凍える大陸09

「いや、いやいやいやいや!? 遠回りしましょうよ普通に!」


 ミドリが首をぶんぶんと左右に振って、継実の意見――――風上に向かって進むのを拒否した。

 ちょっと拒否感がある、なんてものではない。断固拒否と言わんばかりだ。表情も強張り、今の気持ちの不動ぶりを物語るかのよう。

 彼女がそう言う気持ちは継実にも分からなくもない。言い出しっぺである継実自身、自分が割と無茶を言っている自覚はあるのだ。

 人間の臭いを辿るため、へと直進するなんて、普通に考えれば自殺行為以外の何物でもないのだから。


「まぁ、出来る事なら進むにしても遠回りしたいよね」


「同意するなら言わないでくださいよ!? 安全に迂回しましょうよ!」


 ミドリの意見に同意すれば、ミドリからは至極尤もな反論が。

 無論、継実だって考えなしにそんな論外な提案をしている訳ではない。普段なら間違いなく迂回しながら進む事を選ぶ。ただ今回は迂回する事が、後々問題になるから出来ないのだ。


「まだ人間の気配を捉えてないから無理よ。臭いってのは直線で辿るから意味があるのであって、迂回なんてしたら何も分からないわ」


 もしも目標こと人間の気配を察知しているなら、危険を避けるように迂回する事は可能だ。相手の居場所をリアルタイムで把握しているため、遠回りのルートをちゃんと頭の中で描けるのだから。

 しかし今の継実達は、人間の存在を臭いでしか把握していない。

 臭いというのは漂うものだ。だからこそ目に見える範囲外、障害物の裏側に隠れていようと対象を捕捉出来る。しかし漂うがために、それは目標の居場所を正確に示すものではない。おまけに空気の流れに乗って飛んでくるものだから、臭いの濃淡が示す『方角』は決して直線的ではないのだ。なんらかの障害物を大きく迂回してるかも知れないし、風向きが変化してぐねぐねと蛇行しているかも知れない。

 臭いが濃い方へと素直に辿れば、やがて目標の場所に辿り着ける。だが臭いが流れてくる方角から相手の場所を推測したところで、殆ど当たるまい。運が良ければ目的地に辿り着けるかも知れないが……運が悪ければトンデモなく危険な場所に出てしまう。そして世界の広さを思えば、間違いなく後者の可能性の方が高い。


「そんな訳で危機回避を最優先に考えるなら、迂回なんてせずに端から今回の痕跡を捨てる方がマシだね。どうせ辿り着けないんだから」


 継実の説明にミドリは反論をしなかった。しかし噤んでいる口がもにょもにょと動いていたので、納得はしていないようだが。具体的には「じゃあ今回は諦めましょうよ」とでも言いたいのだろう。

 実際、ここで危険を犯す必要があるのか? とは思わなくもない。ヒョウアザラシにすら勝てない継実達が、ヒョウアザラシの恐れる敵に勝てる訳がないのだ。今回は諦めて、次のチャンスを待つのが得策かも知れない。

 ――――ヒョウアザラシに襲われる前までの継実なら、きっとそう考えただろう。

 だが、ヒョウアザラシの存在が考えを改めさせた。そしてヒョウアザラシの恐れた存在が、考えを確信に至らせる。


「あと、どうにも南極の動物は気配を探るのが難しいみたい。さっきのヒョウアザラシも、モモが臭いで察知しなければ、多分接近に気付けなかっただろうし」


 これまで継実達が出会った生物にも、ギリギリまで気配を感じさせない存在はいくらでもいた。だが気配はなくとも視線を感じさせるなど、完全な奇襲攻撃に成功したものはあまりいない。精々襲われている事すら隠し通した、あのハマダラカだけだ。

 ところがヒョウアザラシは見事気配を消し、襲われるその時まで気配を感じさせなかった。風上から現れたお陰で奇襲は回避出来たが、モモがいなければ間違いなくやられていただろう。

 恐らく南極の生物は、気配を消すのが得意なのだ。理由もなんとなく想像が付く。南極は過酷な大地故に植物が殆ど生息しておらず、その他小動物などもかなり少ない。大型動物は少なくないが、それらが餌にしているのは地上と違って栄養満点な水が満ちている海の生き物だ。純粋な地上性生物は殆どいない。七年前の時点では、冗談抜きに体長二〜六ミリのナンキョクユスリカが最大の『陸上動物』だったぐらいである。

 周りにたくさんの生き物がいれば、自分の気配を紛れ込ませるなどして誤魔化す事も出来るだろう。しかし生き物が少ない南極ではそんな真似など出来ない。木々や草花が生えていないので身を潜める事も出来ないし、巨大な岩も大して転がっていないので隠れられない。雪が積もっているので潜れば姿を隠せるが、砂漠の砂ほどの厚みはなく、隠れられるのは小さな生き物だけだ。

 物理的に姿を隠すのは困難。そうなると自力で気配を隠せる個体が、捕食者にしても被食者にしても生き残るのに有利だ。この地に暮らす人間の気配が中々見付けられないのも、そうした生物の毛皮等を着ていると考えれば納得がいく。


「つまり、南極の生き物はこちらに気付かれないよう接近するのが得意。私らがそれに気付くのは難しくて、奇襲を受ける可能性が高い」


「さっきは臭いで気付けたから良かったけど、格上に先手取られたら割と普通に死ねるわねー」


「こっちが気配を消すってやり方もあるかもだけど、気配を消すもの同士で競争してるなら、捕食者は気配察知能力も進化させてる筈。私ら程度じゃ多分無理ね。だから迂回しようがどうしようが、安全なルートなんて多分ない。最短コースで人間のところに辿り着くのが、一番確実で安全って事」


 継実が説明し、モモも同意しながら話す。家族二人の言葉にミドリはますます顔を歪めたが、やはり言葉は出てこなかった。

 ……しばらくしてミドリはため息を吐く。頭を左右に振ると、達観したような顔付きに変わっていた。


「……分かりました。あたしがさっきの動物の接近に気付けなかったのは事実ですし、それしかないって事は理解しましたよ」


「うん。理解してくれて助かる。あ、一応人間との合流は諦めて南極から脱出する、こんなところにいられるかオレは帰るぞプランもあるけどどう?」


「死亡フラグの塊をさもプランBみたいに言わないでください。というか後戻りなんて出来ないじゃないですか、ミツバチさんのロボット最初に逃してる時点で」


 ミドリからのツッコミに、今度は継実が言い返せない。ミドリが言うように現状後戻りは出来ないのだ。戻る気がなかったがために。

 そしてミドリはそれ以上の文句を言わない。

 後には戻れない。迂回路も見付からない。ならば足踏みしていても仕方なく、前に進むのが一番良い。ミドリも厳しい自然界で暮らしてきた事で、それは理解するぐらいには彼女も合理的になったのだ。


「さて、ミドリにも納得してもらったし、そろそろ行こうか。臭いが消える前に」


「そうね。くんくん、くんくん」


 継実の指示を受け、モモは臭いを嗅ぎながら歩き出す。継実とミドリはその後を追う形で、南極大陸の奥深くへと進み始める。

 が、歩いて数秒も経たないうちに継実は足を止めた。

 それから自分の『右側』に、ふと顔を向ける。


「……継実さん?」


「ん? ああ、なんでもない」


 その行動を怪訝に思ったであろう、傍を歩いていたミドリに声を掛けられ、継実は反射的にそう答えた。ミドリは納得してないのか首を傾げたものの、追求するほどでもないと思ったのか、それ以上は訊いてこない。

 訊かれたところで継実としても困るだけだが。

 自分でも何故立ち止まったのか分からない。微かな違和感があるような気がしたのだが……視線の先に広がるのは平坦な白銀の大地ばかり。能力を使って観測してみても、周囲に音がないか確かめても、なんの異常も捉えられなかった。大気分子も特に異変はなく、モモも必死に臭いを嗅いでいる中で無反応なので異変は感じていないらしい。

 しかし油断は禁物だ。南極の生物は気配を消すのが上手いと思われる。もしかするとハマダラカのように、実際に襲われても気付けないような存在が、既に継実の身体に『攻撃』を仕掛けている最中かも知れない――――

 そう考えて警戒心を強める継実だったが、すぐに首を横に振った。そこまで心配する必要はないと、考えを改めたからだ。

 南極大陸の生物は気配を消すのが上手いと推察した手前こういうのも難だが、気配を消すというのは中々難しい行いだ。特にミュータントなど、本気になれば星をも砕きかねない化け物揃い。自分の力を九割九分以上抑えたところで、七年前の生物なら発狂するようなプレッシャーを与えただろう。

 ミュータントの力の気配を消すというのは、核爆発の存在を世界に隠蔽するようなものだ。音や放射線が漏れないように遮蔽物を建てたり、振動を抑える素材を使ったり、世界中の観測機器にハッキングしたり……兎にも角にも『エネルギー』を使う。つまりミュータントが自分の気配を小さくするためには、使必要がある。

 以前出会ったハマダラカはミドリに接触した後でも誰も気付かなかったが、あれは恐らく能力にほぼ全ての力を費やした特化型だ。故に戦う力は極めて脆弱であった。気配を消すのに全身全霊を費やしているので、筋力やらビームやらを撃つ余裕がないのである。それだけの苦労をしても、直に触れられたらバレてしまう。気配を消し続けるというのは、それぐらい難しい事なのである。

 南極の大地にもハマダラカと似たような生き物がいたとして、気配を消すのに多くのエネルギーが必要なのは間違いない。気配を消すのに力を費やせば戦う力は弱くなり、気配を消すのが『下手くそ』な継実達の方が戦いの力は上となる。

 存在に気付いていない危険な生物がいるとすれば遠くであり、近くにいるとすれば割と安全な存在なのだ。油断して良い訳ではないが、無闇矢鱈に恐れるのは、過度の緊張感で精神を摩耗する行いに等しい。


「(緊張するのは良いけど、緊張し過ぎも良くないからね。違和感があったように感じたのも、ちょっと気張り過ぎた所為かな)」


 継実は全てのミュータントを知っている訳ではない。だから『もしも』を考え出したら切りがない。故に継実は気持ちを切り替えて再び歩き出し、何時も通りに警戒しようとする。それが一番合理的だからだ。

 ――――そう、継実は思っていた。思い込んでいた、思おうとしていた。自分の考えた理屈が正しいと理性が無意識に。本能の警告を抑え付けて。

 自分のすぐ傍に広がる暗闇の中に潜んでいた瞳と、自分の目が一時ぴったりと合っていたにも拘らず……

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