凍える大陸03

「さぁぁぁぶぅぅぅいぃぃぃ……!」


 ミドリの震えきった声が、南極の大地に響いた。

 現在、南極の気温はマイナス七十五度。朝よりも気温が更に下がっているが、その原因は周囲に吹き荒れている雪……所謂ブリザードの影響である。ほんのついさっきまで晴れていたのだが急変し、今や五メートル先も見えないような猛吹雪になっていた。生半可な生物では一瞬で凍り付く極寒であり、そんな中で服一枚着ずにいれば、寒くて寒くて仕方ないのは当然である。

 ――――なんて言えたのは七年前まで。全ての、とは流石に言えないが、大半のミュータントにとってこの程度の寒さなど冷たいとも思わない。核兵器の直撃すら難なく耐えるというのに、外気温が高々百度下がったからなんだというのか。実際ミドリと同様に裸である継実は寒さを感じていないのだ。能力の使用を制限していれば兎も角、そうでないなら寒さを感じる訳もなし。

 何より、声は凍えているがミドリの表情はちょっと楽しげだ。ちょっとした悪ふざけなのは明白である。


「こーら、ふざけないの」


「えへへ。いやー、暇だったもんでつい」


「まぁ、実際暇よね。敵の気配も怪しい気配もなーんもないし」


 継実は窘めようとしたが、ミドリは悪びれた様子もなし。モモまでミドリに賛同していて、継実は大きなため息で不愉快さを示す。

 とはいえモモとミドリの言い分を完全否定も出来ない。

 海沿いで五つの気配を察知し、そのうちの一つがある方角……内陸部に向けて歩き出してから早十五分。降り積った雪に足を取られたり、ブリザードによる視界不良で普段より多少足取りは遅いが、それでもかなりの距離を移動してきた。しかし未だ、これといった『出来事』に遭遇していない。危険も安全もなく、ただ雪が顔を打つだけ。

 南極といえば植物が生えていない極寒の大地だ。餌が少ないのだから、生物の数が少ないというのは必然である。お陰で周りの気配は単調静かなもの。しかも景色は雪ばかりで白しかない有り様だ。

 継実だって猛獣に襲われたい訳でも、全方位から食欲満載の殺意をひしひしと感じていたい訳もない。しかし代わり映えしない雰囲気と景色は、維持しようとする緊張の糸をこそこそと弛めていく。ミドリにしても気を抜いているのではなく、むしろちょっとした気分転換がして気を引き締め直したかったのだろう。

 加えて、確かにこの『極寒』をなんとかしたいという想い自体は、継実の中にもあった。


「(マイナス七十度前後の寒さに適応するため、身体の分子の運動量をに高めている……これだと普段よりも体力の消耗が激しいな)」


 継実は自分自身の身体を『解析』し、無意識本能的にどのような能力を使っているか探る。

 どうやら粒子操作能力で、身体組織の分子が持つ運動量を一定に保っているようだ。このお陰で全く寒さを感じないでいるし、血液や皮膚が凍って凍傷になる事もない。しかし能力を使い続ける代償として、多くのエネルギーを消耗していた。

 生命の少ない南極で大量のエネルギーを

消費する事は自殺行為だ。しかし砂漠のように、能力を出来るだけ使わないようにしながら行動するのはすべきでない。というのも人間の身体は体毛を持たない事で放熱機能に優れているが、体毛を持たないが故に保温能力はかなり低いからだ。つまり人間は寒冷地に適応していない。もしも能力を停止すれば瞬く間に低体温症となり、体調回復のためより多くのエネルギーを使う羽目になるだろう。

 アフリカの暖かな環境で進化してきた癖に、衣服の力で世界各地に適応したツケがここで回ってきた。せめて日差しがあれば色々やりようもあるのだが……見上げた空はブリザードを降らせている暗雲に覆われ、夜よりも暗い闇を作り出している。尤も仮に晴れたところで広がるのは星空だ。今は極夜なのだから太陽が昇る事はない。ちなみに極夜の期間は地域にもよるが、長いところでは二ヶ月ほど続くという。明日明後日はお日様の顔を拝めるかもと期待するのは、恐らく無駄な事だろう。大体太陽が顔を出したところで、夏場の南極でも平均最高気温は氷点下だ。昭和基地があった地域はかなり温かいようだが、それでも夏場で一度か二度しかない。耐えたところで生身の人間にとって辛い気温が終わる事はなく、保温のためのエネルギー消費は多いまま。

 どうにかして寒さを和らげる必要がある。そしてこの問題を解決する方法として、パッと思い付く案は二つ。


「(一つは、モモの体毛で私らの身体を包んでもらう事)」


 極寒の中でもへっちゃらな顔をしているのは、継実達だけではない。一緒に歩いているモモも、マイナス七十度以下の世界を元気で楽しげな顔で過ごしていた。

 全ては彼女の身体から生えている体毛のお陰だ。砂漠の夜で披露したように、モモの体毛はとても温かい。そして体温や構造など能力以外で発生している温かさなので、どれだけ他者を温めてもモモ自身の体力はあまり消耗しないのも利点である。良い事尽くめだ。

 と言いたいところだが……寝起きで短時間使うだけなら兎も角、長距離移動中に使うのは好ましくない。

 難しく考える必要はない。身体をもふもふきた糸でぐるぐる巻きにしたとして、その状態で素早い対応が出来るのか? という事だ。もしも敵がただの人間で、マシンガンや戦車砲を撃ち込まれる程度なら『可』であるが……相手がミュータントとなれば話は別。最悪奇襲を受けた際反射的に動いてしまい、糸が絡まって三人全員が行動不能に陥る可能性もあり得る。

 ミドリの索敵能力も絶対ではない。何時何処から襲われるか分からない以上、緊急時の動きを妨げる行いは避けるべきだ……寝起きの時以外は、と最後に継実は頭の中で付け加えたが。それを止めるつもりは毛頭ないので。

 ともあれ寒さを避けるため、仲間の身体の一部に頼るのは得策とは言い難い。ならばもう一つの、そして人類にとって王道の方法を採用すべきだろう。

 即ち、人類が大した進化もせずに寒冷地へと適応出来てしまった要因――――衣服の着用である。


「ミドリ。何処かに毛皮になりそうな動物とかいない? そろそろ服を作りたくてね」


「……あ! そうですよ 、そういえばなんかこのところずーっと裸だったから失念していましたね! でもそっか、これから元とはいえ知的生命体に会うのですから、きっちり正装を着ないといけませんね!」


「元じゃなくて今でも知的生命体だっつーの」


 というか寒さ対策よりも人目かい、とツッコミを入れたくなる継実。とはいえミドリの言い分は一理ある。これから人間に会おうというのに、裸というのは礼節的に、或いは常識的にどうなのかとは思わなくもない。

 そうだ。自分達は今、素っ裸である。出会った相手が女性なら、大した問題にはならないだろうが……男だと色々面倒な事になりそうだと継実は思う。何しろ七年前に継実は男性から酷い事をされたのだ。この七年で恐怖心はすっかり克服したが、警戒心や不信感は拭いきれていない。ただの人間なら(昔やったように)跡形もなく消し飛ばせるが、それをやったら二度と共存は無理だろう。

 そうした『個人的』な見解を抜きにしても、異性に対し裸体という劣情を催す姿を晒すのは好ましくないだろう。加えてミュータント化の影響を考えれば、人間もほぼほぼ野生動物と変わりない筈。お年頃な男子繁殖適齢期の雄が、可憐な美少女魅力的な雌を見付けたなら、やる事は一つだ。七年前であれば倫理やら法律やら社会的圧力やら子供の幸せやらの抑止力もあったが、今やそんなものはない。ついでに、襲われた時にモモは多分助けてくれない。以前理想の男性像について語り合った時「強い雄が良い」と力説していたぐらいなのだ。もしも男に襲われたところで、きっと「なんだただの繁殖行為か」で終わる。犬である彼女に、性行為繁殖活動の神聖性など理解出来ない。

 そうした無用なトラブルを避けるためにも、服を着て劣情を生じさせない工夫が必要だろう。尤も、ミュータントの本能にどれだけ通じるかは、いまいち分からないが。


「(寒さだけなら別になくてもなんとかなるかもだけど、人間関係が絡むならやっぱり用意しないと駄目だな。つーても見付かるとは限らない訳で、最悪モモの毛で全身を覆うか? いや、でもそれはそれで襲われた時に……)」


 万一を想定して継実は思考を巡らせる。自然環境相手ならモモとミドリにも相談するが、人間関係となればまともな意見を出せるのは『純粋な人間』である自分だけだと継実は思っている。

 考えなければならない事、やらなければならない事がどんどん増えていく。シンプルな解決方法も、絶対的な解決方法も、それどころか正解があるかも分からない曖昧で面倒な問題。ああこれこそが人間社会の、自然界にはない煩わしさだったなと、七年前の記憶が蘇る。楽しい思い出ではないが、懐かしさを覚えて継実は小さく微笑んだ。


【むむ! 反応が近いです!】


 尤も思い出に浸っていられた時間は、ミドリの脳内通信によってすぐ終わる事となったが。

 先に反応したのはモモ。考え事をしていた継実は一瞬反応が遅れたものの、今までの思考を脇に寄せてミドリに意識を向ける。

 反応が近い。つまりなんらかの、人間かも知れない存在が付近にいるのだ。動物相手ならば物音を立てて近付いたら逃げる(或いは先制攻撃を仕掛けてくる)かも知れないし、人間相手だとしても『ヤバい』人物なら同様の可能性がある。可能ならばこちらが一方的に情報を得たい。


「……念のため、こっそり近付くよ。念のためね」


「そうね。動物だと逃げちゃうかもだし」


【ですね! あたしもそう思ってちゃんと脳内通信で伝えました! えっへん!】


 なお、人間の害意を警戒しているのは継実だけのようだが。犬は兎も角宇宙人もかい、とツッコミたくなる衝動を抑えつつ、継実はミドリの頭を撫でる。

 一通りミドリの功績を褒めたら、抜き足差し足で継実達は歩き始めた。先導するのはミドリ。雪に埋もれて動き辛そうにしつつ、静かに且つ迷いない歩みで前へと進む。

 ミドリが目指す先は、少し小高い丘となっていた。そしてその先が切り立った崖になっている事を、継実は能力を用いた索敵で理解する。丘の頂上が近付くとミドリの歩みは緩やかになり、姿を隠すため這うような姿勢を取った。継実とモモも同じ姿勢を取る。雪の大地に裸で腹這いになるのは七年前なら自殺行為だが、今ならばなんら問題ない。むしろ身体を少し埋めて、自分の姿を隠そうともした。

 やがて丘の頂上に辿り着いた継実達。全員が一列に並んだところで、ミドリは崖下のある場所を指差す。

 ブリザードがあるため視界は数メートルしかなく、崖下までの距離はざっと十メートル以上ある。そのためミドリが示した場所はろくに見えないが……能力を使った継実は、崖下に佇むぼんやりとした輪郭を捉えた。

 数は十体とそれなりだ。体長はどれも百五十センチ程度。直立の姿勢を保っている。足はよく見えないが腕はだらんと垂れ下がり、真っ直ぐ下を向いていた。

 継実の目に見えた特徴はそれだけ。だが、それだけ見えれば表現は可能だ――――崖下に居る存在が『人型』をしていると。

 身体はやや小柄であるが、人間の身長というのは栄養条件でいくらでも変化する。例えば江戸時代の日本人男子の平均身長は百五十五センチ程度。文化的に肉食が制限された影響で、骨の成長に必要な栄養素が確保出来なかったのが理由だとされている。崖下にいる存在の低身長も、食料の少ない南極で暮らしていた結果だとすれば頷ける水準だ。直立の姿勢も、如何にも人間らしい。


【アレです! アレ、すごく人間っぽくないですか!?】


「確かに、なんとなーく見える輪郭は凄く人間っぽいわね」


 ミドリが興奮気味に伝えてくるのも、モモが納得するのも当然だ。継実もこくりと頷く。

 ただ一点、小さな疑問が継実の胸の中には残っていた。


「(なんであの人影、?)」


 人間は直立歩行を得意とする生き物だ。骨格上、直立に立っている視線が一番楽でもある。

 しかしどんな時でも直立二足歩行をしている訳ではない。

 例えば獲物を狙う時。素早く走り出すためには前傾姿勢の方が向いている。疲れない長距離走のフォームはやはり背筋を伸ばしたものだが、ある程度意識的に訓練した身でなければ、普段から維持出来るものではない。また地面に落ちているものを拾うなら腰を曲げるし、何か道具を作っているならしゃがみ込んで猫背にもなる。

 つまり『何か』している時の人間というのは、あまり直立していないのである。ところが崖下の人型の存在は、継実達が見ているこの十数秒間直立したまま。おまけに一歩も歩いていない。一般的にこの状態の人間を『棒立ち』と呼び、異常とまでは呼ばないものの、変な状態だとは認識される。

 あの人型達はどれも吹雪の中で棒立ちを続けている。なんとも奇妙な状況であり、段々と怪しく思えてきた。ただ棒立ちしているだけの存在に対し警戒感を抱くのも難だが、果たしてあれは正常な人間なのか――――


「もう我慢出来ないわ! 人間よー!」


 等と考えていた継実の目の前で、モモが大胆にも崖から飛び降りる。

 何してんの? と困惑したのは、いや、出来たのは一瞬。何故ならモモのすぐ後を追うように、ミドリも続いたからだ。愛玩犬であるモモは人間が大好きで我慢が出来ず、人影が人間だと思い込んでいるミドリはモモの動きに釣られてしまったのだろう。

 一人残される格好となった継実。人影への不信感は未だあるものの、見知らぬ土地で一人の方が余程危険だ。それにモモ達が飛び出した事で隠れている意味がなくなったし、なんらかの対応が必要な場合距離が離れているのは不都合である。

 不本意ながら、継実も崖下へと飛び降りた。

 十メートルの高さからの自然落下など、ミュータントにとっては階段を一段飛ばすよりも生温い。継実達は無事に着地。派手な音も鳴らしたので、如何にこのブリザード下でも崖下の人影達は継実達の存在に気付いただろう。しかし彼等に動きは特に見られない。

 人間だったら、流石に振り向きはするんじゃないか? 疑惑が確信に近付く中、物理的な意味でも継実は人影に歩み寄ってみる。ブリザードは未だ激しいが、距離を詰めればそれの輪郭は段々とハッキリしたものへと変わり……

 あと三メートル進めば触れるというところで、ようやく継実達は人影の正体を詳細に目にする。

 そこに存在していたのは、巨大な身体に黒と白のツートンカラーの毛を生やした、人間の姿とは程遠い異形をした生物だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る