凍える大陸10

 継実達がヒョウアザラシを振りきってから、どれだけの時間が経っただろうか。

 空を見上げても吹雪を降らす雨雲が広がり、その雲の向こう側を能力で見通しても星空しか見えない今、正確な時刻を窺い知るのは難しい。しかし継実の感覚的には三十分ほど歩いていたつもりだ。

 ぎゅ、ぎゅっと、雪を踏み鳴らす音が歩く度に響く。とはいえ三十分前よりも強くなったブリザードの轟音により、足下の音など殆ど聞こえないが。そして獣の鳴き声や足音も同様に。勿論姿なんかは影も形もない。

 『情報』だけで判断すれば、継実達の周りに危険な生物はいないようだ。尤も、その間隔は継実に安心をもたらさない。


「(ぶっちゃけ、怪しい気配がある方がずっと安心出来るなぁ)」


 周りを警戒しながら、継実はぼんやりと思う。例えばホラー映画における怖い時というのは、決まって幽霊が出ていない時だ。登場人物が幽霊に襲われて殺されるシーンそのものを見ても「あーあ殺されちゃった」としか思わない。人間にとって恐怖を煽るのは、確信が持てない時の不安なのである。

 映画ではない、野生の世界現実でも似たようなものだ。流石に恐怖心は実際に襲われている時の方が(何分殺されそうになっているのだから)強いが、不安に関しては襲われていない時の方が遥かに強い。心が掻き乱され、パフォーマンスを維持するための平静が保てなくなってくる。南極の生物は隠れるのが上手という情報があれば尚更に。

 自分はちゃんと見えているのか。いいや、十中八九見落としているだろう。モモが臭いで気付いてくれるか。しかし相手が風上から来れば良いが、風下からやってきたなら? 体毛などを持たない、臭いの薄い動物が狙っている可能性も否定出来ない。上空や地中など、陸上生物である自分達の意識的死角に潜んでいる事だって考えられる。

 ……悪い事というのは、どれだけ考えても浮かんでくるものだ。これはもう人間の性というものだろう。いや、或いは知的生命体の性かも知れない。怯えた顔でキョロキョロと辺りを見渡すミドリを見るに。


「ふんふん。こっちねー」


 ずんずんと雪上を進むモモだけが、全く恐怖心がない様子だった。


「……モモは迷わないなぁ」


「ほんとですね……モモさんは怖くないのですか? あたし達の誰も危険な生き物に気付かないかも、いえ、気付いていないだけかも知れないのに」


「ん? 怖がっても意味ないじゃん。分かんないもんは分かんないんだから、気にしたってしょうがないでしょ」


 それに私は二人の事信じてるからねー。モモはあっけらかんとそう答え、継実とミドリに乾いた笑みを浮かばせた。モモとしてはそんな気は一切ないだろうが、中々のプレッシャーを掛けてくる。尤も継実達が何かを見逃し、その結果危険な目に遭ったとしても、モモは恨んだりしないだろう。『信じる』と決めたのは自分自身なのだから。

 出来ればその信頼に応えたいところ。継実は燻る不安を追い出すように息を吐いてから、少しミドリやモモから離れるように横へと動く。モモの後ろを付いていくばかりでは、視界の問題で敵の存在を見落とすかも知れないからだ。

 無論、そんなちょっと横に動いたぐらいで、見える世界が大きく変わるものでない。正直に言えば気分転換という方が正しいだろう。モモの背中という変わり映えしない景色に飽きただけ。

 そうして立ち位置を移動しようとした、その時である。


「ぎゃぶっ!?」


 突然、ミドリがこけた。

 声に対して反射的に振り向くと、ミドリは顔面から雪に突っ伏していた。しかも両手を前に突き出した、見事な転びっぷり。これほど美しい転倒フォームは滅多にお目に掛かれない。

 ……等とくだらない事を考えつつ、継実はミドリの傍に寄る。モモも足を止め、倒れているミドリを見下ろした。


「……どしたの?」


「ぶはっ! けほけほ……いや、なんか後ろからどつかれたような……継実さん、イタズラしました?」


「いんや? つーか普段なら兎も角、流石に今はそんな事しないって」


 じゃれ合いとして誰かにイタズラをする事は継実にもある。しかしそれは安全が確保されている時の話だ。今のように敵が何処から来るか分からない時にイタズラをしたら、僅かに陣形が崩れたタイミングで襲われるかも知れない。そんな危険を犯してまで悪ふざけをするほど、継実は空気の読めない人間ではないのだ。

 とはいえ、何を馬鹿な事をと否定するのは良くない。どんな不思議も起きないとは限らないのが今の世界。例えばある生物が仕掛けてきた攻撃がミドリの背中に直撃した、或いは何処かで繰り広げられている戦いの余波が飛んできた……そんな可能性もある。

 継実とモモは揃って辺りを警戒。果たして結果はどうかといえば――――これといって怪しいものはない。襲い掛かってくるものも、離れたところで繰り広げられている激戦も。


「……やっぱりなんか蹴躓いたんじゃない?」


 モモが言うように、何もなければそんな結論に落ち着くしかないだろう。


「えぇー……そりゃ確かに周りからは何も感じませんけど、でも」


「ほら、文句垂れる前に立ち上がる。何時までも寝てたら、そのうち本当に襲われるよ」


「へーい……うーん、確かに背中を押されたと思ったんですが……」


 表向き了承したようで、しかし言葉と顔から渋々といった様子で立ち上がるミドリ。

 その間も継実は周りの気配に注意していたが、これといった変化は感じ取れない。やはりミドリがなんか勘違いしてるんじゃないかと思いながら再び歩き出した

 直後、継実はごつんと


「ぬぉ? お、おぉっ!?」


 障害物は丁度足首を引っ掛けるように存在し、継実のバランスを崩す。警戒は弛めていなかったが、その警戒心が向いていたのは自分の周り。足下、正確には下半身全般の意識はかなり疎かだった。

 普段ならちょっと蹴躓いただけなら体勢を立て直すぐらい余裕だが……此度は色々な不運が重なった。傾いた身体を立て直すにはちょっと時間が足りない。深々と雪の積もった足場も状況の悪化に加担する。


「ばむっ!?」


 継実もミドリと同じく、顔面から雪に突っ伏した。

 一瞬の沈黙を挟んだ後、ミドリがげらげらと笑い出す。モモもギャハハと笑っている。

 あまりにも無遠慮な笑い方。起き上がった継実は、反抗的な眼差しで二人を睨む。とはいえ自分もミドリに対して呆れた眼差しを向けたのだから、笑われもするというもの。自分のした事をされて怒るのはあまりにも大人気ない。

 しかし人間のプライドはとても面倒臭いものだ。自分の行動に非があると分かった上で、なお怒りは込み上がる。無論家族にこんなしょうもない怒りをぶつけるほど、継実は感情的ではない。怒りはあくまでも原因にぶつけるべきだ。

 苛立ちの対象は家族から、自分を転ばせた物体に向くのは自然な事。雪の中に埋もれているであろう不埒者の正体を見ようと、継実は後ろを振り向く。


「……は?」


 次いで出てきた声がこの一言だ。

 人によっては怒りを示すように聞こえるだろう言葉。だが、今の継実は違う意味で吐き出した。

 


「継実? どうし――――」


「モモ。本当に何も感じない?」


「……ええ、何も。強いて言うなら私達が辿っている、人間の臭いしかしないわよ」


 尋ねてきたモモに継実は質問で返す。モモは瞬時に継実の言いたい事を察したようで、警戒心を一気に高めた。

 継実は転んだ際、何かに蹴躓いた。

 恐らく棒状のものであり、最初は骨の類かと思っていた。ところが継実が雪の中を透視した時、そこにはのである。

 転んだ際、何かに蹴躓いたのは間違いない。ミュータントの反応速度で瞬時に周辺を観測した結果だ。だが、その何かが見付からない。

 奇妙というよりもこれは異常事態。ならばミュータントの仕業ではないかと考えたのだ。ミドリの身に起きた『背中を押された』と合わせれば、ほぼ確実に。


「(……いや、ん? あれ?)」


 故に緊張感を高めていたのだが、ふと、首を傾げる。

 仮に、継実とミドリの転倒がミュータントの仕業だとしよう。方法は兎も角として、自分達は転んだ。その瞬間はとても隙だらけだったと言っていい。

 ところがどうしてか、未だに攻撃の一発すら喰らっていない。

 致命的な攻撃は勿論、掠り傷を負うような打撃もないのだ。どんな攻撃でも先手は先手。喰らわせればそれなりのアドバンテージとなる。むしろここで攻撃しなければ、今の継実のように存在に勘付かれて、折角のチャンスをふいにしてしまう。そして二度目はない。怪しい攻撃に、誰もが警戒心を強めてしまうからだ。

 どうして攻撃がなかったのか? 暴風と共にやってくる雪が頭に積もり、臨戦態勢を整えていた身体と脳を冷ましていく。

 そして冷静になった頭が示した答えが――――全て勘違いだという可能性。


「……うーん」


 正直釈然としない。ミュータントである継実の反応速度と観測能力が、確かに『何かに躓いた』と判断したのだから。

 しかしそういう可能性も、全くのゼロとは言い切れない。生物なのだから偶にはミスだってするものだ。ましてや現状、何かがあったという証拠を継実は見付けられていない。

 冷静に、合理的に考えれば考えるほど、自分の勘違い説が濃厚になる。なんだか自分が間抜けに思えてきて、継実は全身から力を抜いた

 次の瞬間、


「どぅふ!」


 どつかれた衝撃で継実は再度転倒。再び顔面が雪に埋もれ、踏み潰されたカエルのように四肢を広げた姿を白銀の大地に残す。

 あまりにも無様な姿であるが、今度はミドリもモモも笑わない。継実も、今更激しい怒りを込み上がらせはしない。代わりに心を満たすのは闘争心と確信。

 今の『一撃』で、近くに何かがいるのが明らかとなったのだから……

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