凍える大陸06
『それ』を目にした瞬間、継実は家族二人を置いて駆け出していた。
『それ』までの距離は凡そ五十メートル。そこそこ離れている上にブリザードの中であるため、肉眼による確認は出来ない。しかし粒子操作能力を応用すれば、その姿形を立体的に認識する事は可能だ。
ましてや生きていない、解体された肉塊となれば尚更簡単である。
「これは……!」
手を伸ばせば触れられる場所まで来たところで、継実はその肉塊の傍にしゃがみ込む。能力ではなく己の目で存在を確認し、手で触れて詳細を探る。
肉塊と呼んだが、正確には皮と肉と言うべきだろう。剥いで捨てたと思われる肉塊は、広げられた皮の傍に置かれていた。皮は綺麗な一張羅のように切れ目なく剥ぎ取られ、雪の上に(毛がある方を背中と言うなら)仰向けの体勢で置かれていた。毛皮の大きさは二メートル。眉間らしき部分に穴が空いていて、恐らくこれが致命傷だったと思われる。
毛皮が綺麗なお陰で、解体されていながら元の生物がなんであるかは容易に判別出来た。ほぼ確実にアザラシであろう。また皮を覆う毛が灰色である事から、種類はカニクイアザラシだと思われる。
カニクイアザラシは名前に反してカニは食べず、主にオキアミなどの小さな生き物を食べている動物だ。個体数は七年前の時点で約二千五百万頭とアザラシ類で最大を誇り、圧倒的な繁栄を誇っていた。ミュータント化しても、恐らく南極でも有数の成功者として君臨しているだろう。それ故に獲物として魅力的な生き物でもある筈。またオキアミ食いからも分かる通り、彼等の身体は大型動物を殺傷するのに向いていない。狩りの標的として最適だ。
無論、ここまでは誰にとっても同じ話。例えば同じく南極に生息するヒョウアザラシという獰猛なアザラシが、名前通りヒョウが如くカニクイアザラシを積極的に襲っているかも知れない。はたまた北極からシロクマが海を渡ってやってきて、カニクイアザラシを獲物として利用している事もあり得るだろう。ミュータント化により過去の常識は通じない。
だが、一つだけ今でも通じる常識があるとすれば。
……鋭利な刃物を使って肉を切り分ける生き物は、きっと人間だけだ。
「(皮に残ってる傷。これは、刃物を使って削ぎ落としたように見えるな……)」
例えば獣が歯で肉を削ぎ落としたなら、乱暴な食べ方で断面はぐちゃぐちゃになるだろう。それに食べ方も好き勝手に噛む筈なので、傷跡は不規則な紋様を描くと思われる。大体毛皮を大事にするという概念がないので、ズタボロに引き裂かれもするだろう。
対して此処にある皮に残された傷は、極めて規則的かつ正確な間隔で刻まれたものだ。職人技を思わせる機械的正確さを見れば、刃物で淡々と肉を削ぎ落とす行程が容易に想像出来る。毛皮が綺麗なのは、その方が結果的に作業が楽なのと、肉が雪などで汚れないようにするためか。
そうだ、これは刃物による傷であるし、技術的な解体が行われた証だ。だからきっと人間の手により解体された死体に決まってる――――
「(いや、落ち着け。決め付けるな……ペンギンの侵食光子ブレードを用いれば、刃物で切ったような傷は付けられる。刃物で切ったような肉だからって、人間の仕業とは限らない)」
ミュータントであれば、刃物染みた攻撃など容易い。自分だって手から粒子ビームを出せば『生身』で肉を角切りに出来るのだ。傷跡が刃物に似てるからといって、それが人間のものとは断言出来ない。
しかし皮に残された傷跡は極めて綺麗で、獣の乱暴な食事の後とは思えない。いや、もしかすると昆虫型ミュータントの仕業か? 極寒の南極で昆虫なんて、等と理性が否定したが、人間である自分達が裸でブリザードの中を練り歩きながらそんな否定をするなど馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そもそも南極にはナンキョクユスリカと呼ばれる昆虫が生息しており、仮に他の大陸からの流入がなくとも、昆虫ミュータントがこの地に跋扈していてもおかしくない。
昆虫は本能で生きる生物であり、だからこそその行動は極めて正確だ。ミツバチが正六角形の巣を作り、アゲハチョウが十三時間三十分未満の日照時間で越冬蛹になるように、ある種機械的な精密さがある。獲物の解体も、昆虫ならば機械的に行えるか?
「(だから決め付けるな! 毛皮だけで判断しないで、残っている肉塊も見ないと……)」
考えるにしても、情報の見落としがあっては正確な答えにはならない。全てをひっくり返す証拠Xがあるかも知れないのだ――――結論を急ごうとする自分の思考を戒めながら、継実は次に置き捨てられた肉塊を分析しようとした。
「うま! うまうま!」
「美味しいですぅ〜。獣臭さが半端ないですけどーもぐもぐ」
ちなみにその肉塊は、モモとミドリが食べている。遠慮なく、獣染みた雑さで。
……まずは深呼吸。人間の目というのは極めていい加減だ。気持ち一つで網膜に映っていないものを誤認する。
「この獣臭さが良いんじゃない。あ、これ肝臓かしらもぐもぐ」
「あ! あたしにも分けてくださいよ! もぐもぐもぐもぐ」
「一人で脳みそ食べてる奴が何言ってんのよ。せめて私に半分寄越してから言いなさいもぐもぐもぐもぐ」
かくして継実が冷静さを取り戻そうとしている間も、二人は容赦なく証拠品を食べていく。
落ち着かせた感情が瞬間的に沸き立つのを、継実は止められなかったし、止める気も起きなかった。
「二人とも何食べてんのォ!? それ人間が此処にいたかも知れない証拠なんですけどぉ!?」
「え? そうなの? 何時までも皮なんか見てるから変だなーとは思っていたけどもぐもぐぱくり」
「はー、そうでしたか。お腹空いていたのでついもぐもぐ」
「理解したならもぐもぐすんな! あとモモは新しく口に入れんな! 証拠だっつってんでしょーが!」
「えぇー……これぐらい良いじゃん別に。此処に人間の臭いがあるんだし、それで十分じゃない?」
継実の必死の説明も虚しく、モモとミドリは食事を止める気配すらない。基本家族にはべらぼうに甘い継実であるが、ここまで好き勝手されては流石に看過出来ない。きっちりお説教しなければと心の鬼を目覚めさせる。
が、唐突に怒りの感情はぷすんと抜けてしまった。耳に入った言葉が、遅れて脳へと届いたがために。
モモは今、なんと言ったか? さらっととんでもない事を口走っていなかったか?
此処に、人間の臭いがあると言ったのか?
「に、人間の臭いが、あったの?」
「うん。人間って酸っぱい系の汗の臭いがするから、割と分かりやすいのよねぇ。あと古びた感じの獣臭さもあったけど、これは多分着ていた毛皮の臭いじゃないかしら」
「い、何時気付いたの……?」
「ん? この死骸を見付けた時? ちゃんと言ったわよ……あ、でもそん時にはもう継実ってば皮に夢中で、こっちの話全然聞いてなかったわねもぐもぐ」
話しながらどんどん『証拠品』を食べていくモモ(とミドリ)。しかしもう、継実にとってその肉の塊に大した価値はない。
継実は無意識に辺りの臭いを嗅ぐ。嗅いだところで何も分からない。モモのように優れた嗅覚はないし、能力で臭い分子を捉えたところで意味が理解出来ないのだから。
だからそれがある事を示すのはモモの言葉だけ。
けれども彼女の言葉だけで十分。モモが嘘を言う訳ないし、モモの嗅覚の正確さは疑うまでもない。
継実は両手を上げて、何時の間にか顰めていた顔に満面の笑みを浮かべた。
「や……やったああぁぁ! ついに人間の痕跡を見付けたぞぉー!」
「いや、それもう三分ぐらい前に私が言ったんだけど」
「あはは。継実さんってば本当に何も聞いてなかったんですねー」
呆れたような生暖かいような、なんとも言い難い眼差しを向けてくるモモとミドリだが、継実はそんなものは気に留めない。止め処なく溢れ出す喜びが、全ての侮蔑を弾き返す心の鎧となる。
ついに自分達は、本当に人間のいる場所に辿り着いたのだ。
「(ああ、我ながら単純だなぁ。ちょっと前に、人間不信染みた事考えていたのに)」
家族に酷い事をするなら殺してやると、簡単に決めて決意は、同じく簡単に吹き飛んだ。今や脳みそはすっかり前向きな性善説モード。未知の人格への恐れなど欠片も残っていない。
加えて、身体というのはとても素直なものである。悩む必要なんてなかったのだと分かった途端、今の肉体にとっての最優先事項を思い出す。
つまるところ空腹。
ぎゅるぎゅると派手に腹が鳴り出して、『人間』の気持ちに浸っていた継実はほんのり頬を赤らめた。
「……えへへへ。お腹空いちゃった」
「そう。まだまだたくさんあるわよー」
空腹を伝えれば、モモはぺちぺちと肉塊を叩いて音を鳴らす。若干誇らしげなその仕草に「アンタが捕まえた訳じゃないでしょ」とツッコミを入れたくなるが、今は上機嫌なので優しく流す。
積み上げられた肉塊……恐らくは『ゴミ』であろうものを、継実葉躊躇いなく口に入れた。アザラシ肉の獣臭さと脂肪分が口いっぱいに広がり、海獣らしい味に頬が緩む。噛めば噛むほど味が出てきて、とても肉々しい味わいだ。今まで食べてきたものの中ではかなり美味しい部類の肉である。比較対象はイモムシとか蛆の湧いた死肉とかだが。
人間の手掛かりを得た安心感もあって、食欲がもりもりと湧き出す。継実は残された骨も内蔵も手当たり次第に口に入れ、飲み込んでいった。肉塊こと捨てられた骨や内臓を調べればどんな肉を食べた(或いは持ち去った)かが分かるとは思うが、人間が居たと分かった今では些末な情報。調べるのも面倒だとばかりにどんどん食べていき……
五分もすれば、積み上げられたゴミ肉はすっかり綺麗になった。未だ降り続ける雪により血は埋もれ、真っ白になった台地に継実葉横たわる。
「あー……食べた食べた。二日分ぐらい食べたー」
「食べたわねぇ。残り物なのにたっぷりあってたし」
「うぇぷぅー……」
継実が満足感に浸る中、モモもずどんと横たわる。見た目にはなんの変化もないモモであるが、本体であるパピヨンのお腹はきっとぽっこり膨らんでいる事だろう。ミドリはほっぺたに肉を貯めているのか、両頬がぷっくり膨らんでいた。実に
食欲が満たされ、十分に栄養が行き渡った脳で継実は思案する。
モモは残り物がたっぷりあった、と言っているが、実際には少し異なる。カニクイアザラシの体重は二百〜三百キロ。仮に継実達がお腹いっぱいになる量が五十キロの肉や骨だとしたら、全体の六〜七割が消えている状態だ。普通の人間一人で食べ切れる量ではなく、大半は持ち帰ったものと思われる。百五十〜二百キロもの肉を持ち運ぶのは、ただの人間には中々大変そうだが……猫車の類があればなんとか出来るだろう。そもそも一人で持ち運ぶ必要もない。何人かで分割すれば簡単に運んでいける。
とはいえそれだけ大量の肉を運べば、少なからず肉から血ぐらい滴る筈だ。そしてその血の跡からは少なからず臭いが漂っている。
モモの嗅覚ならば後を追える筈だ。しかし臭いは時間と共に薄くなるものだから、動くなら早ければ早いほど良い。
……あまり満腹感の幸せに浸っている場合でもなさそうだ。
「ん。ごろ寝したいけど、そろそろ先に進もうか」
「えー? 食休みしたーい」
「人間が立ち去った後の臭いがあるでしょ。それを辿ってほしいから、のんびりしてらんないの」
事情を説明しても、モモは動く気配なし。満腹時に動きたくない気持ちは分かるが、動かないといけないのだ。なんとか家族を起こそうと揺するが、モモはまーったく立とうともしない。
これを無理やり動かすのは、一人では厳しそうだ。
「あたしも、すぐに此処から離れるのは反対ですっ」
なのでミドリの援護が欲しかったのだが、彼女もすぐの出立に反対の立場だった。
期待が外れてがっかり。しかしそれと共に継実は疑問も抱く。
何故、ミドリは早く人間に会おうとしないのだろうか? 確かに継実は七年間積もりに積もった想いがあるので、モモだけでなくミドリよりも人間に会いたい気持ちは強いだろう。しかしミドリも元は高度な文明の住人であり、『文化』的な生活には焦がれる想いがある筈だ。
すぐに動かない理由が思い当たらない。キョトンとしながら見ていると、ミドリは自慢げに胸を張る。
「何故ならあたし達は服を着てないからです!」
そして堂々と、そう指摘した。
……指摘されて、ようやく継実は思い出す。そういえば自分とミドリは服を着てないな、と。
欲情を促すから服ぐらい着ないと、と考えていたのにすっかり忘れている。積極的にではないが、二回目の殺人に手を染める事まで決意したのに。
思っていたよりも服への執着がない、つまり文化人ではなく野生動物に回帰していると自覚させられ、継実はへらっとした笑みを浮かべてしまう。これは悪気などなく、むしろ気恥ずかしさを感じての表情なのだが、ふざけているようにでも見えたのか。ミドリはぷくっと頬を膨らませた。
「もう! 何笑ってるんですか! 服ですよ服! 可憐な一張羅を作りませんと!」
「え。あー……いや、可憐な一張羅とか無理でしょ。大体材料とか何処に」
あんのさ。そう言おうと思ったが、はたと思い出す。
あるのだ。服の材料は、すぐそこに。
肉を剥いだばかりで新鮮かつ大きなアザラシ皮が、継実の真横に丁寧に寝かせられていた。
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