ワイルド・アサシン10

「……うぶぇ、ええぇぇ……」


 ミドリは吐き続けていた。胃の中身を全て出し切るように。

 あまりにも唐突、そして沈痛な姿。人間のパートナーとして品種改良進化してきたモモは反射的にミドリの下へ駆け寄りたくなった。だが彼女の中にある野生の本能が、その足を一メートルと進む前に止めさせる。

 ミドリの吐瀉物から、

 ゲロなんてどれも臭い、と言ってしまえばその通りだ。しかしただ臭いだけではない。どうにも継実が倒れる前に吐いた物と同じ臭いがしているとモモは感じた。具体的には肉が腐ったような、だけど死肉も問題なく食べる肉食獣のモモですら吐き気を催すような酷い臭い。

 普通、臭いだけでは病気の判定なんて出来ないだろう。しかしモモの本能は確信する。

 恐らく、ミドリは継実と同じ病気に掛かっている。


「(まさか、継実が吐いたやつに触れたから……!?)」


 本能で察する感染源。確かに吐瀉物などから広がる伝染病は少なくないが、だとしてもミドリは身体に少し浴びただけで、口には含んでなかった筈だ。それほど感染力があるとすれば、近付くだけで感染の危険がある。

 そしてミドリが病気になった今、動けるのは自分だけ。自分が感染する訳にはいかない。


「あ、ぅ……ごめ、な、さ……」


「ミドリ! 喋らなくていいわ。兎に角今は休んで、体力を温存して! 私がなんとかする!」


 謝ろうとするミドリを止め、そのまま眠るようモモは伝える。ミドリは一瞬唇を噛み締めて悔しさを露わにしたが、ホッとしたように笑い……ぱたりと倒れてしまう。

 ミドリの顔が吐瀉物と接していて、退かしてあげたいとはモモでも思う。だが今は出来ない。その合理的判断を申し訳ないと感じないモモはすぐに思考を切り替え、現状対処を優先する。

 私がなんとかする、とは言ったものの、どうしたら良いのかなんて何一つ分からない。モモは所詮ケダモノであり、知識を有したお医者様ではないのだから。今までしてきた考察だって、結局殆どが継実からの受け売りだ。モモ自身が知っている事、分かる事なんて、本能的な事柄ばかり。難しい作戦だのなんだのなんてさっぱり思い付かなかった。

 こんな時にこそ、継実がいてくれたなら。

 難しい作戦も敵の解析も、全部やってくれていた継実。彼女さえいたなら――――モモが人間ならばそう考えていたところだろう。しかしモモは犬であり、何よりミュータント。合理的な野生動物である彼女は、気絶してしまった仲間の目覚めに期待するなんては考えないのだ。

 だから。


「も、モ……」


 まさか継実の声が聞こえてくるとは思わなくて、モモの思考は一瞬停止してしまった。次いで驚きのあまり、近付いてはいけない距離を僅かに縮めてしまう。

 遅れて本能が危険を思い出して後退り。動く前よりも離れて、無意識に風上へと移動しながら、モモは継実に呼び掛ける。


「継実! 起きたの!? 大丈夫!?」


「いや、駄目……あの宇宙人の、ナノマシンとは、訳が違うわ……ぜんっぜん、数が、減らない……体力、掻き集めて、目を開けるのが、やっとだわ」


 弱々しい言葉。口を開けるだけでも辛そうで、開いた目は今にも閉じてしまいそうだ。

 目覚めたものの体調は全く回復していない。体力を掻き集めたという言葉通り、身体に残されたエネルギーを目覚めるために総動員してこの体たらくなのだろう。

 貴重な体力を使うなら話すよりも病気の回復を、という考えが脳裏を過ぎらなかった訳ではない。しかしモモは知っていた。継実がわざわざ無駄話のために貴重な体力を使う筈がないと。

 きっと、大切な情報を伝えようとしている。ならば必要なのは継実を寝かせる事ではなく、素早く話を先に進める事だ。


「分かった。要件は?」


「二つ。一つ、この病気は、掛かったら、駄目……寝てる、間も……解析を、続けていたけど……免役も、何も、全然効かない……多分、普通の生き物じゃ、回復は、無理……」


 継実の口から語られるのは、絶望的な言葉。

 されどモモはその程度で気持ちが折れる事はない。ケダモノである彼女に諦めるという文字はないのだ。

 そもそも継実の伝えたい事は二つ。まだこれは一つ目に過ぎない。そしてその二つ目は、どうやら悪くない話のようである。

 何故なら継実が笑っているから。

 きっとミドリでも気付かない、七年間一緒に暮らしてきたモモ以外には分からない笑み。そして自暴自棄になったようでもなければ、末期を悟った様子でもない。

 継実の言葉を、モモは待つ。継実は息を整えてから、二つ目の話を始めた。


「二つ、目。こんな馬鹿げた菌、普通の、病気じゃ、ない。多分、共生してる、宿主が、いる……」


「ええ、それは私も分かってるわ。それで?」


「だけど、この菌、素の強さが、滅茶苦茶、だから……宿主との相性とか、関係ない。抑えるには、宿主の方が、何かしてる、筈……例えば、抗生物質、みたいなものを出す、とか……」


「……!」


 継実の話はまだ途中。けれどもモモは相棒の伝えたい内容を察する。

 病原体と宿主は、双方が数多の屍を積み上げながら、最終的には共存するもの。しかしその共存は病原体側の変化だけで起きるものではない。宿主が病原体を克服するという形でも起こり得るのだ。例えば、のも一つの進化の形だろう。

 そして宿主が病原体を抑えるのになんらかの物質を使っているとしたら、その物質を口にすれば『薬』になるのではないか?

 極めて単純な発想だとはモモ自身思う。この細菌の宿主が物質で細菌達を抑えているというのも、あくまでも継実の予想だ。不確かな可能性であり、そこに全てを賭けるにはリスクが大きいだろう。

 しかし無視するには、十分過ぎるほど理屈が通っている。他に縋るものもない。

 何よりモモの野生の直感が言っている。

 、と。


「ごめん。宿主までは、分からないけど、でも……!」


 継実が話を続けようとして、モモは片手を継実の方へと突き出した。もうそれ以上喋らなくて良いと伝えるために。

 次いでにやりと勝ち気な笑みを継実に見せる。


「後は私に任せなさいっ! その宿主とやらを仕留めて、ここに持ってきてあげるわ!」


 そして一片の迷いもない言葉を、継実に伝えた。

 継実がその言葉をどう受け止めたのか、何を思ったのか。間もなく力尽きるように倒れてしまったので、本当のところは何も分からない。

 だがモモの心には「任せた」という言葉が聞こえてきた。これが『自分の求めている言葉』だというのはモモも自覚しているが、そんなのはどうでも良いだろう。

 その言葉で気合いが入るのだから、何も問題はないのだ。


「(そう、何も問題はない!)」


 モモは力強く、地平線の先に視線を向ける。

 宿主が誰なのか、モモは

 残る問題は何処に宿主がいるのかだが、それについても既に見当は付いていた。自分達の周りを囲っていた動物達の気配に、少し前から変化が起きていたが故に。

 一ヶ所だけ、気配の密度が大きく下がっている。まるで何かを避ける、いや、やってきた何かから逃げるかのよう。答えが分かったモモにとって、そこで何が起きているのかを察するのは容易い。

 ついでに宿主の目的も。


「……ついにお出ましという訳ね」


 恐らく、宿主がここまで接近してくる事はない。そのぐらいの用心深さはあるだろう。だが、逃げ出す事もない。何故なら奴は、自分達を狙っているのだから。正確には、倒れている継実とミドリだろうが。

 即ち逃げようと思えば、モモだけなら逃げられる。

 尤も、モモの脳裏にはそんな考えなど微塵も過ぎらない。もしも継実に意識があればモモだけでも逃げてとでも言っただろうが、生憎その気持ちを汲んでやるつもりなど毛頭ないのだ。

 何故ならモモは犬だから。

 飼い主の都合も気持ちもお構いなしに、傍若無人かつ自由気ままに、飼い主に尽くして甘える事こそが生き甲斐――――それが犬というものだ!


「待ってなさい! 今、そっちに向かうか、らァッ!」


 モモは全速力で、気配が乱れている場所に向けて駆け出した!

 夜の草原を駆け抜けていくモモに、周りの視線が集まる。野生動物達の視線には悪意も憐れみもない。そこに込められる想いは自分の損得だけ。純粋な利得感情は、浴びる身としてはいっそ清々しいぐらいだ。

 ただ一つ、正面からモモを射抜くように飛んでくる視線だけは別。

 ねっとりとした、嫌味で、傲慢で、邪悪な気持ちを感じる……気がした。気がしただけだから勘違いかも知れない。或いは継実達を守るため、全力で挑めるよう自身の本能が勝手にお膳立てしているのか。なんにせよこの視線を放つ奴に、一切手加減をしてやろうという気にモモはならない。いいや、するつもりもない。

 まだまだ三人旅を続けたい。

 相手を殺す理由などこれで十分。自分の欲望の叶えるためなら命を奪う事すら厭わない。ケダモノとは、そういう存在なのだから。

 何千メートルと走り抜けるのに、モモの足なら十秒も掛からない。地平線の先へと辿り着いたモモは、そこでぴたりと、自慢の脚力を使って瞬時に立ち止まった。

 そのまま、目の前にいる『宿主』に向けて話し掛ける。


「……やっぱり、アンタが元凶だった訳だ。ま、臭いで分かっていたけどさ」


 モモが問えば、宿主は笑うように鳴いた。唸るような、せせら笑うような、重々しい重低音。

 そして四本足で大地を歩きながら、真っ直ぐこちらに歩き――――継実曰く世界で一番可愛い生き物は顔を上げる。

 地上を歩く『コアラ』の不気味な眼が、モモをじぃっと見つめていた。

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