第十章 干からびる生命

干からびる生命01

 ギラギラと輝く太陽が、地上を痛いほどに照り付ける。

 空には太陽を遮るものは一つとしてない。雲だけでなく、樹木の葉一枚たりともだ。いや、そもそも地上に影を作るものは一つとして見当たらないと言うべきだろう。地平線の先まで続くのは、黄土色の砂ばかりなのだから。

 砂に覆われた大地は直射日光を存分に浴び、時間が経つほどその温度を際限なく高めていく。ゆらゆらと遠くの大地が水面のように揺らめいて見えるのは、所謂逃げ水蜃気楼か。蜃気楼とは地上が非常に熱くなり、その結果大気密度が低下する事で生じる現象。日本でも真夏のアスファルトでよく見られるこの現象だが、この地の暑さは真夏の日本どころでは済まない。湿度の低さは暑さを和らげてくれるものだが、それ以上に気温が高い有り様だ。

 正に灼熱地獄。此処から数百メートル北に進めば戻れば広がる荒野が、草が疎らにでも生えているだけ楽園のように思えてくるほどの過酷さである。七年前の人類であればなんの装備もなく ― 或いは装備があっても万一遭難でもしようものなら ― 挑めば、その命運は確実に尽きたに違いない。


「おー! 絶景ですねー!」


 そんな地獄に降り立った少女こと、ミドリは物見遊山としか思えない軽薄な声で、目の前に広がる砂漠を褒め称えた。装備どころか真っ裸で、前屈みになるのと同時にたわわな胸部の脂肪を揺らしながら。

 七年前の人類だったならこの時点で人生終了と言いたいところだが、しかしミドリの傍に立つ継実は何も言わない。むしろその言葉に同意するように、同じく呑気で警戒心のない笑みを浮かべながら砂漠の風景を眺める。

 何しろ継実とミドリは、人間のミュータントだ。ミュータントとなっていない七年前の人間にとっては致命的な暑さも、原水爆の炎すら耐えられる今の彼女達の身体にとっては気温差とすら呼べないもの。例え灼熱地獄の中だろうが観光気分で過ごせる。お陰で砂漠の雄大な景色を心から楽しむ事が出来た。

 唯一暇そうなのは、犬であるモモだけだ。眉を顰め、尻尾はだらんと垂れ下がる。全く興味がない事を、犬らしく全身で表現していた。


「絶景ねぇ……こんなの砂がたくさんあるだけじゃない。何が良いんだか、私にはよく分からないわ」


「えぇー? 綺麗な景色じゃないですかぁ。こんな風景今まで見た事もないでしょう?」


「見た事ないけど、でもやっぱり砂だけの景色じゃない。面白味がないわ」


 正直な意見を述べるモモに、ミドリは「えぇー?」と不思議そうな声を出す。納得いかないようであり、じとっとした目でモモを見ていた。

 同じく感動していた継実としては、ミドリの意見に同意したいところだが……モモの意見も分かる。実際モモが言う通り、眼の前に広がる砂漠を客観的に説明するなら『砂だらけの環境』だ。この景色に感動するなら、同じく砂だけの地形である砂場にも感動しなければでない。

 モモの意見を風情がないと言うのは、人間の勝手な見方というものだ。モモは合理的な自らの想いを正直に言っただけである。


「モモは風情がないなぁ」


 なお継実は勝手な人間野生動物なので、モモと同じく思った事を正直に言うのだが。

 そして本当に風情がないモモは、そう言われたところでなんとも思わない。


「風情なんてどーでも良いでしょうが。それより、此処を越えればいよいよオーストラリアの南端に着くんでしょ?」


「うん。その筈だよ」


「長かった、というほどの期間じゃないけど、そろそろこの旅も終わりねぇ」


「……そうだねぇ」


 モモの意見に頷きながら、継実は想いを巡らせる。

 この砂漠――――オーストラリア中心部に位置する巨大砂漠を乗り越えれば、いよいよ南極へと通じる海に到達する。もう道中として利用する島も大陸もなく、海岸に到達してしまえば残すは海を渡るだけ。だから陸地としては此処が最後の旅路と言えるかも知れない。

 長い旅立った、と振り返るほどのものではないだろう。何しろ精々一月か二月程度の旅なのだから。しかし数多の脅威を切り抜けてきた経験と、日本では見られなかった景色の数々は、文明崩壊からの七年間と比べても引けを取らない濃さの思い出を作ってくれた。有り体な表現ではあるが、一生忘れられない記憶というやつだ。

 その終わりが来る事に、一抹の寂しさを覚えないと言えば嘘になる。


「……ちょっと、寂しいですね」


 ミドリはぽつりと、継実と同じ気持ちを吐露した。


「んー? 寂しくはないでしょ。つか大変な事ばかりだったし、そろそろのんびり休みたくない?」


 しかし現実的なモモは、やっぱり人間二人の意見とは反りが合わず。

 今度ばかりは、ミドリだけでなく継実もじっとりとした眼差しでモモを睨んだ。


「……モモさん、やっぱり風情がないです」


「犬に何を求めてんのよ。私に出来るのは人間に身体を存分に触らせたり、ご飯を食べさせてもらったり、それとボールとかタオルをぶん回して遊んであげたりする事ぐらいよ!」


「それは人間がしてほしい事じゃなくて、モモさんがしてほしい事じゃないですかぁ……」


「? 犬の仕事は全力で人間に甘える事でしょ? 私の元飼い主はそう言ってたわよ」


 飼い主の酷く偏った(しかし愛犬家ならば恐らく全員同意する)意見に感化されたモモの言葉にミドリは呆れ、継実はくすりと笑う。

 されど確かにモモの言う通りだ。大変な事ばかりの旅だったから、そろそろ一休みを挟みたいところ。大体そんなに旅が恋しいなら、南極に着いた後に。目的なんてなんでも良いし、いっそ本当に物見遊山でも構わない。文明崩壊後の世界で生きる自分達を縛るものなんて、何もないのだから。

 それよりも。


「つーか、ミドリはちょっと気が緩み過ぎ。昨日コアラにやられた事、もう忘れたの?」


 モモが指摘したように、今はまだ旅の真っ只中だ。

 先日コアラの手により全滅し掛けたのは、全て気が緩んだ自分の責任だと継実は思っている。それと同時に改めて痛感した。自然や生物はこちらがどんな感傷に浸っていようとも、容赦なく襲い掛かってくる。旅の途中、いや、例え南極に辿り着いてからでも、油断するなどあってはならない。のんびり休みたいとモモは語っていたが、実際には、辿り着いてからも彼女の警戒が完全に緩む事はないだろう。

 この砂漠でも同じだ。どれだけ美しい景色の中でも、ミュータントは構わずやってくる。風景の美しさから感動に浸っていたら、背後からやってきた巨大な口にも気付けまい。情動は頭の隅に起き、常に危険を意識し続ける。それが野生で生きるという事。

 その心構えが足りていないと窘められたミドリであるが、彼女の顔に浮かぶのは反省の色ではない。代わりに作ったのは、不満げなふくれっ面だった。


「覚えてますぅー。あたしだって無警戒に喜んでなんていませんよ。半径五キロ圏内に危険そうな生き物の姿なし。此処は安全ですっ」


「あら、ちゃんと索敵してたのね。偉いわ。頭撫でてあげる」


「でへへー。あたしだってやる時はやるんですよー」


 嫌味でなく褒めるモモに頭を撫でられて、ミドリは心底嬉しそうな様子。実に微笑ましい光景だ。

 ただしそれを見ていた継実は、ちょっとばかり表情を引き締めていたが。


「……ミドリ。本当に、生き物はいない感じ? 一匹も?」


「? いえ、一匹もという訳では。一〜二センチの虫ならそこそこ見掛けます」


「サソリかしら? アレって毒があるのよね?」


「そーいうのはごく一部の種だけだよ。とはいえミュータントになったら、その毒性がどう変わるか分かったもんじゃないけど」


「ちなみに私が発見した虫の中で、最寄りの個体は五メートルほど先にいます。体長は多分二センチ。こちらに迫る様子はありませんね」


 あっちです、と言いながらミドリは砂漠の一ヶ所を指差す。迷いのない指の動きからして、ミドリの目には割としっかり見えているらしい。

 半径五キロに危険な生物の姿なし。

 姿を隠している可能性もあるので、どれだけ信じて良いかは微妙なところだが……ミドリの索敵は優秀だ。生物密度が非常に低いのは間違いあるまい。

 それ自体は予想通りだ。植物資源に乏しい砂漠では、たくさんの生き物は暮らしていけないのだから。

 しかし――――


「(まぁ、もう少し先に進んでから考えましょ。万が一でも此処なら、ニューギニア島の時よりはマシでしょうし)」


 脳裏を過る『最悪』は、一旦頭の隅に寄せておく。意識はしなければならないが、意識し過ぎて身動きが出来なくなるようでは本末転倒というものだ。

 臨機応変に、小心翼々に、大胆不敵に。それらを全て持ち合わせ、適切に気持ちを切り替えて、ようやく自然界で生きていける。変化を拒んでも、怯え過ぎても、油断し過ぎても待っているのは『死』の一文字。


「ま、ミドリがそう言うなら大丈夫よ。信じてるからね」


「そうね。私もあなたの事、心から信じてるわ。私達の命は預けたわよ」


「ちょ、いきなり強烈なプレッシャー掛けてくるの止めてくれません? みんなでフォローし合いましょうよ! あたしなんかに頼るのは止めましょう! 命を大事に!」


「堂々と自信がない事を宣言するわねぇ」


「その方が危険な旅の中じゃ信用出来るってもんよ。それじゃあ、しゅっぱーつ」


 継実が歩き出し、モモが後ろを付いてきて、ミドリが慌てて追い駆ける。何時も通りの動きで、三人の旅は再び動き出す。

 目の前に広がる雄大な砂漠に、継実達は本格的に挑むのだった。

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