干からびる生命02
「……辛い」
砂漠を歩き出してから僅か十分。ぽつりとミドリが独りごちた。
ギラギラと輝く太陽の下に広がる砂漠を、継実達は歩いている。継実の感覚的な話ではあるが、気温は恐らく五十度前後だろうか。直接太陽で温められている砂は七十度を超えており、割った卵を乗せれば美味しい目玉焼きが作れるだろう。地上が植物に覆われておらず、加熱しやすい砂が日光のエネルギーを余さず受け止めているため、気温が非常に上がり易いのだ。
ともあれ今の砂漠は灼熱地獄。太陽の高さからしても正午をちょっと過ぎた頃であり、今が一番気温が高い頃だろう。ミドリが辛いと思うのも当然――――とはならない。
「いや、別に辛くはないでしょ。こんな暑さぐらい」
一番『熱』に弱いモモですら、この灼熱同然の気温に平然と適応しているのだ。核爆弾の熱にも耐える人間のミュータントであるミドリが、目玉焼きしか出来ない暑さでへこたれる訳がない。
事実ミドリが不快に思っていたのは、こんな生温い気温の方ではなかった。ただし、では七年前の人間なら即死しかねない危機に襲われているかといえばそうでもなく、むしろ普通の人間達からは気温よりも些末に感じていたであろう事柄。
足場の悪さである。
「暑さじゃなくて足場です! すぐに沈むから凄い歩き辛い!」
「そりゃねぇ。私らの足は硬い地面を踏み締めるためのものだし」
「砂漠で進化した生き物は、足先とかも変化してるらしいよ。ラクダの足は蹄が小さくて足の裏が肉厚なんだけど、それはカンジキみたく足が砂に埋もれないようにするための進化って聞いた事がある」
「へぇー、そうなの。ところでラクダって美味しいのかしら?」
「それなりには美味しいんじゃない? 家畜として飼っている地域もあったぐらいだし。そーいや外来種かつ牧畜の邪魔だからってんで駆除が進められていたけど、オーストラリアには野生化したラクダがいた筈。そのうち出会うかもね」
「あたしを無視して盛り上がるの止めてくれません?」
ラクダの話で盛り上がる継実とモモに対し、不満を全く隠さないミドリ。何時もに増して ― 正確には何時もとても素直で大人しいのに ― ワガママなミドリであるが、それだけ砂漠の大地が歩き辛いのか。
実際継実がちらりと視線を向けたところ、ミドリの足は踵の上ぐらいまで砂に埋もれていた。海水浴場なんかの湿った砂と違い、砂漠の砂は乾燥していて柔らか。故に少しの重さが掛かるだけですぐに沈んでしまうのだ。ミュータントの力ならば足が沈んだ程度で身動きが取れなくなる事はないが……歩き辛い事に変わりはない。人間の身体は硬い大地に適応しているのだから。継実自身も同じく足は砂に沈んでいて、ちょっと不快に感じている。
しかしながら恐らくこれだけなら、まだミドリはワガママなど言わなかっただろう。むしろ出会ったばかりでまだまだ『文明的』だった彼女の方が、愚痴ったとしてもこんな必死にはなっていなかったかも知れない。思い返せば、彼女が必死に『駄々』を捏ねる時というのは大体二つだ。
生活水準が酷く悪い時と、自分の命に関わる時である。
そしてこの砂漠では、後者を強く意識せざるを得ない。
「バルルオオオオオオオオオンッ!」
独特な鳴き声を上げながら砂の中より突然姿を表す――――体長五百メートルもの目玉のないワニ頭をした怪物が付近にいるのだから。
怪物はヒレのようになっている両腕を広げながら、砂から飛び出して全身を晒す。ワニ頭と評したが、大きく裂けた口はワニよりも遥かに獰猛に見える。全身を覆うのは鱗ではなくて岩石のような肌。体型はアシカのように寸胴だが、筋肉質で可愛らしさなど欠片もない。
継実はその怪物に見覚えがある。いや、覚えがあるなんてものではない。奴等こそが、継実がこのような生き方をするようになった元凶なのだ。忘れようにも忘れられない。
怪物の名はムスペル。七年前に人類文明をたった一日で壊滅させた魔物達だ。しかも此度継実達の前に現れたのはただのムスペルではないらしい。身体から発している強力なプレッシャーからして、ミュータント化した個体なのだと継実は察する。
ムスペルは砂の中を、まるで海原を泳ぐように進んでいた。時折砂から飛び出す姿は、さながらクジラのジャンプのよう。着地時に莫大な量の砂を撒き散らし、悠然と砂漠を突き進む。そうした姿を表す度に感じる力の大きさからして、ムスペルの力はニューギニア島で出会ったあの化け物二体ほどではないだろうと継実は見積もる。文明の破壊者といえども最強の生物ではないらしい……が、それはアリから見て体長百メートルの怪獣と体長九十メートルの怪獣、どちらが強いか論じるようなものだ。どちらが敵になったところで
此度砂の中から現れたムスペルは数キロ離れた地点から出てきたが、大蛇級の力だとすればオーストラリア大陸から脱出しなければ ― 七年前なら地球から脱出しなければ ― 安全とは言えない。「びゃあっ!?」と可愛らしい悲鳴を上げながら、継実の背後に隠れてしまうミドリの反応はある意味正しいだろう。隠れたところでなんの意味もないぐらいムスペルのミュータントは強そうだが、それ故に隠れずにはいられないほど怖いのだ。
むしろ人類文明の崩壊を目の当たりにし、更に間接的な結果及び別個体とはいえムスペルに両親を殺されたにも拘らず、特段取り乱していない継実の方がおかしいのである。実際にはちょっと心臓の鼓動が気持ち大きく早くなっていたが、その程度に過ぎない。ビクビクと震えるミドリの背中を擦り、宥めるぐらいの余裕が継実にはあった。
「……あー、まぁ、確かにあんなのが居るんだから、逃げ足が発揮出来ない状態はアレよね。逃げきれるかどうかは兎も角として」
「そ、そうですよぉ……何時襲ってくるか分からないですし……」
「ぶっちゃけアイツはこっちには関心なんてないと思うけどね。足下のアリみたいなもんでしょ、アイツから見た私らなんて」
怖がる理由を語るミドリだったが、モモは淡々とその怖さを否定する。事実ムスペルは今まで何度も継実達の前に姿を表したが、その意識をこちらに向けてくる事はなかった。
「バルルオオォォンッ!」
「グムボオオオッ!?」
何しろムスペルが狙っていたのは、同じく砂の中に居た巨大な……全長二百メートルはありそうな大ミミズだったので。ムスペルはワニのように裂けた巨大な顎でミミズを咥えると、暴れる大ミミズに構わず一気に地中奥深くへと潜航してしまう。力の気配はどんどん遠くなり、あっという間に継実では感じ取れなくなった。
何がどうなるとたった七年でミミズがそこまで大きくなるのか。或いは地中生活に適応した結果ミミズに似た姿となっただけで、あれも怪物の一種なのか。地球は何時から怪物達の星になったのやら……等とツッコミを入れたいが、ミュータントだらけの今の世界では今更というものだ。
そして今の巨大種二体のやり取りで分かる事が二つある。一つは、先の雄大でスマートな狩りからして、恐らくムスペルがこの砂漠に適応している事。ミュータント化と共に地上へと進出してきた若い個体なのかも知れない。
「ほらね? 私らなんて興味もない訳よ」
もう一つはモモが言うように、ムスペルの獲物はニメートルにもならないような人間ではなく、その百倍以上の長さがあるような生物だという事だ。
ならばムスペルは人間など見向きもしないだろう。それはムスペルの立場になって考えれば分かる事。ムスペルが人間を一人一人食べる状況というのは、人間ならば地面でこそこそと動き回る体長一・七センチの虫を一匹ずつ拾って食べるようなものだ。そして昆虫のように数が多ければまだしも、体長一メートル以上の生物の個体数などたかが知れている。ハッキリ言って凄く面倒臭い上に非効率。下手をすると食事行動で消費するエネルギーの方が、食べ物で得られるカロリーより大きいかも知れない。
ムスペルからすれば、人間を襲ってもなんの旨味もないのだ。それぐらいの事はミドリも分かっているだろう。こうして現実を見て受け入れないほど、頑固でもあるまい。
ただ、それでもまだミドリは震えている。
「うぅ……確かにムスペルは平気そうですけど、でも食べられた方のミミズとか、そのミミズが食べてる生き物がどうかは分からないですし……」
生態系の基本に則って考えれば、ムスペルの獲物である生物はムスペルの何十倍、或いは何百倍もの数が生息しているだろう。それらの餌も、当然同じだけの倍率で存在する筈だ。
ムスペルが君臨するこの砂漠には、継実達を餌とするサイズの生物がどれだけ潜んでいるのか分かったものではない。それらに襲われた時、足場が悪くて動けないというのは致命的だ。砂漠の生き物達は砂地の環境によく適応し、砂地で縦横無尽に動き回れるだろう。対して継実達はろくに動き回れず、逃げるどころか立ち回りすら危うい。実力が拮抗しているなら負け確定、劣っていても苦戦を強いられるのは間違いない。
ミドリはそこを心配しているのだ。環境による戦いの相性を考えて不安になる……文明的な宇宙人だったミドリが、地球生命の一員として成長した結果と言えるだろう。
そしてその不安については、継実も否定は出来ない。
「まぁ、そん時はそん時で、根性出してなんとか頑張るしかないよね」
「雑!? 継実さん対処法が雑です! 頑張るとか根性が対処法じゃないのは文明社会の基本ですー!」
「いや、野生の基本でもあるわよ? むしろ野生の方が容赦ないまであるし」
「まぁ、それは半分冗談として。一応なんの考えもなく此処を通った訳じゃなくて、迂回路よりこっちの方が安全だと思ったから砂漠に来たんだし。それが駄目ならもうしょうがないよ」
「安全? ……あ、そっか。餌が少ないから、強い生き物も少ないんでしたっけ」
「そーそー」
思い出したように尋ねてくるミドリに、継実は軽い言葉で肯定する。
熱帯雨林に強大なミュータントが溢れ返っていたのは、豊富な餌を糧にした結果生物が溢れ、生存競争が苛烈になったから。使えるエネルギーが豊富であるなら、そのエネルギーを使いきるのが適応的。どうエネルギーを割り振るかは生物種にもよるが、天敵対策や獲物の捕獲のためにエネルギーを割り振れば当然戦闘能力は高くなる。花中からもそう聞いたし、これまでの旅で通ってきた環境も正にその通りの生態系だった。
そして砂漠には餌が少ない。正確には生産者である植物がいないという方が正しいだろうか。いずれにせよ生息している生物の数はとても少ない筈であり、故に生存競争はあまり激しくないと考えるのが自然だ。生存競争が緩い中で戦闘能力を高めても意味がない。むしろその分のエネルギーを産卵数の増加に費やす方が適応的だろう。だから砂漠は強い生物も多くない……と継実は考えている。
勿論、これはあくまでも予想だ。そしてムスペルという出鱈目戦闘能力の持ち主がいたという想定外も起きている。しかし一番大事な、生き物の数が少ないという部分は当たっているだろう。現に継実達は今のところ、索敵に引っ掛かっている幾つかの生き物を除けば、ムスペルや巨大ミミズにしか遭遇していないのだから。
「そっか。そうですよね……ほへ」
そしてその事を一番実感出来るのは、不安がっているミドリ本人。自慢の索敵能力で生き物の少なさを確信すれば、あっさりと安堵した。
……そう、砂漠なのだから生き物が少ないのは当然。それは本心からの言葉であり、だから継実はこの砂漠を訪れた。何一つとして嘘は含まれていないし、数多の状況証拠から確信を深めている。
しかし――――
「(なーんか、少な過ぎる気がするなぁ)」
そもそも何故生物の餌、つまり植物は砂漠だと育たないのか? 十分な日差しと温度はあるし、砂漠の土壌は意外と肥沃なものである。条件だけ見れば、植物にとって良いところの方が目立つぐらいだ。
しかし誰もが答えを知っているだろう……水が致命的なまでに少ないからである。
植物にとっての水は、動物以上に欠かせない。土壌養分の吸収(正確には根で吸い上げた水を高い場所まで運ぶ)には蒸散、つまり水を外へと排泄する事で体内の圧力を変えねばならない。また光合成で作り出される炭水化物は、水分子に含まれる水素を原料としている。動物は水を『栄養』には出来ないが、植物は水を栄養にして生きているのだ。そして植物の身体は大部分が水と
それほどまでに水が必要な植物なのだから、その水が殆ど得られない砂漠で育つ事が出来ないのは至極当然であろう。継実だって砂漠に森林や草原があるべきだとは思わない。
されどこの地にいるのはミュータントだ。
「(砂漠育ちでもない私達が平気で生きているんだし、砂漠に適応した植物ならそこそこ生えていそうなんだけど)」
或いはムスペルの存在に恐怖して、誰もが遠くに逃げたり身を隠したりしたのか。ムスペルの力は大蛇ほどではないが、匹敵するだけの強さはあるのだ。植物達が素早く枯れて、種子の形で生き延びようとしている可能性はある。
ニューギニア島での経験からそんな考えも過ぎったが、しかし自分達の周りには小さな生き物の姿がちらほらとある。恐らく大蛇とヒトガタが激戦を繰り広げていたニューギニア島と違い、ムスペルは単独でこの地の頂点に君臨しているのだろう。だから本気の激戦が起きる事は稀で、小さな生き物達はそこまで脅威だと感じていないのかも知れない。
それはそれで良い知らせだが、ますます生き物が少ない理由が不可思議に思えてきて。
「(……ま、いっか)」
されど継実は一度、その疑問を頭の隅へと寄せた。考えたところで答えを出すには情報が足りない。自分達は、この砂漠を訪れたばかりなのだから。
それよりも、極めて重大な問題が別にある。継実は砂漠を訪れた当初から考えていたし、モモも端から分かっているだろうが……改めて気持ちを引き締めねばならない。
「……さて。遊びはここまでにして、そろそろ覚悟を決めないとね」
「そうね。気を緩める訳にはいかない、というか此処から気を引き締めないとって感じ?」
「え。か、覚悟? ど、どういう事ですか? 何か恐ろしい敵がいるんですか?」
継実とモモと違い、ミドリだけがおろおろする。何か脅威がいるのかと、辺りを必死に索敵しているのだろう。
いっそ、そうであったならマシだった。
これより訪れるはこれまでの旅路で最大の危機。どんな恐ろしい生物よりも抗いようのない、或いは全てのミュータントにとって絶望的状況だ。覚悟を決めてどうにかなるものではないが、覚悟を決めねば半ばで挫折し、二度と立ち上がれないだろう。
真剣な面持ちで振り返った継実と目が合い、ミドリはごくりと息を飲む。されどどれだけ覚悟をしても、きっと打ちのめされてしまうに違いない。
継実だって、覚悟は出来ても受け入れる事は出来ていないのだから。
「今日、多分ご飯抜きだから」
継実は恐ろしい一言をミドリに告げる。
ポカンとした表情を浮かべたミドリが、砂漠中に響き渡るような悲鳴を上げたのは、それから間もなくの事だった。
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