凍える大陸05

 腹の好き具合。

 七年前ならちょっと間抜けにも聞こえる言葉だが、自然界で生き抜くためにはこれの把握が欠かせない。身体がどの程度のエネルギー不足状態にあるのか、それを感覚的に把握出来るからだ。

 そして今の継実の腹の好き具合は、『まぁまぁピンチ』といったところである。


「(あの戦い、というか傷の回復でかなりエネルギーを使ったからなぁ)」


 流石に、身体の前面を内臓ごと一刀両断されるのは継実にとってもそれなりのダメージだ。傷を塞いだり失った部分を再生させたりするための細胞分裂で、かなり多くのエネルギーを消費している。

 危機的な消耗ではないが、しかしこのエネルギー消費を無視する事も出来ない。先の回復で消費した分を具体的に言い表せば、丸二日分の基礎代謝に匹敵する量だ。

 ミュータントは基礎代謝の高さから、数日程度の絶食でエネルギーが枯渇する。継実も同様であり、二日分のエネルギー消失はかなりの痛手。恐らくあと一日の絶食で生命活動は危機的状況に陥るだろう。そうなる前になんらかの獲物を捕らえなければ、人間探しの旅はお終いである。

 そしてだからこそ、獲物をしっかりと選ばなければならない。


「で? 継実、どうする? まだあそこにペンギンはいるわよ」


 傷の回復を終えた継実に、モモはある場所を指差しながら尋ねる。

 彼女の指の向く先にいたのは、無数のコウテイペンギン達。

 継実達が襲い掛かった個体は逃げたが、他のコウテイペンギン達は今も変わらず殆ど動いていなかった。隠れようとしている様子もなく、精々こちらをじっと見ているだけ。

 実に舐め腐った態度である。しかしミュータントに相手を侮辱して悦に浸るような、無意味な習性はない。奴等が逃げないのは、逃げない方が合理的だと判断しているからだ。


「(そりゃあ、あんだけ一方的にやられたらねぇ……)」


 継実達はコウテイペンギンの一匹を襲ったが、呆気なく逃げられている。継実に至っては返り討ちといっても過言ではない。こんな体たらくで次こそはコウテイペンギンを仕留めるなんて宣言しても、子供の戯言同然だ。

 周りにいるコウテイペンギン達も、継実達がどれだけあっさりやられたかを見てきた。弱い奴からおろおろと逃げ出すのは『効率的』か? 否である。動き回るのにもエネルギーは使うのだ。無意味に逃げ回る事はエネルギーの無駄であり、食物に乏しい南極では自殺行為と言えよう。

 だからコウテイペンギン達は逃げない。万が一すらないと確信しているのだろう。

 そういう相手だからこそ鼻っ柱をへし折りたいという気持ちは、人間である継実としてもなくはない。が、それでリベンジが出来れば苦労はなく、奇跡的に勝利出来たからといって見合ったメリットがある訳でもなし。ペンギンの脂身と家族の命を天秤に乗せて、脂身を取るほど落ちぶれてはいないのだ。


「いや、それは止めとこう。流石にリスキー過ぎる」


「ま、そうよね。アレを相手するのはちょい勘弁。やるならもっと小さいのを狙いたいけど……」


 近くにはいないわねー。そう言いながら、モモは辺りを見渡した。

 継実も周りを見渡したが、コウテイペンギンしか見付からない。時期の問題なのか、コウテイペンギンが占拠しているのか。理由はどうあれ此処にいても『小さな生き物』は発見出来そうになかった。

 そしてミュータントであるこのコウテイペンギンの傍に、生き延びた人間達がわざわざ近付くとは思えない。ならこの場に留まるメリットはなく、他の場所に移動した方が良いだろう。


「ミドリぃー。いい感じの獲物、もとい人間っぽい反応ない?」


「すっかり獲物優先ですね……あたしもお腹が空いてきたからご飯食べたいですけど」


 お願いすれば、呆れ顔になりながらもミドリは索敵を始めた。

 コウテイペンギンに出会う前の索敵で、ミドリは五つの反応を感知している。そのうちの一つが此処であり、まだ残り四つの候補があるのだ。それらのどれかが人間か獲物であれば問題ない。

 次に会うのは人間か、それとも獲物か。空腹にも後押しされた期待感が、継実の胸の奥底でふつふつと湧いた。


「……んー?」


 尤もその期待は、ミドリがぽそりと零した一言を聞いてすぐ、頭の隅へと寄せたが。


「ミドリ、どうしたの? 何か変なものでも見付けた?」


 索敵担当のミドリが違和感を抱いた。即ち、それは彼女の索敵範囲内で『異常』が起きた事の証と言えよう。

 何が起きたのか、詳しく知りたい。継実は真剣に考えていたが、対するミドリはちょっとばかり気の抜けた表情を浮かべていた。どう答えたものかと考えている様子である。


「うーん、変と言いますか……反応が今、一つ消えました」


 やがてある場所を指差しながら答える。大した事じゃないと言いたげに。

 確かに、大した事ではない。

 一度捉えた反応がまた消えるなど珍しくないからだ。ミドリの索敵能力は優秀だが、完璧ではない。むしろ一瞬でも『隙』を見せた生物……狩りの最中や天敵から逃げている時など……だけが見えていると言うべきだ。だからその生物が余裕を取り戻して隙がなくなれば、気配が消えるのは当然だろう。

 ただ、気配が消えるパターンはもう一つある。実にシンプルで、考えるまでもなく当たり前な話が。

 。つまり――――


「……その消えた反応のところ、行ってみようか」


「え? 良いのですか? もう逃げてるかも知れませんし、或いは食べられちゃったかも知れないんですよ?」


 継実の意見に対し、ミドリは疑問を呈す。

 基本的に、消えた生物のところに出向くのは好ましくない。姿を眩ませた後何処かに移動したかも分からぬ相手なんてまず見付からないし、もしも肉食生物がその生物を仕留めた後ならそいつに襲われるかも知れないからだ。君子危うきに近寄らず。昔の人が残した、ありがたいお言葉である。

 しかし、虎穴に入らずんば虎子を得ず、という言葉もある。


「そうかもだけど、でも消えた反応が人間に関わるものって可能性もあるでしょ?」


 現状、継実達は人間の存在を物語るような痕跡を確認出来ていない。

 人間がなんらかの方法……隠密性の高い動物の毛皮を被っているなどの……で姿を隠しているなら、ミドリの索敵では引っ掛からない可能性がある。もしも一瞬でも姿を見せるのが、敵などに襲われて姿を表した時だけだとすれば、消えた気配を避けるのは愚策だ。折角の痕跡をみすみす逃す事に他ならない。

 特定の相手を積極的に探すというのは、こういう事なのだ。普段通りの、生き残るためのやり方が正しいとは限らない。もしかすると避けてきた行いこそが求めているものかも知れないのである。勿論消えた反応が人間由来とは断言出来ないのも真であるから、リスクに見合うリターンが得られるとも限らないが……それを恐れていては進展などない。

 今までは知らないものに近寄らないのが安全だった。いや、今でもそれは変わらない。ただもっと積極的に、リスク承知で情報を集める必要があるというだけだ。


「……分かりました。でも何があるか分からないですから、あたしだけに頼らないでくださいよ」


「大丈夫大丈夫。ちゃんとやるからさ」


「いやまぁ、ちゃんとやってるのは知ってますけどね……んじゃ、あっちです。此処から三キロほど先で反応が消失しました」


 ミドリはある方角を指差し、それから歩き出す。

 三キロという距離は決して長大なものではない。それはミュータントの速力から見ての話ではなく、そうでない人間にとってもだ。一般的に人間の徒歩速度が三〜五キロ程度とされているので、三キロの道のりなら一時間掛からない計算である。足場がふかふかとした雪+ブリザードの真っ只中なので、実際にはもっと時間が掛かるだろうが、だとしてもニ時間ほどの道のりだ。

 大凡のスケジュールを頭の中で立てて、継実はミドリの後ろにぴったりと付いていく。モモも周りの臭いを嗅ぎながら、継実の横を歩いた。深い雪に埋もれる足をゆっくり持ち上げ、肩や頭に降り積もった雪を手で払い落として三人は進む。

 南極の大地に植物はなく、生き物も少ない。

 だから歩いていた継実は、特にこれといって生き物の気配を感じなかった。極めて当たり前の事であるが、しかし何も感じられないと、自分の感覚が当たっているか不安になる。何かがいると感じれば自分はちゃんと生物を見付けられていると思えるが、何も感じられないと本当に周りに何もいないのか、単に自分が見逃しているのか分からなくなってしまう。

 小さな生き物を見付けたところで、危険な生き物を見逃していない根拠とはならない。それでも「きっと大丈夫」だという根拠を見付けたくなるのが人間というものだ。不安が継実の心の奥底で、ふつふつと湧き出す。しかしその不安が緊張感を高め、普段以上の力を出させてくれる。

 来るなら来い。リスクは承知済みだ。

 誰よりも闘志を滾らせ、継実は家族と共に南極を踏み越えていく。

 結果を言えば、結局道中で危機は訪れなかった。継実達の索敵はちゃんと脅威を見逃さず、安全で確実なルートを進んだ。慎重に行動した成果とも言えるだろう。到着するのに掛かった一時間半ほどの時間も、想定よりも早いぐらいである。

 されど継実は目的地に辿り着いた、今この瞬間だけ、自分の慎重さを呪った。

 目指していた場所に、があったがために――――

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