ワイルド・アサシン09

 夜のオーストラリアは、モモにとっては極めて五月蝿かった。

 ただしその喧しさは音によるものではない。事実『音』に関しては、精々虫の音がそこら中から聞こえてくるだけ。獣の雄叫びや戦闘時の爆音などがなく、聴覚的な意味では静かで落ち着いた夜と言えるだろう

 だが、気配は違う。

 周りを走り回る動物達の忙しなさ。何かを押し付け合うような群れの動き。鉢合わせた獣同士の牽制。気配を感じ取る側からしたら、正直『鬱陶しい』と思うぐらいだ。あまりにも気配が多過ぎて、一体どれほどの生命がひしめいているのか分からないほど。

 一切の油断を許さない状況だ。モモもそれらの気配の動きに意識を集中し、動向を正確に把握しようとする。

 ただしその目的は獣達の奇襲を防ぐためではなく……獣達を存在を見付け出すためなのだが。


「(パニックって訳じゃないけど、明らかに冷静じゃないわね)」


 『原因』を何も知らないモモは、まるで全てを見通しているかのように、実際はなんにも分からなくて呆けているだけだが、そんな思考を抱いていた。

 三百六十度、隠れる場所が一切ない平原のど真ん中で胡座を掻いて座るモモ。背後で眠るミドリと意識喪失状態の継実に近付く輩がいないか注意しているが、どうにもそんな気配はいない。獣達の動揺や混乱は消えず、気配が右往左往しているだけ。

 お陰で普段継実に任せている、あまり得意じゃない『思索』を自分のペースで巡らせるだけの余裕がモモにはあった。


「(普通、病人なんて抱えていたら間違いなく襲撃される)」


 一般的に、自然界で病気が蔓延する事は稀だ。

 それは同種と遭遇する事すら稀な単独生活者のみならず、何時も群れで動きているような生物にも当て嵌まる。同じ水場で水を飲み、同じ餌を食べ、同じ場所で眠って……病気が広がらない理由などなさそうだが、どうして蔓延しないのか?

 答えは、病気になった個体は真っ先に捕食者に食べられてしまうから。

 捕食者は病気になった個体を狙う訳ではない。しかし病気になれば身体が重く、症状の重さによっては意識が朦朧としてくるもの。そんな状態では逃げる事すら覚束ず、結果、捕食者はあたかも選別したかのように病気の個体を仕留める事になる訳だ。人間文明人であれば病気の動物を食べるなんて嫌がるだろうが、病気というのは基本的には種を跨いで伝染するものではない。種によって免疫システムは異なるため、病原体側もなんでもかんでも突破するのは無理だからだ。リスクはゼロではないが、騒ぐほど大きくもない。何より過酷な野生の世界で、獲物の選り好みをしている余裕なんてない。よって肉食獣が病気の個体を避ける事は、基本的にはないのである。

 要するに今の継実病人は狙いやすい獲物であり、自然界では真っ先に殺される存在の筈だという事。

 ところがそれを襲おうとする動物は今のところいない。勿論襲ってほしいなんてモモな露ほども思わないが、異常事態に安堵するほど無警戒ではないのだ。何が原因なのかを知るまで、安心なんて出来やしない。

 幸い誰も襲い掛かってこないなら、考え事に浸る時間はたっぷりとある。


「(可能性その一。とんでもない化け物が私達を狙っているから、他の生物が手を出せない)」


 直感的に過ぎる可能性の一つをモモは検証してみる事にした。

 捕食者達は決して無感情で考えなしなロボットではない。自分の身に危険が迫れば、どんなに美味しそうな獲物を前にしても諦めて立ち去るものだ。例えるなら、食事中のライオンに近付くチーターがいないように。

 此度モモ達の周りにいる獣達も、何か凶悪な生命体を恐れ、前に出る事が出来ないのだろうか?

 可能性は低くないとモモは思う。周りの気配の動き方から、ハッキリとした恐怖心が感じられたからだ。全部がそうとは言い切れないが、少なくとも一部の生物は、この可能性その一が理由で近付いていない。

 ならば次の問題は、一体何を恐れているのか、だ。

 これがさっぱり分からない。


「(そんな露骨な気配、何処にもないんだけどなぁ)」


 モモが感じ取れる範囲内に、獣達を混乱させるほどの強い気配はなかった。だとすると気配を消しているのだろうか? 強い生物であればあるほど、獲物を仕留めるためには気配を消す力が優れていなければならない。そうでなければ獲物に近付く前に逃げられてしまう。ならばモモ達に悟られないよう、気配を消して迫っている可能性もゼロでは……

 と考えてみたが、どうもモモにはしっくりこない。

 もしも気配をちゃんと消しているのなら、自分達を取り囲む動物達が混乱している筈がないのだ。それにもしも恐ろしい猛獣がやってきているなら、猛獣に近い場所ほど混乱は大きい筈。ところが気配を探る限り混乱度合いは一律、と呼べるほど綺麗な分布はしていないが、有意な差は見られない。

 加えて誰もが恐れるぐらい強い生物なら、そこそこ身体が大きい筈だ。巨大ゴミムシが良い例だろう。しかしモモの全方位に広がる広大な草原の何処にも、そんなインチキ生物の姿はない。此処は地平線まで真っ平らな草原という身を隠せるようなものが何処にもない環境であり、巨大生物がいれば丸見えになるからだ。とはいえかつて出会ったフィアやアホウドリのように小さくてもべらぼうに強い例外もいるので、あまり断言は出来ないが……

 なんにせよ、可能性その一はどうにもしっくりこない。完全に間違っている訳ではなさそうだが、モモは、自分の考えが何か根本的に間違えているような気がした。


「(つーか、怖がられているのは私達の方のような気がするんだけど)」


 そこで次に考えるのは可能性その二。

 継実の病気が、この地では酷く恐れられているものなのではないか。

 ミュータントが原因で起きている病気だ。驚異的感染力や致死力を誇っていたとしても、何も驚く事はない。この地に暮らす生物達は病気の恐ろしさをよく知っていて、継実がその病気の兆候を見せているから近付けないのではないか。

 そう考えると、周りの生物達の動きにも説明が付く。全方位の生物が均等に恐れ慄いているのは、他ならぬ継実が怖いから。近付きもしないのも感染を恐れての事。成程、生き物達については辻褄が合う――――

 そこまで考えて、この考えもモモは受け入れ難いと感じた。継実が患った病気がそんなに酷いなんて信じたくない、なんてミドリのような感情的理由ではなく。


「(なんか継実が言ってた気がするんだけど、感染症って症状が強いと不利なんだっけ?)」


 何年か前、継実から聞いていた話を思い出したからだ。

 病気の原因である菌やウィルスが生き物を苦しめるのは、別に奴等が悪意に満ちているからではない。彼等の目的はあくまでも自分が繁殖するため。タンパク質やら水やらをたっぷり含んだ宿主の身体を『食糧』として、ウィルスの場合は生物の増殖機能を利用するため、生き物の身体に取り付く訳だ。生物体内部は温度も増殖するのに適しているし、免疫云々を抜きに考えれば実に居心地が良い場所。しかも宿主は勝手に歩き回り、どんどん同種と接触して新しい住処を提供してくれる。正に至れり尽くせり。利用したくなる気持ちは、野生動物であるモモには分からなくもないものである。

 しかし考えなしに増えると、折角の宿主が死んでしまう。宿主からすれば身体中を食い荒らされるようなものなのだから当然だ。死んでしまった宿主の身体は冷たくなって暮らし難いし、動かないから感染を広げる役にも立たない。それどころか巨大な監獄と化し、病原体達を閉じ込めてしまう。行き場をなくした細菌やウィルスは、宿主の亡骸と共に朽ちるのを待つだけ。死なないとしてもダメージが大きくなれば宿主は動かなくなり、飢えによる衰弱や、或いは天敵の攻撃によってやっぱり死んでしまう。

 これを防ぐ一番の方法は、自分達の繁殖を加減するというもの。

 そうすれば細菌やウィルスは宿主の身体を長い間利用出来るし、宿主は何時までも動き回って感染を広めてくれるので子孫繁栄にはプラスに働く。弱っていると捕食者に身体ごと食べられてしまうので、出来れば咳や倦怠感などの症状も出ない方が良い。

 かくしてウィルスや細菌は世代を重ねる毎に弱毒化、つまり繁殖力や毒素の分泌能力が低下していく傾向にある。例えば鳥インフルエンザは本来の宿主である水鳥相手には症状すら出さないし、人間の皮膚常在菌も身体の免役が弱っていない限りはなんら害をもたらさない。宿主を瞬く間に殺してしまう病気体もあるにはあるが、そういう存在はハッキリ言ってレア中のレア。致死率〇・一パーセント未満のインフルエンザの感染者数が日本だけで年間一千万人を超えているのに対し、致死率八十〜九十パーセントのエボラ出血熱が歴史上最大の流行でも三万人にいかない程度でしかない。病気の世界で最も成功しているのは『ただの風邪』という訳だ。

 ……と、継実が教えてくれた。モモは別にお馬鹿ではないので、説明してもらえれば理屈は理解出来るし、それを応用した考えも出来る。真面目に思い出す事があまりないだけで。

 継実の話通りの観点に立ってみれば、継実に感染している病原体はハッキリ言って『間抜け』だ。折角の宿主を、症状が現れてから僅か数時間で危険な状態にしている。これでは動き回って感染を広めるどころじゃない。しかも捕食者達が病気にビビっているとしたら、もうどうやっても次の宿主に出会えないではないか。

 こんな病気、普通はすぐに絶滅する。或いは突然変異で生まれた『不適応』な菌に継実は不運にも感染したのか……


「……んぁ?」


 そこまで考えて、モモは首を傾げた。傾げた首を元の位置に戻しつつ、覚えた違和感に意識を向けて再び考える。

 続いてモモは、大きくその目を見開いた。

 宿主を即座に殺してしまうような菌は、すぐに絶滅する。或いは突然変異を起こした、この場限りの菌だとする。

 そういう存在を、周りの捕食者達がどうやって知るというのか? 知れる訳がない。進化というのはたった一度きりの災難に対応するような、超能力染みたものではないのだ。いや、仮に継続的な存在だとしても、数が少なければやはり病気の存在そのものを警戒するような進化は起きないだろう。もしも病気が極めて稀なものであるなら、その病気と似た症状が出ている生物を見逃して空腹に喘ぐよりも、襲って満腹になる方が全体としては適応的だからだ。生命の進化は個体の幸福ではなく、血族全体の繁栄を促す方に進むのである。

 捕食者が怖がるには、病気が継続的に存在していて、更にそこそこあり触れていなければならない。感染を広げるチャンスが殆どなさそうなぐらい危険な病気が、そんな条件を満たせる筈がないだろう。第一次世界大戦の塹壕内(新鮮な『宿主』が常時補給される超過密地帯)のような環境であれば強毒化繁殖力強化の方に進化するらしいが、だだっ広いオーストラリアの大草原にそんな環境がある筈もない。では可能性そのニは、やはり大間違いなのだろうか?

 違う。一つだけ、その条件を満たす可能性があるとモモは気付く。

 宿

 これなら感染症の原因菌がどれだけ一般的な生物に対して致死率が高くとも、宿主にさえ無害ならば存続可能だ。それだけなら宿主に近付かなければ良くなるが……その宿主自身が積極的に伝染病を広めているなら、宿主だけを回避しても意味がない。宿主に病気を移された個体からも離れなければならず、しかも遭遇頻度はかなりのもの。これなら、病気を恐れる進化をするだろう。

 モモはここまで難しい理屈は考えていない。だが直感的に、誰かが広めているならあり触れた病気になるとは思った。そして宿主が積極的に感染症を広める理由にも思い当たる。

 だとすると……


「ぅ、うう……」


 考えが纏り始めた時、傍から呻きが聞こえた。

 ミドリの口から出てきた声だ。眠っていた筈の彼女はむくりと身体を起こし、モモの方を見ている。


「ん? どしたのミドリ?」


 モモは首を傾げながら問う。ミドリの索敵能力は極めて優秀だが、どうにも本能が未熟な彼女は危険が迫っても夜中にパッと目覚めた事がない。こうして真夜中に起き上がった事それ自体にモモは興味を持つ。

 しかしミドリは何も答えない。

 答えないが、ミドリの身体はふらふらと左右に揺れていた。それに暗闇の中の顔は虚ろであり、暗くてよく見えないが……血色が酷く悪い。きっと昼間に見たならビックリするほど真っ青なのだろう。

 倒れる前に見せた、誰かの顔のように。

 嫌な予感がする――――モモがそう感じた直後の事だ。


「……うぶぇ」


 モモの目の前で、ミドリは嘔吐するのだった。

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