人物とかドラマだと増えてるし。でもその分、小説にはなかった事件の背景とか補填されてたよ」

「……そうなんですね」

「うんうん。映像化作品の改変って当たりはずれあるけどこれはかなり良かったと思うよ」

「……機会があれば見てみます」






 テスト前になり部活が休みになると、高見さんは昼休みだけでなく放課後にも図書室へやって来た。


「隣いいかな」

「……鞄を置いてから言わないでください」


 高見さんは私の言葉を肯定と捉えたようだ。立ったまま、机の上に置いた鞄から筆記用具等を取り出していく。

 その様子を見ながら、私は、彼の鞄に付いている物が目についた。


「……ん? これ気になる?」


 私の視線に気づいたのか、高見さんはそれを手にとった。

 それは、キーホルダーだった。

 不要な装飾物は持ち込まないよう、校則に記してある。ただし、実際はキーホルダーやストラップを一つ二つ所持品に付けている生徒もおり、あまり派手だったり数が多くなければ黙認されている。


「これ、人からの貰い物でさ。ほら見てよ、俺のイニシャルが入ってるの」

「……そうなんですか」


 高見さんは、キーホルダーの表面が私に見えるように、向きを変える。

 長さ5センチ程のプレートに、彼のイニシャルが彫られていた。


「……すみません、触ってみてもいいですか?」

「え? 別にいいけど」


 ……それは、ほんの興味から生じた行動だった。

 気になってしまったのだ。高見さんが大切そうにつけているキーホルダーに、どんな想いが込められているのか。

 だから、私はそのキーホルダーに触れた。


「……」


 キーホルダーを細かく見るふりをして、その想いを読み取る。

 キーホルダーを贈った人の、相手に喜んでほしいという願いと、かすかに混ざった緊張。

 受け取った高見さんの、かけがえのない相手を想うまっすぐさと、プレゼントへの愛着。

 そして、お互いの愛情。

 ……誰からの貰い物かはわからない。家族かもしれない、友人かもしれない、恋人かもしれない。

 でも、これはとても大切な人から貰った、大切な物なんだ。


「……いいプレゼントですね」

「でしょ」

「でも校則違反です」

「そこは見逃してよ」


 私物に触れれば、相手がどんな人かはなんとなくわかる。

 キーホルダーに触れて、私は高見さんの純粋な心を垣間見た。

 高見さんは、私に危害を加えるような人ではない。普段の彼の様子からも感じていたが、キーホルダーに触れたことによってそれは確信になった。

 私はいつの間にか彼への警戒心を解いていた。






 私と高見さんは別に、特別仲が良いというわけではない。

 ただ、図書室で会ったときに少し話すだけ。そんななんてことのない関係だった。

 しかし、その状況を快く思わない人がいた。

 クラスの女子生徒たちだ。

 高見さんは、女子からの人気が高い。クラスの女子生徒がよく彼に話しかけており、下心があることは容易に見てとれた。

 私に目を付けたのは、その中でもクラスで一番目立つ女子グループだった。


「都月さん、最近調子のってない?」


 女子グループのリーダー格――松井さんが、自席で本を読む私に話しかけてきた。


「……なんですか?」

「わたしが訊いてんだよ。最近調子のってんでしょ。高見君に優しくされてるからって」


 目の敵にされていることは、すぐに察した。彼女が高見さんのことを気にしているのは、普段の様子からわかっていたから。好きな相手が、急に私みたいな目立たず友達もいない女子と話すようになって、腹を立てているのだ。


「色目つかってんじゃないの?」

「……使ってません。高見さんとは、本の話をしているだけです」

「へー、そうやって高見君と近づいたんだ」


 むしろ近づいてきたのは彼の方だけど、それを言ったところで多分意味はない。

 ……今まで陰口を叩かれることは何度もあった。だけどこうやって、目に見えるような圧力をかけられるのは初めてだった。

 

「おい聞いてんのかよ」


 バン、と松井さんが私の机を叩きながら睨みつけてくる。

 自分の身体が委縮してしまうのがわかった。


「また高見君と話してたら容赦しないから」


 彼女はそう言い残して去っていった。






 それから、松井さんのグループは、高見さんのいないタイミングを狙って私に干渉するようになった。


「また高見君と話してたろ」

「根暗ぼっちのくせに身の程わきまえろよ」

「高見君の迷惑考えたことあんのかよこのストーカー」


 それらの言葉に対して私にできることは、感情を出さないように否定することだけ。そんなことをしても、意味はないのに。

 次第に、言葉を返すことにも疲れていき、私は彼女たちを無視しようと決めた。


「なに無視してんの。感じ悪っ」


 私は、松井さんが声をかけてきても言葉を返さず、本を読む。本の内容なんてまったく頭に入ってこない。

 ――早く、どこかにいって。

 身をこわばらせながら、そう願うことで精いっぱいだった。

 ……のちに、これが悪手だったと後悔することになる。


「おい、なに本なんか読んでんだよ。それでまた高見君の気を引こうっての?」


 そう言って松井さんは、私の読んでいた本を取り上げた。

 ――私は一瞬、頭が真っ白になって。

 ――すぐに、自分でも驚くほどの怒りがこみ上げた。


「返してください!」


 嫌いな人に私物を触られることを、私は許せない。それが本となれば尚更。

 読んだ本には、想いがこもる。それを私は自分の能力で感じ取って、本を読んだときの気持ちを追体験する。

 私にとって、自分で買って読んだ本は、想いがこもった世界にたった一冊だけの本になるのだ。


 自分の本を他人に触れられることは、私にとっては大切な日記を上から塗りつぶされるようなものだった。


「うわ急にキレたよこっわ。そんなに大事なら取り返してみれば?」


 松井さんの煽りを受け簡単にのってしまうほどに、そのときの私は自分を制御できていなかった。

 私が本を取り戻そうと伸ばした手を、松井さんは避ける。私が近づくと別の女子に本を渡し、グループの中でそれを繰り返す。

 彼女たちが飽きてきた頃にやっとの思いで取り戻したが、その本には、私に向けられた悪意と嘲笑、そして私自身の怒りがこもっていた。

 ……とても、最悪な気分だった。


 私を怒らせるコツを掴んでしまったせいで、松井さんの行いは過熱していった。

 彼女は、高見さんのいないところで私に近づき、持ち物を横取りする。それを真似して松井さんの取り巻きも、同じ行為をするようになる。


 私は、自分の持ち物が奪われないか常に気を張って過ごしていた。

 本にはすべてブックカバーをつけた。これならもし奪われても、わざわざカバーを外されなければ、本自体には悪意が及ばない可能性がある。実際は、中のページの部分を触られてしまうこともあり、気休めにしかならなかった。

 本以外にも気をつけた。文房具に傷でもつけられたら、今後授業でそれを使うたび、嫌な気持ちになる。

 使った文房具はすべて鞄の奥にしまい、体操着を上にして鞄を閉じるようにしていた。取り出す手間もあってか、鞄の奥にある物ほど盗まれにくい。一番上にある体操着は盗まれやすいが、体操着ならば、洗濯すればこもった感情はある程度薄れる。ただ、体育の授業の前に隠されて、見つけたそれを着て授業に出たときは、全身に泥水を塗りたくられたような不快感だった。私の能力は、手だけでなく肌で触れたものすべてから感情を読み取ってしまう。

 今まで学校に置いていた物は、取られないように、毎日自宅へ持って帰った。教科書やノートはもともと毎日持ち帰っていたが、美術の授業で使う画材やスケッチブックなどの大きな物も持ち帰らなければならなくなった。登下校時の荷物が前よりも重くなった。

 松井さんたちは私が席を外す隙を見逃さない。お手洗いへ行くのに鞄を持ち歩くほど追い詰められていたときは、周囲の視線も辛かった。


 ……陰口を叩かれたり、仲間外れにされたり、そういったことには慣れていたし、自分が他人と関わりたくないと望んだ結果だった。

 ――しかし、実害が及ぶ行為の対象になったとき、私の心は想像以上に疲弊していった。






 そんなある日、引っ越しをする予定だと両親から聞いた。

 戸建てを買うので、今住んでいる賃貸マンションから出ていくとのことだ。

 近隣への引っ越しではあるが通学区域は変わるので、今の中学校も転校することになる。


 引越の予定は、三月の春休み。ちょうど、中学三年生から新しい中学校へ通うことになる。

 友達がいない私は、今の学校に未練はない。

 ――やっと、今の環境から解放される。

 私の胸中を満たしたのは、そんな安堵だけだった。

 私は、その日が来ることを心待ちにしていた。

 ――そして、あの事件が起こった。

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