第3章 落書き事件

3-1.落書き掃除と綾の能力

 朝練をする部活動の声が遠くに響く、少し肌寒い教室。

 普段は私も、朝練に励む声の一つだ。でも今は、脚のケガが原因で部活を休んでいる。

 今は、それが好都合だった。

 朝早い時間だから、教室に人気はない。彼女と、落ち着いて話せるチャンスだ。

 一年五組が使う105教室。そこにいるのは、今教室にやってきた私――天野円香と、静かに本を読む彼女――都月綾だけだった。


「綾ちゃん、ちょっとお話いいかな?」

「……」


 綾ちゃんは無言で立ち上がり、早足で教室の扉の方へ歩いていく。

 中学三年の二学期頃から、私は綾ちゃんに避けられている。高校でまた同じクラスになってから何度も話そうとしたが、彼女は聞く耳を持たない。


「待って綾ちゃん、話を聞いて!」


 私は綾ちゃんの後を追う。

 今回ばかりは、綾ちゃんを逃がすわけにはいかない。

 昨日のことを謝らないといけないから。

 綾ちゃんの能力のことを、無断で夜岬さんと灯ちゃんに話してしまった。謝って、事情を説明しなきゃ。


 ――こうなったら、強硬手段だ。

 私は、無視する綾ちゃんに構わず話し始める。


「昨日のことを謝りたいの! 、勝手に話しちゃってごめんなさい!」


 綾ちゃんは足を止めない。私は続ける。


「でも、話したのには理由があって……夜岬さんが、綾ちゃんと似た力を持っているから――」


 そこで、綾ちゃんが立ち止まる。

 そして、振り返って口を開いた。


「……今、なんて言いました?」




   ◆◇◆◇◆




 慎は、第二体育館の体育倉庫前に立ち、その落書きを眺めていた。

 この落書きを掃除することが、補習と引き換えに慎が鬼瓦から受けた依頼だ。

 おそらくスプレー缶か何かだろう。荒い点描状の線で、壁一面に図形が描かれている。

 直線五本から形成されるそれは……。


「……星、だな」


 ただの、星。

 本当に、なんの変哲もない、星印である。


(何か意味でもあるのか……?)


 考えようとうとしたが、背後からの声に遮られる。


「おまたせー」


 振り替えると、学校指定のジャージに着替えた灯がこちらに歩いてきていた。

 そして、人影はそれだけではない。


「……おまたせ、しました」


 同じくジャージ姿の、都月綾だった。思わぬ助っ人である。

 遡ること十数分前、208教室に来た綾との話が一区切りついて、慎がさてそろそろ落書き掃除に向かうかと動き出したときだった。


『私も、手伝っていいですか』


 綾が自ら申し出た。

 こんな面倒な仕事、自分から手伝いたいとは物好きなことだと慎は思った。しかし特に断る理由もないので、ありがたくお願いすることにした。

 そして、慎は先に掃除用具を準備して体育倉庫に向かい、制服を汚したくないと着替えを済ませた灯と綾が合流。今に至る。


「それで慎、これが例の落書き?」

「そうみてーだな」


 灯が、壁の星印を見て眉根を寄せる。


「なんというか……高校生がいたずらで描く落書きにしては、単純すぎない?」


 ――単純すぎる。

 それは、慎も気になっていたことだった。


「やっぱり灯もそう思う? 単純すぎるよな、これ」

「うん」

「もっと、六芒星とかにして周りに二重円でも描いてルーン刻めば中二心くすぐる魔法陣の完成なのに、ただの星って……。ほんとに何を思ってこんな面白みのない落書きしたんだか」

「ごめんその感覚はちょっとわからない」

 

 とはいえ実際、慎の言う通り『面白み』がないのは事実だ。

 つまり、特異な点が見当たらない。

 平凡で単純な、星印。

 高架下や公園に描かれていれば、小学生が遊びで描いたのだろうと深く気に留めない。

 しかし、ここは高校の敷地内。

 高校生が描いたと考えると、稚拙な落書きの意図がまったく読めない。

 首をかしげる慎。そのとき、綾が黙々と壁に近づいていった。


「……」

「都月さん、どした?」


 慎の問いかけに答えず、綾は件の星印に触れた。

 そして、線をなぞるように手を動かしていく。


「……お二人の思っている通り、これはただの落書きではありません」


 確信のこもった声で、綾は言った。慎から見てもその言葉は『白』だった。


「ただの落書きじゃねーって、この星が?」

「……はい」

「それは……あれか? 能力でわかったってことか?」


 こくり、と綾はうなずいた。

 綾の持つ、不思議な力。

 その詳細については、慎もつい先ほど聞いたばかりだ。

 慎は、ここに来る前の208教室での会話を思い返した。




>――――――>




「――嘘が色で見える。それが夜岬さんの能力なんですね」

「そういうこと」


 モノクロ探偵部を訪れた綾に、慎はまず自分の能力を説明した。


「わかりました」


 綾の肯定は『白』。納得が早い。慎のように能力を持っているというだけある。

 そして、慎が一番気になるのはそこだ。


「逆に聞きたいんだけど、都月さん能力ってどんななんだ?」

「……簡単に言うと、触れたものに込められた想いを読み取れます」

「想い?」

「はい。正確には『痕跡』を読み取る能力で、目に見える跡ほど想いも明確になります。わかりやすいのは……物についた傷とか、手書きの絵や文字とか……」


 話しながら、綾はきょろきょろと周囲を見渡す。

 そして視線は、慎の腕の辺りで止まった。


「夜岬さん、左手を出してください」

「? こうか?」


 慎は、左の手のひらを綾の前に突き出す。


「逆です。裏に何か書いてますよね」

「あ、これか」


 左手を裏返す。そこには、マジックペンで『鬼 掃除』と書かれている。

 鬼瓦から依頼された掃除を忘れないように書いたメモだ。


「このメモは、夜岬さんが書いたものですか?」

「そうだけど」


 そこで突然、綾が慎の手をとる。


「はぇ?」


 間の抜けた声をあげる慎をよそに、綾は静かに動作を進める。

 綾の左手が、慎の左手を掴む。お互いの左の手のひらが合わさった状態だ。

 そして綾は右手の指で、慎の手の甲の文字をなぞり始めた。


「これを書いたとき、夜岬さんは……焦ってますね。焦ってメモをするということは何か『忘れたらまずい』ことでもあったのでしょう。……次に煩わしさ。『忘れたらまずい』ことに対して、夜岬さん自身は乗り気ではないと思われます。誰かから面倒な作業を頼まれましたか? 書いてある内容からすると掃除ですか? あと、恐怖の感情も少々ありますね。つまり掃除を頼んできた相手は夜岬さんが少なからず委縮してしまうような人物。目上の人と考えると、先輩か先生ですかね。親という可能性もありますが……」

「お、おう……」


 つらつらと語るその内容は当たっている。確かに当たっている。嘘を言っていないことも慎にはわかる。

 それは良いのだが……。


「なーに照れてんの」


 半目の灯が横やりを入れる。

 慎の左手を、綾が両手で包みこんでいるようなこの状態。手のひらにはふわりとした温かく柔らかな感触が、手の甲には綾の指が這うくすぐったさがある。

 慎からすると相当恥ずかしかった。


「悪いか!? 自慢じゃねーが俺は女子とろくに手をつないだこともないピュアボーイだかんな!?」

「ほんとになんの自慢でもないわね」


 そんな騒ぎを前に、綾も自分の状況を改めて認識した。

 綾はサッと手を引き、二歩後ずさる。


「……すみません」


 小声で謝る綾。うつむきがちでわかりにくいが、その頬はほんのりと赤く染まっているように見えた。

 むず痒い空気に耐え切れず、慎は「と、とにかく!」と大きめの声で話題を戻す。


「だいたい都月さんの言った通りだ。俺は鬼瓦もとい河原木先生から掃除を頼まれてる。……要は都月さんの能力は、痕跡に触れることで、それを残した人の感情とか意思とかを読み取れるってことだな」

「……はい。でも読み取れるのはそれくらいで、具体的な部分まではわかりません。今も相手が先生というのは推測でしたし、頼みごとの内容もただ書いてあったからわかっただけです。鬼っていうのもなんのことかわかりませんでしたし」

「まーそれはさすがに仕方ねーだろ」

「最初に見たときは鬼退治に行くのかと思いました……」

「……」


 灯と同じことを言ってくる。

 ――灯の場合は冗談めかしてたけど、こう、真面目っぽい都月さんに言われると素の反応みたいでなんか恥ずい。

 手にメモするの、これからはやめておこう。慎はそう心に誓った。

 とりあえず、手のメモは落書き掃除に向かう前に洗い落とした。




>――――――>




 そんなやり取りがあって、慎と灯は、綾の能力を漠然と理解していた。


「この星印、ただの落書きではなく、明確に、誰かに向けて描かれています」


 綾は体育倉庫の壁の落書きに触れ、痕跡から読み取ったらしい情報を告げた。


「込められているのは、怒り、恨み……」

「おいおい思った以上に物騒だな」


 慎は、綾の言葉が真実とわかっている。

 だからこそ、どんな怒りと恨みを込めてこんな単純な星印を描くに至ったのか、余計に不思議だった。


「一見ただの星印だけど、もしかしてなんか見落としてるか? ……ともかくこれ、誰が描いたかちゃんと確認した方がいいかもな。探偵部らしく調査と行くか」


 ただの雑用の掃除だったはずが、存外、話が広がりそうである。

 不穏な話なら、解決したい。そんな正義感じみた気持ちはありつつも、探偵っぽいことに飢えていた慎は、心の底ではちょっとワクワクしていた。不謹慎かもしれないが。

 そこで、灯が割り込んでくる。


「はいはい、調査もいいけどとりあえずやることやってからねー。さっさと掃除するわよー」

「あー……そうだな。謎解きは掃除のあとでか――ってやべ」


 慎は重大なことに気づいた。


「どうしたの?」

「……調査的にはできればこのまま現場の保持に努めたいところなんだけど……」

「当たり前だけどそんなことしたら河原木先生に怒られるわよ」

「だよな~」


 この掃除はわが校が誇る鬼の生徒指導担当教諭、鬼瓦による直々の依頼だ。

 本心では現場を残しておきたい。しかし昨日掃除を依頼されたまますっぽかし、今朝また釘を刺されたばかりなのに、明日になってまだ落書きが残っていたら何を言われるか。最悪、せっかく免除された補習が復活しかねない。

 だからと言って、正直に話すわけにもいかない。


『不思議な能力で怪しい箇所を見つけたんで、犯人捜しのために落書き残しといていいっすかー』


 頭の中の鬼瓦に質問してみたが「ふざけてるのか?」と威圧され説教が始まった。

 結局、鬼瓦の依頼通り落書きを消すしかないのだ。


「ったく探偵自ら証拠隠滅するなんて愚行もいいとこだぜ。……しょうがねー、せめて写真だけ撮ってから掃除するか」


 慎はスマホで写真を撮ってから、デッキブラシを手にする。


「うっし、んじゃちゃっちゃと消すか」


 慎は壁に切りかかろうというような姿勢でデッキブラシを構える。下がったテンションは、ちょっとカッコつけたりして補うのだ。やっぱりちょっとイタい子である。


「……ところで慎。バケツはあるけど水は?」

「あ、やっべ。汲むの忘れてた」

「まったく、ほんと抜けてるんだから」

「いやごめんって。すぐ汲んでくるから――」

「あ、ちょっと待って」


 空のバケツを持とうとした慎を、灯が止める。


「あたし水汲んでくるから、慎は都月さんとここにいて。先に洗剤つけておいてくれると助かるかな」


 ウィンクを残し、灯がバケツを持って場を離れる。水を汲んで戻るのに少し時間がかかるだろう。


(……これって、都月さんと話でもしてろってことだよな。能力持ちどうしで)


 灯の意図を察して、慎はため息をつく。相変わらず、コミュ障への無茶ぶりだ。

 慎が頭を悩ませる中、口火を切ったのは、綾の方だった。


「……いつも、こんなことをやっているんですか?」


 こんなことって、部活のことか?

 探偵部とかいって掃除してるのもおかしな話だし。


「まあ、そうだな。基本的に生徒会や鬼がわ――……河原木先生に頼まれるボランティアばっか。探偵部なんつっても、一介の高校じゃそんな事件も依頼もねーからな」

「……その、ちょっとだけ、胡散臭いから……かも、しれません」

「あ、やっぱそう思う? おっかしいなー、俺自身はこんなにフレンドリーなのになー」

「……あ、えーっと……そう、ですね」

「……」


 真面目に何かしら答えようとしてくれる綾に、申し訳ない気持ちだけが湧いてくる。

 灯なら皮肉の一つでも返して会話が発展するところ。しかし今話しているのは、口数の少ない、ほぼ初対面の相手だ。

 慣れた相手と同じ調子で話すのは良くない。だからといって何を話せばいいことやら……。

 気まずさに押しつぶされそうになりながらも、とりあえず壁の落書きに洗剤を吹きつけていく。


「……ん?」


 慎がふと、手を止めた。


「……どうしました?」

「いや、これなんだけど……」


 落書きされた図形の真ん中あたりに、何かがくっついている。

 長さ一センチほどの、白く筋状の何か。遠目で見ていたときは気づかなかった。


「これ……テープか?」

「……みたい、ですね」


 それはガムテープか何かを剥がした跡のようだった。


「なんか貼ってあったのか?」

「……ちょっと調べてみます」


 言うが早いか、綾は壁の白い跡を指で触れる。


「……怒り、恨み……それに、焦り、恐怖、怒り……」

「こういうのもわかるのか?」

「……はい。貼ったり剥がしたり、そうして残ったものも痕跡ですから。ある程度は読み取れます」

「へー。……ってか、『怒り』って二回言った?」

「二回言いました。このテープ跡には二種類の怒りがあります」


 二種類の怒り? 慎の疑問に、綾は続けて説明する。


「種類の違う二つの怒り、つまり二人分の感情が込められています」

「ここに落書きして、何かを貼りつけた犯人は二人いるってことか?」

「いえ。確かに片方は貼りつけた犯人の感情だと思いますが……もう片方はおそらく、剥がした人のものです」


 綾は、壁に手を触れたまま目を閉じる。


「まず、『恨み』を根底とした深い怒り。これがテープ跡に込められた最も強い感情です。落書きと同じ種類の感情ですので、犯人が貼りつけたときのものと考えて良いと思います。……そしてもう一つ、『焦り』や『恐怖』がごちゃまぜになった衝動的な怒りが、かすかに読み取れます。おそらく、誰かが剥がしたときのものでしょう。それこそテープ跡が残るくらい慌てて」


 恨みを込めて何かを貼りつけた犯人と、それを恐れ慌てて剥がした『誰か』。


「……つまり、その『誰か』……言ってみりゃ被害者か。そいつにとって見られて困るような……弱み、みたいなものが貼りつけられていたって感じか」

「私もそう思います……」


 そうなると、星印の落書き自体に深い意味はなく、貼りつけられていた物が本命だったのかもしれない。


「……ちなみに、犯人や被害者が誰か、とか……貼られていた物の内容とかは、わかったりしない……よな?」

「……はい。その……すみません」


 綾は申し訳なさそうに頭を下げる。


「いや大丈夫大丈夫、言ってみただけだから! 気にすんなって!」


 謝罪がすごく重い。一応の確認だったけどやっぱり言わない方が良かった。

 物事を重く考えがちな綾の性格を、慎は徐々にわかってきた。しかし実際の会話に適用するには、まださじ加減が難しい。下手なことを言うと空気が落ち込む。


「水汲んできたよー……って、どうしたの?」


 そこで救世主灯様の登場。慎は胸をなでおろした。

 灯が水を汲んできたことで掃除の準備が整ったので、とりあえず調査は後回しにして壁を綺麗にすることにした。

 掃除の合間に、テープ跡の件を灯に話した。

 また、他にも手掛かりがないか確認したが、特に見つからずに掃除は終わった。

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