メル・ウルブス攻略作戦02

 ――――遡る事三日前。

 どしん、と継実は自らの足で大地を踏み締める。

 勿論本気ではない。本気で大地を踏めば、ミュータントとなった今の継実のパワーならば地震ぐらい簡単に起こせて、足先で大地を数十センチと貫くなど造作もない。あくまでも体重を乗せた程度の、それなりに手加減した踏み締め方だ。

 しかしそれでも地面が砂で出来ていれば、足が地表面に留まる事はなく、ずぶずぶと沈んでいく。そうならないという事は、つまり此処は砂で出来た大地……砂漠ではないと言える。尤も、そんなのはわざわざ踏まずとも、見れば分かる事だ。

 やや黄ばんでいる上に丈は数センチしかないが、足の踏み場もないぐらいに繁茂している草があるのだから。


「〜〜〜ぃやあぁっと、抜け出せたぁ!」


 砂漠で辛酸を嘗めさせられてきた継実は、その事実に両手を挙げて万歳するほどに喜んだ。


「ほんとねぇ。私自身は割と楽だったけど」


「あたしはもう、割とへろへろです……水、飲みたいなぁ」


 共に砂漠から抜け出したモモとミドリも継実の意見に同意しながら、背伸びしたり、項垂れたりしている。二日前にサボテンから逃走しオアシスに辿り着いた後は、能力の温存はあまりしていなかったが……それでもミドリにとっては過酷な旅路だったらしい。

 いや、辛かったのはミドリだけではない。モモは楽だと宣っているし、継実も平然とした態度を装っている。しかし実のところ言うほどの余裕はない。

 というのも砂漠にはサボテンやムスペルを除けば、殆ど生き物がいなかったため、まともな食事が出来ていないからだ。最後の食事は二日前にオアシスで襲い掛かってきたワニ……の尻尾(三人で襲い掛かったら尻尾を切って逃げた。もしかするとワニに似た姿の巨大トカゲだったのかも知れない)だけ。戦いがなかったので余計なエネルギー消費はなかったが、二日分の基礎代謝だけで相当の消耗がある。

 正直、今だとフルパワー状態は数秒と続くまい。非常に危険な状態だ。


「しっかし、流石にそろそろなんか食べたいわね」


「ああ……そっちの方が優先ですね。水じゃお腹は膨れませんけど、食べ物なら喉は潤せますし」


 モモとミドリからも、空腹の訴えが起きる。すると継実のお腹は返事をするかのように、ぐぅ、と音を鳴らす。

 まるで返事のような腹の音。七年前の小学生時代なら顔を赤らめるところだが、今の継実にとってこんなのは空腹のシグナルに過ぎず。恥ずかしがる前に空腹、つまりエネルギー不足の解消を行わねばならないと考える。

 幸いにして砂漠はもう抜けた。今の継実達の前に広がるのは、命の乏しい荒れ果てた大地などではない。黄ばんでいるとはいえ草が繁茂した草原だ。それに南に行けば行くほど植物の青さと大きさ、そして密度が増している。少し歩けば青々とした草原に変化するだろう。植物という豊かな『食糧』に支えられ、この先にはたくさんの生き物が暮らしている筈だ。お腹を満たすのはそう難しくあるまい。

 無論、油断するのは愚の骨頂である。生き物が豊富であれば、それらを餌にする猛獣も豊富という事。砂漠ですらサボテンという恐るべき生命体がいたのだ。この草原にどんな危険生物がいるか分かったものではなく、いくら警戒しても足りない。


「モモ、ミドリ。周りに危険そうな気配とかある?」


「んー、あたしは特に感じませんね。小さな虫とかはちらほら見掛けますけど、五十センチ以上あるような生き物はこの辺りでは感知出来ません」


 継実が尋ねてみたところ、ミドリからは安全だという意見が出る。とはいえ彼女の探知能力は、頼りにはなるが絶対ではない。巧妙に隠れ潜んでいる猛獣がいる可能性は残る。

 絶対の保証などこの世には存在しない。故に少しでもリスクの『予感』がしたなら、そちらを優先するのが野生で生き延びるためには必須だ。


「……うーん……?」


 モモが首を傾げていたら、安全だというミドリよりも、そちらの意見を気に掛けるべきであろう。


「モモ、どうしたの? なんかヤバいのがいそう?」


「ん? いんや全然。そーいう感じはないんだけど……」


「だけど?」


「……臭いが変。甘ったるい臭いばかりめっちゃする。知ってる臭いなんだけど、なんだっけな、これ」


 尋ねてみれば、モモからはそんな答えが。

 甘ったるい臭いとの事なので、継実は自身の能力で大気分子を分析してみる。するとリナロールやテルペン、その他様々な物質が検出された……が、これは花の香りやエッセンシャルオイルなどで見られるもの。つまるところ草原ではさして珍しくもない物質だ。濃度も別段濃くない。

 継実としてはモモの感じた違和感を、気の所為なんて言葉で片付けるつもりはない。ミュータントの本能的直感は、成分表の数字よりも遥かに『正確』だ。しかしながら臭いを感覚的に理解出来るモモと違い、継実は数値的にしか理解出来ない。家族が覚えた違和感をどう受け止めるべきか、判断が難しいところである。


「……ふぅん。要警戒ってところね」


 とりあえずは、危険があるかも知れないと認識する。十分ではない可能性もあるが、意識するのとしないのとでは大違いだ。


「そーいう訳だから、ミドリ、警戒は念入りにね」


「はい。何時も以上に警戒しておきます」


「お願いね……あ、それともう一つ。ワラビーでもウォンバットでもなんでも良いけど、毛皮のある生き物を見付けてほしいな。そろそろ服作りたいし」


「あー……確かにあたし達、もう何週間も裸ですよね。そろそろ服着たいなー文明人的に」


 継実からの要望に、現在進行系で真っ裸である自身の身体をぺたぺたと触りながらミドリは能天気な意見を述べた。

 ミドリが言うように、継実達はこのところずっと裸だ。丁度良い毛皮が中々見付からなかったというのもあるが、兎にも角にも危険かつ不慣れな敵との戦いが多く、服を着ててもすぐに吹き飛ばされてしまうのが一番の原因である。折角毛皮になりそうな死骸を見付けても、数時間と持ちやしない。

 そういう意味では、服などなくても良いかも知れない。勿論服があれば様々な恩恵を受けられるのだが、何がなんでも欲しいかといえばそうでもなく、だからこそ今まで割と裸でいた訳だ。

 しかしながら今回ばかりは服が欲しいと継実は思う。何がなんでもではないとしても、それなりに時間を掛けても良いと考えるほどには。


「そうだねぇ、私も欲しいよ――――此処から先は、きっと凄く寒くなるからさ」


 何しろ間もなく自分達は、極寒の地である南極に辿り着くのだから。

 オーストラリアの南半分を越えた事を確信している継実はそう考え、数日後には迎えるであろう寒さに備えようとしていたのだった。






 そう、備えようという気持ちはあった。

 気持ちはあったのだが、それでどうこうなるものではない。自然界というのは人間の気持ちを汲んで、欲しいものを渡してくれる訳ではないのだから。

 しかしながら物事には限度がある。欲しいものが中々見付からないとしても、手掛かりぐらいはあるものだ。そこにいる筈のものであれば、一つぐらいは。

 つまり手掛かりすらない状況というのは、割と想定外というもので。


「な ん で! 獣がいないのさぁ!」


 野生の世界では割とご法度な大声を、継実は思わず上げてしまう。されどいっそご法度ならばまだマシだとも思うのだ。

 声を聞き付けて獣がやってくるなら、それで『獣不足』問題は解決なのだから。


「……来ないわねぇ。結構遠くまで声は響いたと思うんだけど」


「ええ、あたしの探索範囲にも引っ掛かるものはいませんね。ひっそり隠れていた、という感じではなさそうです」


 息を切らすほど荒れる継実に対し、モモとミドリは冷静そのもの。淡々と言葉を交わし、現状を分析する。

 砂漠を抜けた先に広がっていた草原を進む事三時間。草丈が腰まで来るほど植物が繁茂するようになった今も、継実達は衣服の材料に出来そうな、大型の獣を見付ける事が出来ていなかった。

 勿論選り好みなんてしていない。体長二メートルのカンガルーの死骸でも見付かると良いなという程度の願望はあったが、あくまでも願望だ。毛があるものを見付けたなら、すぐに拾って加工するつもりだった。ところがどうした事か、体長五十センチのウォンバットどころか十センチ未満のネズミすら見掛けない有り様である。今のように大声を出してみたり、ドタドタと走ってみたりもしたが、大型生物の姿は現れてもくれない。

 今のオーストラリア大陸にたくさんの有袋類が生息している事は、大陸に上陸してすぐに思い知った。砂漠を越えた先にあるこの地で、急に哺乳類の数が減るというのは……奇妙というよりも『異常』だろう。

 しかもこれは哺乳類に限った話ではない。

 体長数十センチにもなるような爬虫類や両生類、更には昆虫類の姿も見られなかったのだ。草原という植物資源が豊富な地で、どうしてその豊富な資源を利用する生物がいないのか。

 不自然な生命の不在。想起するのは大蛇とヒトガタの決戦が起きた、ニューギニア島だ。あの島では圧倒的生命体の存在により、島中の生き物が避難または休眠していた。この地の生物も、あの島のように何処かに逃げたのだろうか?

 此度に限れば、否である。


「まぁ、小さな虫とかトカゲはたくさんいますから、食べるには困ってないですけどね。ぱくんっ」


 ミドリが言うように、体長一センチ未満の小さな生き物はそこそこいるのだ。手間は掛かるが捕まえるのに苦労はない。お陰で食べ物には困らず、砂漠で消耗した体力と水分は完全に回復している。が、その事に対する安心感よりも、違和感が継実の胸に積み上がっていた。

 大型生物は危険に鈍い、という訳ではないが……小さな生き物の方が『危険』としなければならない閾値がより低い。例えるなら人間とネズミがネコと出会った時、人間は何もしないがネズミは逃げ出すように。或いは人間とアリがクモに出会ったなら、そもそも人間はクモの存在に気付かない可能性がある。

 そうした理由から、ある種の『危険』に対して真っ先に逃げるのは小さな生き物の筈だ。その小さな生き物が普通に生息しているのだから、脅威が迫っているという考えは誤りだろう。しかし、だとしたら一体何が原因なのか。大型生物だけが逃げなければならない、或いは大型生物以外には感知出来ない危機なんてあるのか? 人間とアリで例えるならライオンと出会った時がそうであろうが、されどライオンが現れたからといって地域一帯から人間もネコもタヌキもいなくなるとは思えない。

 それに、もう一つの『不自然』が凶悪な生命体の存在を否定する。


「(……花が咲いてないのに、どんどん花の匂いが強くなる)」


 大気中に、どんどん甘ったるい花の香りが満ちてきたのだ。今や成分解析など必要ない……例えミュータントとなっていない人間でも顔を顰めたであろうほどに、甘い花の香りが鼻を突く。まるで満開の花畑、いや、全方位を花に囲まれているような気分だ。

 しかし周りを見ても、生えているのはどれも緑色の草ばかり。花は一輪も見当たらない。

 花がないのに、花の匂いがする。つまり何処かから漂ってきている訳だが……周りに花が見えない時点で、匂いの発生源は相当遠い筈だ。にも拘らず強烈な匂いを感じるという事は、発生源ではどれほどの花が咲き誇っているのか。いや、そもそも自然な花の密度でそこまで強い匂いが立ち込めるのか?


「(……さっぱり分からん。分からんけど、なーんか嫌な予感がする)」


 本能的に感じる危機感。果たしてこの予感は、単なる考え過ぎか、はたまた本当に迫りきているものなのか。考えても考えても、答えは出てこない。

 しかしこのままならいずれ謎は明らかになると継実は思っていた。何故なら匂いは自分達の行く先……南の方から漂ってきているから。直進すれば間違いなく匂いの発生源と鉢合わせるだろう。

 危険だと考えて迂回すべきか? それも一つの手だ。君子危うきに近寄らず、とは昔の人も言っている。賢い者はそもそも危ないものに近付かない。「自分達の力なら大丈夫」などと過信するものは、容赦なく命を落とすのが自然界なのだから。

 七年間ミュータントの生態系で生きてきた継実は、『回避』という選択肢を真剣に考え始めた……そんな時である。


「……え?」


 不意に、ミドリが呆気に取られたような声を漏らしたのは。歩いていた足もぴたりと止まり、呆けたような間抜け面を浮かべる。


「ミドリ? どしたの?」


「なんか獲物でも見付けた?」


「え? あ、いえ、そういう訳ではないの、ですけど……」


 継実とモモに尋ねられたミドリは、しかしどうしてか歯切れの悪い答えを返す。

 獲物なら獲物と言えば良いし、猛獣なら猛獣と言えば良い。訳の分からない気配だとしても、その通りに答えれば済む話。そんなのはもうこの世界で何ヶ月も生きているミドリも理解している筈なのに、何を躊躇う必要があるというのか。


「……この先に、があります」


 そんな継実の疑問は、自分達が向かう先を指差しながら語ったミドリの一言で解決する。解決して、今度は継実が呆けた面になった。

 都市。

 それはつまり、文明的な構造物があるという事だろうか? ミドリの言葉をそう解釈しようとするが、されど継実の理性が強く否定した。都市があるなんてあり得ない。怪物ムスペルが出現しただけで滅びた人類文明が、ミュータントだらけの世界で残っているなんて到底思えない。あるとしたら、細菌ミュータントの進出が起きてないかも知れない南極ぐらいの筈なのだ。

 或いはエリュクスのような宇宙人が侵略拠点でもぶっ建てたのか。成程、それならば考えられる可能性だろう。ミドリ曰くミュータントは宇宙全体で見ても非常識な存在のようだが、宇宙最強とは限らない。ミドリも知らないような超高度文明が地球に来ていたら、都市の一つ二つ作り上げるぐらい難しくないだろう。

 なんにせよ、怪しいものに間違いはない。君子危うきに近寄らず。先程も脳裏を過ぎった昔の人のありがたいお言葉だ。危険かも知れないものには近付かない。それが賢い振る舞いである。

 だが。

 人間に、社会に加わりたくて日本からオーストラリア大陸まで生身で来てしまった継実が――――生き物として賢い筈もなく。


「っ!」


 継実は無意識に、最短距離で南に向けて走り出した。


「えっ!? つ、継実さん!?」


「まぁ、そうなるわよねー」


 驚くミドリを、そして呆れるモモの声も無視して、継実は走る。ミュータント化したその脚力は自らの身体を秒速ニ・五キロ以上の速さで前に押し出し、自分達が行こうとしていた場所へと進む。

 進めば進むほど、甘ったるい匂いはどんどん強くなる。脳裏にこびりつく『嫌な予感』も強くなるが、それでも継実は走り続けた。合理的な本能からの警鐘を、感情的な理性が捻じ伏せる形で。

 身長百七十センチの人間から見える地平線は約五キロ。継実の走力を用いれば二秒でその向こう側まで辿り着ける。何十秒と走れば、超えた地平線の数もまた同じく増えていく。

 途方もない距離を瞬く間に通り抜けた継実は、やがてそれを目にする事となる。

 黄金の輝きに満ちた、人工的で、けれども決して『人間の都市』ではないものを――――

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