ワイルド・アサシン11

 コアラ。

 オーストラリアに暮らす有袋類の中ではカンガルー同様高い知名度を誇る種類。個体数は人類文明全盛期には乱獲と環境破壊の影響で、絶滅が危惧されるまで減っている。人類文明が滅びた今では、かつての生息数を取り戻しているかも知れないが。

 そんなコアラの食性は植物。他の動物を襲うような気性の荒さはなく、むしろ植物の消化に多くのエネルギーを使うため、一日の大半を寝て過ごす。しかし縄張り意識が強く、同種相手にはそれなりに強気に挑む……とはいえやはり強い生物ではないので、積極的に相手を攻撃するような訳ではないが。

 ――――コアラ大好きな継実ならば、そのような生態的情報が瞬時に脳裏を過ぎっただろう。しかしモモはそこまでコアラに詳しくなく、精々草食動物だという事ぐらいしか知らない。

 それでも目の前にいるコアラが如何に奇妙で、そして『異質』であるかは理解出来た。異質と言っても見た目がおかしい訳ではない。体長七十センチ程度で、灰色の毛に覆われたずんぐりとした体躯の動物。誰もがイメージする通りの見た目をしたコアラだ。

 異質なのは雰囲気の方である。


「……グルルルルルル」


 猛獣をイメージさせる唸り声(ただし七年前の、普通のコアラも鳴き声は猛獣染みていたが)を発しながら、そのコアラはモモと向き合っていた。威嚇しているようにも聞き取れる声だが、コアラ自身に臆する様子は微塵もない。それどころかずしりと、モモがいる方にゆっくり歩みを進めてくる。

 人間の姿を取っているとはいえ、モモは犬、即ち他の動物を襲って食べる肉食獣だ。対するコアラは樹木の葉を食べる草食動物。喰う喰われるの関係であり、草食動物ならば本能的にモモを忌避する筈である。ところがコアラはまるで気にした素振りすらない。

 鈍感な奴、と考えるのはこのコアラを見くびりすぎだろう。この地にオポッサムやタスマニアデビルといった肉食動物が暮らす事は、既に確認済み。安全な孤島なら兎も角、捕食者のいる大陸でそんな能天気な生物が生き延びられる筈がないのだから。

 得体の知れない存在に、先程まで強気だったモモは僅かに警戒心を露わにする。コアラはそんなモモの気持ちを読むかのように、笑うように口角を上げて口内を覗かせた。

 その口の中を見た瞬間、モモは本能的に次々と『謎』の答えを得る。

 コアラは草食動物。そんなのはモモでも知っている常識である……が、それは七年前の常識だ。大蛇が星を砕くほどの力を振るい、フジツボが寄生虫と化し、ゴミムシが頂点捕食者として振る舞う。そんな世界で七年前の常識に頼るなんてあまりにも馬鹿馬鹿しい。信じられるのは我が身で体験した事実と、そこから導き出される考察のみ。

 だから開いた口の中に鋭い牙がずらりと並んでいたなら、このコアラは肉食性なのだと理解するしかない。


「ヴゥオボオオオオオオオオオッ!」


 猛々しい雄叫びを上げながら、肉食コアラは悠然と二本の足で仁王立ち。太い足で大地を踏み締め、捕食者のプレッシャーを放ってモモを威圧した!


「(なぁるほど、どうして継実に病気を移したのか謎だったけど、なんて事はなかったわね……これがアイツの狩りの方法って訳か)」


 びりびりと身体が痺れるほどの闘志を浴びつつ、モモもまた不敵な笑みを返しながら思考を巡らせる。

 肉食コアラの生態は恐らくこうだ。

 普段は他の、普通の草食性コアラと紛れて生息している。見た目は草食性コアラと変わらず、捕食者は区別が付かなくてつい襲ってしまうが……その瞬間を狙い、肉食コアラは体内の細菌を吹きかける。

 細菌を吹きかけられた捕食者をなんやかんやで振り切る(或いは捕食者が病気を嫌って逃げるのか)と、後は何もせずに待つだけ。捕食者はやがて病気になり、倒れ、そして死ぬ。出来上がった死肉はおぞましい菌の温床であるため他の捕食者達には手出しが出来ず、肉食コアラは悠々とその肉を頂く。

 きっとこのコアラは、昼間継実が抱っこしていた個体なのだろう。継実はあの時臭い息を吐きかけられていたが、あれで感染したのだとすれば、体内の細菌は極めて強力な感染力の持ち主だ。襲い掛かった捕食者に吐息一つで感染させられるとすれば、狩りの成功率は極めて高いだろう。しかも獲物を求めて探し回らず、止めを刺すために多くの力を使う事もなく、ライバルを追い払うために体力も消費せず。非常に効率的な手法だ。

 圧倒的効率。圧倒的殺傷力。そして捕食者を喰らう捕食者。即ち『生態系の頂点』……奴こそがオーストラリア大陸を支配する、真の頂点捕食者という訳だ。これは非常に危険な奴だと、モモは警戒心を最大に引き上げる。

 ――――ただし、もしも継実が此処にいれば、それでも足りないと判断しただろうが。

 継実はオポッサムがこのオーストラリアの生態系を、七年前とあまり変わらないものに抑え込んだ要因と考えていた。されどその考えは誤りだ。

 よくよく考えてみれば、オポッサムが原因だとすると辻褄が合わない。ミュータントの大量発生は世界で同時多発的に起きたため、オポッサムもオーストラリアの有袋類も、ほぼ同じタイミングでミュータントとなった筈だ。しかしオポッサムは南北アメリカ大陸に生息し、オーストラリアには生息していない。だから何処かのタイミングで海を渡った筈だが……問題はそのタイミング。基本的にミュータントは野生動物だ。まずは生息地で増えようとした筈であり、海を渡り始めたのはミュータントの数が増えて住心地が悪くなった頃だと考えるのが自然である。だからオポッサムがオーストラリアに来たのは、恐らくミュータント大量発生から三〜四年後だろう。

 。巨大ゴミムシすらたった数年で出現したのだから。あそこまで極端な変化でなくとも、巨大化や形態の変化があるのが自然。なのにオーストラリアにそうした生物が、『外来種』であるオポッサム以外にいないのは――――オポッサムが来る前から、巨大化した圧倒的捕食者の地位を担うものがいたからに他ならない。

 それが、目の前の肉食コアラなのだ。


「ゴアァッ!」


 肉食コアラはモモを新たな獲物と定めたのか、はたまたモモの目的……感染症の『宿主』から薬となる物質を入手するために仕留めるという意図を察知したのか。立ち上がった体勢のまま駆けるや、モモ目掛けて前足を振り下ろす!

 モモの優れた動体視力は、コアラの指にある長くて鋭い爪を見逃さない。コアラの爪は七年前の祖先ではあくまでも木登りのためのものであり、今もその役割は残っているだろう。だが、現在では獲物を殺傷するための役割も追加されたらしい。

 正確には爪ではなく、爪と指の間から染み出ているさらさらとした液体の方にだが。


「っ!」


 受け止められない速さではない。しかし反射的にモモは回避を選択。それも後退ではなく横へと逃げる。肉食コアラの爪は宙を切り、指先から出ていた液体が真っ直ぐ前に飛んで地面に付着した。

 瞬間、付着した液体に沿って地面がぐずりと溶ける。

 強酸による攻撃か。そうだとすればいくら頑丈な肉体を持っていても、防御では受け止められなかっただろう。直感に従ったお陰でダメージなしで躱せた事、そして攻撃の一つを見る事が出来た意義は大きい。

 初手の一撃が躱された肉食コアラは、しかしまだ口を笑うように歪めている。それが彼等の闘争心の示し方か、或いは本当に余裕の笑みなのか。

 どうやら後者らしい。

 肉食コアラは再び爪から液体を分泌しながら、大きく右腕を振るう。ただし今度は振り下ろしではなく、右から左へと薙ぐような動作。液体も同じく右から左へと、横向きに飛んでくる。

 先程は上から下への動作だったから、横に避けて正解だった。しかし横向きの攻撃となるとそうもいかない。

 回避すべき方角は、上。


「ほっ!」


 モモは素早く跳躍。縄を跳び越えるように、飛んできた液体を回避した。

 しかし肉食コアラは悔しがるどころか、変わらずニタニタとした笑みを浮かべるだけ。

 向こうとて百戦錬磨の捕食者。この程度の展開は想定通り、いや、予定通りと言ったところか。跳躍での回避には、空を飛べない限りは身動きが出来なくなるという弱点がある。しかも重力加速度、つまり毎秒九・八メートルの加速度でしか落下出来ない。

 ミュータントでなければ、その瞬間を付くのは余程の達人以外には無理だろう。されどミュータントにとってはあまりに長い時間で、あまりにも遅い動き。肉食コアラは追撃として空中に浮かぶモモ目掛けて再び腕を振るった。

 勿論モモも跳べばこうなるのは想定済み。

 モモは手から体毛を射出するように伸ばし、近場の地面に打ち込む。そして最大級の力でその体毛を巻き取った。引き寄せる体毛は地面に固定されているため、動くのは実質モモの身体。

 これがモモの空中移動術。だだっ広くて障害物がない平原では真下か斜め下にしか動けないが、それでも空中での移動制限を幾らか取っ払えるのは大きな利点だ。肉食コアラの攻撃も限りなく真横に近い角度で跳び、液体を掠めるようにして回避する。


「今度はこっちの番よ!」


 次いで新たに体毛を地面に打ち込んで、今度は正面水平方向へと跳躍。肉食コアラの顔面へと突撃を仕掛ける!

 今度は肉食コアラが隙だらけだ。攻撃のために大きく腕を振っており、体勢が崩れている。素早く腕を立てるようにして守備を固めたのは流石だが、つまるところ奴は攻撃の回避は諦めたとも言えた。

 モモは容赦なく、構えた腕に手加減なしの蹴りを放つ。腕と脚が激突した瞬間、台風よりも強力な衝撃波が発生。蹴った際の反作用もあって、モモは肉食コアラから遠ざかるように飛んでいく。

 肉食コアラから数メートルと離れたところでモモは着地。素早く立ち上がり、肉食コアラを正面から睨む。

 戦いにおいて、最初の一撃を決めるのは大きなアドバンテージだ。ダメージは相手の身体の動きを鈍らせ、次のダメージを与えやすくするし、放つ攻撃を躱しやすくしてくれる。勿論それだけで勝負が決まるほど甘い世界ではないが、初手を決めていなければ負けていたという相手も少なくない。

 その意味では、ガードされたとはいえ一撃喰らわせたモモの方がこの戦いは有利になった。が、モモはそう思わない。何故ならモモも同じく攻撃を喰らったからだ。

 その結果として、蹴りを放った方の足がどろどろと溶け始めていた。肉食コアラの腕から分泌されていた、強酸のような液体に触れたのが原因である。


「(……病気にならなかったのが私で良かったわ。継実がコイツと戦ったら、多分なんも出来ずに負けてるわね)」


 今の一瞬で交わした攻防から、そして自分の足を蝕む液体の性質から、継実との相性の悪さを理解するモモ。

 肉食コアラから出ている液体は、正確には強酸ではない。

 液体は、まるで蝕むようにモモの体毛で編んだ身体を分解していた。毛の主成分であるタンパク質ケラチンを分解しては次へ、分解しては次へと、際限なく分解していく様はまるで触媒作用を持つ酵素のよう。更に多種多様な化学物質も放出しており、細胞がこの液体に接すれば、例え分解される事がない濃度でも悪影響を受けるだろう。勿論モモには化学物質なんて見えないが、鼻を付く臭いから『触れたらヤバい』というのは理解出来た。

 正確にこの液体を表現するならば、生体に悪影響を与えるという意味で『毒』だというべきか。

 継実は粒子ビームなどの遠距離攻撃も出来るが、一番得意なのは取っ組み合いの肉弾戦だ。此度の肉食コアラにも、まずは拳を一発入れようとしただろう。しかしそうすると、継実は肉食コアラが分泌する液体に触れてしまっていた。そうなれば間違いなく液体の毒に身体を蝕まれ、やがて全身に致命的な機能不全が起きていただろう。モモのように体毛で編んだ身体だったから、触れても特にダメージも受けずに済んだのである。

 されど本来、継実でもそうはならない筈だ。何故なら継実は粒子操作能力により、物質をある程度自由自在に操れる。危険物質が体内に入っても、すぐに分解出来るという訳だ。

 あくまでも、普通であればの話だが。


「(どーにも無理っぽいのよねぇ)」


 モモの直感曰く、に継実の能力は通じない。根拠なんてないが、そんな気がする。

 そう、インチキ物質だ。

 ミュータントというが、その身体は普通の物質で出来ている。細胞が合成するものだって割と普通だ。変化があるのは量子ゆらぎの力により生み出されたもの。人類文明を置き去りにする、能力から生じるものが基本である。

 常軌を逸する物質があるならば、それこそが奴の能力と考えるのが自然。生体を、生命を脅かす、禍々しい物質の合成とコントロールこそが生きるための力。


「コイツ、毒を操るのが能力か……!」


 それがモモの辿り着いた答えだった。

 ――――モモは気付いていないが、そもそもにして、コアラは毒と深い関わりを持つ生物だ。

 彼等が好んで食べるのはユーカリの葉。このユーカリには青酸が多分に含まれており、多くの生物にとっては有毒だ。しかしコアラはこの毒素を分解するための消化酵素と、発酵を促す腸内細菌により無毒化に成功。ライバルのいない食べ物を貪り、繁栄したのである。

 ミュータント化したコアラは、体内に取り込んだ毒を操る力を会得したのだ。更にはその毒素によって凶悪な腸内細菌をコントロールし、狩りに応用出来るようになった。そして毒とは、言い換えれば薬である。正確に言うならば『身体に悪い影響がある』のが毒で、『身体に良い影響があるように調整した』のが薬。両者に本質的な差はない。

 腸内細菌は常に体内に存在し続けている以上、制御のための毒素も常に分泌している。だから肉食コアラを仕留めて食せばそれだけで

 継実であれば、ここでようやく自分の考えが正しいと確信したところ。しかし端から継実の考えを信じているモモにとっては今更な話だ。


「さぁて、そろそろ本番ね……準備運動は終わりよ」


 だからモモは喜びも何も示さず、猛毒を持つ『獲物』への警戒心を釣り上げるのみ。捕食者の眼光で肉食コアラを睨みながら、程良く温まってきた身体で構えを取る。

 対する肉食コアラも動きを見せた。

 肉食コアラは全身から液体を染み出させ、新たな姿へと変貌する。勿論それは自分が分泌したものでびしょ濡れになっただけなのだが、ふわふわとしていた毛が寝て、筋肉質な身体のラインが浮かび上がった事で雰囲気が一変していた。最早世界で一番可愛いとは言ってもらえない、猛々しく、おどろおどろしい姿と化す。

 しかしそんな表面上の変化よりも、モモがもっと気にしているのは肉食コアラの表情。 

 もう、奴は笑っていない。されど怒るような顔でもなければ、悔しがっている様子もない。いわば無表情。ただ純粋にモモを敵視し、獲物として見ている。

 向こうとしても遊びは終わりだという事だ。


「ヴオオオオオオオオオオオオオッ!」


 それは一際大きな、大気のみならず大地さえも揺さぶりそうなほどの咆哮でも示されて。

 けれども何一つ恐れなかったモモは、叫んでいる最中の顔面に迷わず殴り掛かるのだった。

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