凍える大陸08
『そいつ』が姿を現すまで、気配は何も感じなかった。少なくとも継実には、そして何も言わなかったミドリも恐らく同じく。
しかし不思議はない。自分達は世界の全てを知っている訳でも、世界の全てを見通せる訳でもないのだ。索敵を潜り抜けるミュータントがいてもおかしくない……かつてインドネシア諸島で出会ったハマダラカのように。
だから目の前の暗闇から飛んできた『獣』に対し、継実はなんの驚きも覚えない。モモも同じく。
「ふぬぁッ!」
「だありゃァ!」
継実は拳を、モモは蹴りを、獣に対して打ち込む!
二人の攻撃は獣の顔面に直撃する。大地に放てば都市を瓦解させる地震さえも引き起こせる打撃……しかしミュータントからすればあり触れた威力だ。体重相応の一撃でしかない。
暗闇から突撃してきた、体長三メートルもの巨大な獣からすれば、二人のコンビネーションアタックも小賢しい程度にしか感じていないだろう。
「(いるとは思っていたけど、こうして奇襲されるとはね!)」
現れた生命体を継実は凝視。即座にその正体を理解する。
細やかな灰と黒の二色の毛に覆われた身体には、指のある手足ではなくヒレが生えている。特に後ろ足は魚のヒレと瓜二つの構造になっていた。体格はややほっそりしているが、それは軟弱さよりも猫のように獰猛なしなやかさを感じさせる。
頭部は身体と比べてやや大きいものの、ほっそりとしている。顔立ちもちょっと犬のようで可愛らしいぐらいだ。だが顎も犬のように大きく開き、その中には無数の歯が並んでいる。硬いものを食べるための、平たくて立派な歯ではない。獲物の肉に突き立て、切り裂き、皆殺しにするための鋭い牙だ。
かの存在は七年前における南極の頂点捕食者。南極大陸の陸上で敵なしの肉食獣にして、アザラシの仲間では唯一恒温動物を普通に食べる種類。カニクイアザラシの幼体やペンギンを食べるだけでなく、人間を海中に引きずり込んで殺した事もある猛獣――――
その名はヒョウアザラシだ!
「キャオオオォンッ!」
継実達に襲い掛かったヒョウアザラシは、継実とモモの拳を受けても平然としている。それを証明するかのように、大きな口を開けるや、殴り付けた継実の拳を押し退けて迫ってきた!
継実は即座に後退。しかしそれでもヒョウアザラシの方が速く、腕を噛まれそうになる。
そこで軽めの粒子ビームを手から発射。反動で身体の動きを加速し、迫りくるよりも速く離れた。粒子ビームは一応ヒョウアザラシの口内に命中したが……痛がるどころかダメージを受けた様子もない。ばくんっと粒子ビームを飲み込むように顎を閉じた後、悔しげにヒョウアザラシは継実を睨む。
モモは継実が逃げている間に同じく後退し、継実のすぐ横に陣取る。ミドリは最初から離れていたのでこそこそと継実の背後へと周り、彼女なりに身構えたポーズを取った。
そして継実は、こちらを睨むヒョウアザラシと向き合う。相手の実力からこの後の戦局を予測するために。
「(うーん、これは厳しいな)」
即興での計算結果は、極めて芳しくないものだった。
ヒョウアザラシの体長は約三メートル。この大きさはミュータント化以前の個体と同等のものであり、ならば体重も恐らく七年前と同等……三百五十キロ程度だろう。
体重差でいえば継実のざっと七倍。ミドリとモモの分を合わせても、三倍はあるだろうか。つまり向こうの戦闘能力は、こちらのざっと三倍だ。
数で有利を取っているし、能力のバリエーションも豊富なので戦術面でも有利は取れている筈だが……この極寒の大陸により適応しているのは向こうだ。服を作って寒さは凌げるようになったが、雪の存在や極夜などの環境はどうにもならない。様々な要因を考慮すれば継実達の方が不利であり、恐らく勝ち目は薄いだろう。加えて勝てたところでなんのメリットがあるのか? 既に継実達三人の腹はいっぱいで、温かな毛皮まで手に入っている。コイツと戦っても亡骸は捨て置くしかなく、命の危険があるだけだ。
つまり。
「逃げるッ!」
最善の方針を即座に決めて、継実は大地を殴り付ける!
衝撃で舞い上がる雪を煙幕代わりに展開。目を眩ませて逃げようとした。
「ギャウッ!」
だがヒョウアザラシにとって、舞い上がる雪というのはあり触れた抵抗なのだろう。煙幕代わりの雪が行く手を遮っているにも拘らず、ヒョウアザラシは構わず突撃してきた!
「ぬぉ……!?」
咄嗟に腕を前に出し、顔面を削ぎ落とさんとしてきたヒョウアザラシの顎を掴んだ継実。向こうの顎の力の方が遥かに強く、閉じる動きは止められない。が、力を加えた分だけ遅くはなる。
それは僅かな変化であったが、継実が顔を仰け反らせて噛み付きを回避するには十分。どうにか顔の皮を削がれる事態は避けた。
「ギャグオオッ!」
しかしヒョウアザラシは未だ攻撃を止めない。未だ雪の煙幕があり、後退した継実との間にも濃い霧状の雪が漂っているにも拘らず、ヒョウアザラシは正確に継実の顔を狙ってまたしても噛み付きを行おうとする。
これには継実も驚く。普通、煙幕を張れば多くの肉食獣は攻撃を躊躇う。煙幕内に潜んでいる獲物が、カウンターを仕掛けるため構えている可能性もあるからだ。煙幕を恐れず突撃するなんて行いは、相手の得意な範囲に飛び込む自殺行為に他ならない。ましてや一度攻撃を防がれたなら、後退して体勢を立て直した方が後々得策であろう。
なのにヒョウアザラシは何の迷いもなく突撃し、舞い上がる雪で視界が塞がっている中襲ってきた。再攻撃にも躊躇いがない。だとするとコイツは底抜けの間抜けなのか? 恐らく違う。南極が如何に他の地域と比べて生物数が少ない = 生存競争が厳しくないとしても、そんな間抜けは七年で淘汰されている筈だ。狩りが失敗するだけなら兎も角、反撃を喰らう性質は高頻度で命に関わるがために。
恐らく、ヒョウアザラシには雪の中が見えている。それが能力によるものか、聴覚や経験などを応用した結果かは分からないが。
「この辺か!」
継実の予想を裏付けるように、モモが繰り出した踵落とし……彼女も煙幕内は見通せないが、ミドリの索敵と脳内通信で座標は伝わっているため極めて正確な攻撃だ……をヒョウアザラシは悠々と躱す。更に地面へと着地した衝撃で一瞬動きの止まったモモに対し、尾ヒレ(正確には変化した脚部)の一撃を放つ!
全身をバネのように使ったであろう打撃の威力は凄まじく、モモの身体のみならず煙幕代わりに撒き散らした雪も吹き飛ばす。物理攻撃に強いモモであるが、吹き飛ばされる間際顔を歪め、受けた打撃の強さを物語る。
飛ばされたモモを追撃しようとしてか、ヒョウアザラシの身体に力がこもる。だがそうはさせない。自分の方から意識が逸れた瞬間を狙い、継実はヒョウアザラシのこめかみに向けて蹴りを放つ!
頭への一撃を受け、僅かにヒョウアザラシの顔が歪む。が、即座に振り向き、蹴り付けた脚に噛み付いた!
メキメキと骨の軋む音が継実の全身に響く。継実が抱いた感覚的に、ヒョウアザラシが骨を砕いてを脛の真ん中から切断するのは難しくない。このままでは足を切り落とされてしまう。足を切られても回復自体は簡単だが、一時的な戦闘能力の低下は避けられない。
「こなクソッ!」
そんなのはごめんだ。継実は強引に足を動かし、敢えて切り裂くようにして噛み付きから脱出。ぐちゃぐちゃの足でヒョウアザラシの鼻っ柱を蹴り、ついでに血飛沫で目潰しをお見舞いする。
雪の煙を見通せる目でも、血飛沫というダイレクトな攻撃は見通せないらしい。目に血が入った途端ヒョウアザラシは顔を背け、継実から視線を外す。
攻撃の手が弛んだ今こそがチャンス。
「全速力で撤退!」
「ガッテン!」
継実の掛け声に合わせ、モモは後退を開始。継実もミドリを抱えて即座に走り出す。
目潰しの効果はすぐに消え、ヒョウアザラシは継実達を追い始めた。大きな口を開け、牙と涎を撒き散らしながら。
継実は背後の気配を察知しながら、ヒョウアザラシの速度を測る。
「(速い……私どころかモモ以上か)」
どうやらヒョウアザラシは、吹雪の中を泳ぐように進めるらしい。吹き荒れる雪がまるで水流のように動き、ヒョウアザラシの身体に推進力を生み出す。雪に潜る事で風も避けており、移動時に生じる抵抗は僅かだ。
対して継実達はどうか? 今逃げている進路は風上に向けてであり、逆風が吹き付けている。ミュータントにとっては逆らう事など造作もないが、それでも『逆向き』の力を受ければ僅かに減速する。そして何より、継実達の足は雪に埋もれていた。強引に蹴り上げて進む事は出来るが、ハッキリ言って動き辛い。
能力により優れた推進力を持つヒョウアザラシと、様々な要因が前に進むのを阻んでくる継実達。しかもヒョウアザラシの方が個体のパワーは上だ。どちらが速いかは、言うまでもないだろう。
「(諦めてくれるまで逃げるべきか。或いは何処かで反撃すべきか)」
逃げるための算段を考えつつ、ヒョウアザラシとの距離感を測った。ヒョウアザラシはどんどん継実との距離を詰めてきて……
不意に、ヒョウアザラシがその動きを止める。
大きな攻撃の準備か? 継実とモモも同じく足を止め、素早く身体の向きを反転。ヒョウアザラシの攻撃に備えようとした。
したが……立ち止まって数秒。ヒョウアザラシからの攻撃は何時まで経っても始まらず。
それどころかヒョウアザラシの視線は、継実達から逸れているではないか。
「……………」
無言でヒョウアザラシは何処か……風上の方を見ている。継実達の事など最早頭にもないのではないかと思うほど、その一点だけを凝視していた。
あまり油断も出来ないが、ヒョウアザラシが何を気にしているかも知りたい。継実もヒョウアザラシが見ている方に意識を向け、能力により索敵を試みた……が、継実にはこれといって感じるものはない。姿形は勿論、熱や電磁波などのエネルギーもだ。
能力や感覚の違いで、継実には捉えられない存在がいるのだろうか。だとすれば、それは一体――――
「ギュゥ……!」
考え込んでいる間に、ヒョウアザラシは小さな鳴き声を上げてその身を翻す。
悔しさに滲んでいるでも、怒りを滾らせている訳でもない。これは 気持ちを切り替えるための鳴き声だ。
つまり今抱いている心情、即ち狩りの気持ちを捨てるための行い。
ヒョウアザラシはもう、継実達を仕留めるつもりはないのだろう。吹き荒れるブリザードと宵闇の中へと消えていった姿は、ひとまず当分は戻ってこない筈だ。
「えと……さっきの動物、なんで逃げたんですか?」
「さぁ? ミドリはあっちの方でなんか気配とか感じる?」
「……うーん。これといって何も……」
モモとミドリは互いに首を傾げ、不思議がっている。継実達の誰一人として、ヒョウアザラシが一体何を恐れていたのかが分からない。
本来ならば、ヒョウアザラシが見ていた方角は避けるべきだろう。自分達より遥かに強いヒョウアザラシが逃げ出すような何かが、そこにいる可能性が高いのだから。
そう、出来る事ならその道は避けたいのだが……
「……ところでモモ。人間の臭い、どっちに向かってる?」
「訊かなくても分かるでしょ。なんで私が風上に向かって逃げたと思ってんのよ」
「だよねぇー」
風上に向かって逃げるのは得策ではない。
余裕で逃げられるなら兎も角、格上の捕食者相手から逃げる時に風向きへと向かうのは不適切な行動だ。そしてモモは相手の実力を見切れない間抜けではないし、咄嗟の判断力に劣る訳でもない。
理由があってモモは風上に向かったのだ。そしてその理由こそが、人間の臭い。
アザラシの亡骸にあった人間の臭いは、風上の方に向かっていたのだろう。臭いがない方へと逃げていては、逃げ回っているうちに人間の臭いが消えてしまうかも知れない。だからモモは多少困難でも、臭いを辿るように逃げたのである。
つまり。
「私らが人間に会うためには、この怪しい方角に行かなきゃいけない訳だ、と」
くるりと、継実は風上に目を向ける。
何時もと変わらない暗闇と吹雪は広がれども、確かにある筈の『気配』が未だ感じられない方へと――――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます